149.君の音に触れた日
149.君の音に触れた日
その日、空はどこまでも澄んでいて、冷たいけれど心地よい春の光が差していた。
会場は、市の文化ホール。小さな音楽発表会だったけれど、ロビーには親子連れや音楽関係者らしい大人たちの姿もちらほらと見える。
陽翔は少し緊張した面持ちで客席に座っていた。由愛の演奏はプログラムの後半。舞台袖の方を何度か気にしながら、手にした小冊子を開く。
(大丈夫かな……)
由愛が真剣に練習していたのを知っている。何度も「失敗したらどうしよう」とこぼしていたことも。
やがて、舞台に司会者の声が響いた。
「続いては、橘由愛さん。演奏曲は、ショパンの『ノクターン第20番』です」
客席が静まり返るなか、由愛がピアノの前に現れた。
清楚な白のブラウスに黒のロングスカート。陽翔には見慣れた制服姿とは違う、少し背伸びした彼女の姿に、胸が少しだけ高鳴った。
由愛は一礼をして、深く息を吸い、鍵盤に手を置く。
そして——
最初の一音が響いた瞬間、空気が変わった。
それは柔らかく、繊細で、だけど芯のある音色だった。彼女が今まで見せてきた、少し遠慮がちな笑顔や、小さな勇気や、優しさや、迷いまで、すべてが旋律になって流れ出すようだった。
(……すごい)
陽翔は、ただ静かに聴いていた。
まるで、彼女の心そのものを、音で感じているようで——途中、胸の奥がじんと熱くなった。
演奏が終わった瞬間、会場に拍手が広がった。けれど陽翔だけは、しばらく動けずにいた。
舞台袖へと引き下がっていく由愛の姿を目で追いながら、心の中で呟いた。
(由愛は、やっぱりすごい。ちゃんと“自分”の音を持ってる)
その時、彼の中で小さな確信が生まれていた。
(俺も、負けていられない)
夢はまだぼんやりしている。けれど、彼女の隣にいるために、自分も何かを見つけたい——そんな思いが、強く根を張り始めていた。




