130.進路と、揺れる想い
130.進路と、揺れる想い
夏休みも終盤に差しかかったある午後。
校舎裏の木陰、誰もいない静かな場所に、陽翔と由愛の姿があった。
セミの声が少し遠ざかり、風だけが心地よく吹いている。
「……なあ、由愛」
「うん?」
「俺さ……将来、何になりたいか、正直まだよく分かんないんだ」
由愛はそっと目を向けた。陽翔は、少し遠くの空を見ている。
「小さい頃は、何となく“先生”とか“研究者”とか思ってた。勉強は好きだし、得意って言われることも多いけど……それだけじゃダメな気がしてて」
「……うん」
「最近、まわりが少しずつ“進路”とか“志望校”とか言い出しててさ。なんか、焦るんだ。俺、本当にこれでいいのかなって」
その横顔は、自分に問いかけるように、静かで、でもどこか苦しそうだった。
由愛は、陽翔がいつも誰よりも頑張っていることを知っていた。
でも、そういう人ほど、自分に厳しくて、未来に迷いを抱えてしまうのかもしれない。
「……ねえ、陽翔くん」
「ん?」
「私は、どんな道を選んだとしても……陽翔くんが真剣に考えて、自分で決めたなら、それを信じたいって思う」
そう言って、由愛はゆっくりと笑った。
「きっと、悩むってことは、それだけちゃんと考えてるってことだよ。焦らなくていいと思う。私も、まだちゃんとは決まってないし」
陽翔は彼女の瞳を見つめる。
真っ直ぐで、優しくて、でも時に彼よりもずっと強い心を持っている。そんな由愛の存在が、今、何よりも心強かった。
「……ありがとう。ちょっとだけ、気が楽になった」
「ちょっとだけ?」
「じゃあ、もっとほしい」
そう言って、由愛の手にそっと触れる。
「俺の未来に、由愛がいてくれたら、きっとどんな道でも大丈夫な気がする」
「……またそういうこと、さらっと言うんだから」
由愛は頬を染めながらも、手を握り返した。
夏の終わりが近づいても、この気持ちは変わらない。
未来はまだ遠くて見えなくても——この瞬間の想いだけは、確かにふたりを繋いでいた。
八月の終わり、夏休み最後の登校日。
提出物を持って登校した陽翔は、放課後、図書室の片隅でひとりの姿を見つけた。
「……由愛?」
「陽翔くん……!」
本を閉じて顔を上げた彼女は、どこか思いつめたような表情をしていた。
「珍しいね、ここにいるなんて」
「……ちょっと、いろいろ考えたくて」
由愛の手元には、一冊の大学案内と、ピアノや音楽大学に関する資料。
「音大……行こうとしてるの?」
「うん。まだ決めたわけじゃないけど……音楽を続けたいって、最近ちゃんと考えるようになって」
由愛はゆっくりと言葉を紡いだ。
「お姉ちゃんはさ、もう進路もはっきりしてて、親も期待してる。それに比べて私が音楽なんて言ったら、どうせ“趣味の延長”って思われる気がしてて」
その言葉の裏にある孤独と葛藤が、陽翔の胸に静かに響いた。
「……でもね、陽翔くんが将来のこと考えてる姿見てて、思ったの。私もちゃんと、自分で決めなきゃって」
由愛の瞳には、迷いながらも一歩踏み出そうとする決意があった。
陽翔は隣の席に腰を下ろし、そっと言う。
「……音楽、やりたいならやればいい。由愛の歌もピアノも、本当に素敵だから」
「……ほんとに、そう思う?」
「うん。俺なんか、由愛の歌に何度も背中押されてきたし。夢を語れるって、すごくかっこいいことだと思う」
その言葉に、由愛は目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。
「……ありがと。陽翔くんにそう言ってもらえると、ちょっとだけ自信が湧くかも」
二人は静かな図書室の片隅で、何も言わずしばらく寄り添っていた。
夏が終わり、新しい季節が近づいている。
迷いの中でも、互いに支え合える関係が、少しずつ未来の輪郭を描き始めていた。




