127.揺れる視線、初夏の空の下で
127.揺れる視線、初夏の空の下で
五月も終わりに近づき、昼間の陽射しはすっかり夏の気配を帯びていた。
二年生のクラスにも慣れ、教室には期末テストや夏休みの話題が飛び交い始めている。そんな浮き足立った空気の中で、由愛はふと、背後から呼び止められた。
「橘さん、ちょっといいかな」
望月悠馬だった。淡々とした口調の中に、どこか決意のようなものが滲んでいた。
「……うん。どうしたの?」
放課後の人気のない中庭。ふたりの距離には、わずかな緊張が漂っていた。
少しの沈黙のあと、悠馬はまっすぐに言葉を切り出した。
「橘さんが付き合ってるの、知ってる。——それでも、俺はまだ諦めてない」
由愛は少し目を見開いた。
「……そんなの、ずるいよ。私、陽翔くんのことが——」
「わかってる。君の気持ちはもう決まってる。俺の入り込む余地なんてないのかもしれない。でも、それでも……言いたかった。伝えないと、自分に嘘をついたままになりそうでさ」
その真剣な瞳に、由愛は胸の奥がチクリと痛むのを感じた。
「……どうして? どうしてそこまで……」
「君が笑ってると、つい見てしまう。君が誰かのために頑張ってると、応援したくなる。そういうのが全部、俺にとっては特別だった」
彼の声は、決して押し付けがましくはなかった。ただ静かに、想いだけがそこにあった。
「……ありがとう。でも、私はやっぱり、陽翔くんと一緒にいたい」
由愛の答えは変わらなかった。でも、そこには誠実な気持ちが込められていた。
悠馬は一瞬だけ目を伏せて、そして静かに笑った。
「そっか。そりゃそうだよな。分かってる。本当に分かってる……でもさ、気が変わったら、いつでも言って。俺はきっと、しばらくここにいるから」
軽く手を振り、悠馬は背を向けて歩き出す。
その背中を見送った由愛は、ふと胸に広がったざわめきを抱えたまま、校門の方へと歩いた。
そこに、陽翔がいた。
少しだけ不安そうな目でこちらを見ている。
「遅かったね。……大丈夫?」
「うん。ごめん、ちょっとだけ話してて」
由愛は自然に陽翔の隣に立ち、そっと彼の袖をつまんだ。
「ね、ちょっとだけ遠回りして帰らない?」
「もちろん」
ふたりの影が並んで伸びる帰り道。
その手の温もりは、確かなものだった。けれど、心のどこかに生まれた小さな波紋は、まだ完全には消えていなかった。
——誰かに「好きだ」と言われることが、こんなにも胸に残るなんて。
もちろん、陽翔が好き。それは変わらない。だけど、悠馬の言葉が不意に胸を叩いたのは、きっと彼の想いが真っ直ぐだったから。
(比べてるわけじゃない。でも……)
陽翔の横顔を見つめながら、ふと胸の奥にチクリとした不安がよぎる。
——私は、陽翔くんにとって、ちゃんと「選ばれて」るんだろうか。
いつも隣にいてくれる。気遣ってくれる。大切にしてくれる。それでも、「誰かと比べられたら、私でいいって思ってもらえるのかな」なんて、不安がこっそり顔を出す。
「……ねえ、陽翔くん」
「ん?」
由愛は足を止めて、小さく深呼吸をした。
「さっき、私、…… 悠馬君からまた告白されたたのね、またハッキリ断ったけど、陽翔くんは……私のこと、信じてくれる?」
陽翔は驚いたように目を見開いた。けれど、すぐに静かに頷く。
「信じるよ。当たり前じゃん」
「……どうして?」
「だって、俺が信じたいのは、誰に想われたかじゃなくて、“由愛が俺を想ってくれてる”ってことだから」
その言葉に、由愛の瞳が揺れる。
胸の中にあった不安が、少しずつ溶けていくようだった。
「……ずるいな、そういうとこ。ちゃんと分かってるのに、言葉にされたら、涙出そうになる」
「じゃあ、泣く前に、ほら」
陽翔が差し出した手に、由愛はそっと自分の手を重ねた。
つないだその手は、あたたかくて、確かで、揺れていた心をそっと包んでくれるようだった。
「ありがとう。私、ちゃんと信じてるよ。陽翔くんのこと」
「うん。……俺も、ずっと信じてる」
街灯が灯り始める道の上で、ふたりの歩幅は自然と重なっていた。
心のどこかで、小さな波が立っても、それを乗り越えていける。
——きっと、それが“ふたりで歩く”ということなのだ。




