129.君と歩く、夏の夜
129.君と歩く、夏の夜
夏の夕暮れ、蝉の声も少しだけ静まった頃。
陽翔は約束の神社前に立っていた。浴衣姿の人々が行き交う中で、緊張とそわそわが混じったような表情で辺りを見回す。
「……陽翔くん」
その声に振り向くと、そこには淡い水色の浴衣を纏った由愛が立っていた。
髪を軽く結い上げ、耳元には小さな風鈴のようなイヤリング。普段の制服姿とは違う雰囲気に、陽翔は思わず言葉を失う。
「……めっちゃ、似合ってる」
「……ありがとう。陽翔くんも、浴衣、すごくいい感じ」
ぎこちない褒め合いにふっと笑って、ふたりは並んで歩き出す。
屋台の光が道を照らし、風に混じって焼きそばや金魚すくいの匂いが運ばれてくる。
いつもと違う、少し浮かれたような世界。そのなかで、由愛は少し緊張していた。
(こうして歩くの……去年の映画デートぶりかも)
春から付き合い始め、季節はふたつ巡った。学校ではすれ違う時間も増え、最近は落ち着いてふたりで過ごせる時間も少なかった。
だからこそ——この夏祭りの夜が、すごく特別に感じられた。
「はい、射的勝負だよ。負けた方がラムネ奢りね?」
「え、ハンデは?」
「なし! 彼氏としての威厳、見せて?」
「うわ、急にハードル上がった……!」
はしゃぎながら挑戦する射的。かき氷のシロップを交換して一緒に食べたり、金魚すくいに夢中になったり。ふたりの時間は、花火が上がる前からもう十分に輝いていた。
どれも目新しいものではないけれど、由愛と一緒に歩くそれは特別で、陽翔は何度も由愛の横顔に目をやってしまう。
「はい、あーん」
「えっ、これ俺に?」
「だって、これ一口が大きすぎて……食べきれないもん」
由愛が差し出してきたのはチョコバナナ。ふたりで笑いながら食べ合うその時間が、ただ嬉しくて、陽翔はふと手を伸ばして由愛の指に触れた。
びくっと少し驚いたように、でも嫌がるそぶりはなく、由愛もそっと手を重ねてくる。
「……こっち来て」
由愛に手を引かれて向かったのは、神社の裏手。人気の少ないその場所で、ふたりは木の階段に腰を下ろし、遠くの空を見上げる。
ドン、と音が響き、夜空に大きな花が咲く。
光に照らされた由愛の横顔は、どこか切なげで、でもとても綺麗だった。
「……ねえ、陽翔くん」
「ん?」
「私、こうやって一緒に歩けるだけで、嬉しい。でも……ちょっとだけ怖いの」
「怖い?」
「陽翔くんは優しいから、誰にでもちゃんと向き合って、ちゃんと話すでしょ。だから時々、私じゃなくてもよかったんじゃないかって思っちゃう」
夜空にまた花火が打ち上がり、言葉がその音に吸い込まれるように消えていく。
けれど、陽翔はゆっくりと由愛の手を取った。
「俺は、たくさんの人と話すけど——好きになるのは、たったひとりだけだよ」
「……」
「その“ひとり”が、ずっと由愛なんだ」
握られた手のぬくもりに、由愛の瞳が静かに潤む。
「……ずるいな、陽翔くん。そういうの、反則だよ」
「じゃあ、もっと言おうか?」
「……いい。今日はもう十分。幸せだから」
ふたりの間に流れる風は、夏の夜にふさわしい、優しくてあたたかなものだった。
そして、頭上で咲いた最後の大輪の花が、ふたりの未来をそっと照らしていた。




