♪たまごやきを作ってみたよ♪
世の中には二種類の人間がいる。
家族愛を知っている人間、家族愛を知らない人間である。
岩沢慎は、後者である。
◇
高校二年の春、土曜日。私は自転車で坂道をのぼっていた。母親に頼まれて幼馴染の慎君に「弁当」を届けに行くためだ。
エントランスの高級なマンションの入り口で、私は自転車をとめる。
「立派なマンション……」
高くそびえたつビルは、空にとどきそうだ。
沈み込むようなふかふかの高級なマットの上を進み、エレベーターで10階へとあがった。エレベーターの奥にある鏡で、自分の容姿を確認した。
さきほどまでの自転車で、腰まである長い髪がはねていないか、そして、前髪の位置を確認した。
ピン、ポーンと、玄関のベルが鳴らした。
ドアが開く。
玄関の奥から、楽しそうにはしゃぐ声が聞こえた。
慎君は、友達と遊んでいたようだった。友達の顔は見たことがあったが、名前はわからない。
「いらっしゃい」慎君は言った。
「えっと、慎君のおひるごはん、持ってきたんだ!」
慎君と話すときは、ドキドキしてしどろもどろになった。
高校生にもなって、慎君と呼んでいいものなのか迷った。
慎君はビニール袋に入ったタッパを受け取ると、中をのぞきこみ、顔を上げる。私を見た。
「かえで、ありがとな」と返事が来たので、ほっとした。
「今回は、私も作ってみたんだ!」
慎君に食べてほしくて!と言おうとして、言葉を飲み込んだ。そんなことを言ってしまうと、慎君に重たいと思われてしまうかもしれない。
「へぇ」と慎君は再び弁当を見る。「どれを作ったの?」
「たまごやき!」
「慎君は、一人暮らしで大変でしょう?だから、ごはんをとどけてあげなさい」とはいつも母親が言ってくる言葉だ。慎君の家は、お金持ちだけど、両親と仲が悪く一人暮らしをしていることだけ噂できいた。慎君は何も話さないから、それ以上のことを聞けないでいた。
私の母親は、幼稚園から知っている幼馴染の慎君を、気にかけていた。
「かえでのおばさんにもありがとうって伝えて」慎君が言った。
「うん!」
母親を口実に慎君に会えることが嬉しかった。
「そういえば、先週お弁当を届けた時、慎君留守だったね」
「弟の参観日を見に行っていたんだ」
「慎君は一人っ子でしょう?」
「嘘だよ」慎君は、そうやっていじわるを言ってくる。
「もう!」というと、その顔を楽しそうに笑って眺めていた。
「慎、誰が来たの?」
友達の声が奥から聞こえてきた。
「ごめん、おじゃまだったよね」私は、慎君の顔を見て笑った。「じゃあ、また学校で」
「かえでも入れよ」慎君は私を迎え入れた。
「お、おじゃまします」
私は靴を脱ぎ、慎君の家をあがった。廊下の奥へと歩いていく。
「こいつも昼飯まだだから、つまんでもいいか?」
友達を見ながら言った。
「うん!」私はうなずく。
「あざっす」友達は、慎君からビニール袋をもらうと、弁当を広げ、机に並べた。
二人はごはんを食べ始める。
「…どう……かな…?」
「ん」慎君は一口卵焼きを口に運んだ。
「うまいよ」と慎君は言った。
私はほっと、胸をなでおろした。そして、心のなかで小さくガッツポーズをした。
うまいよ。うまいよ。慎君の声が、私の中でこだまする。
慎君に手料理をふるまうことができました!神様!やりました!
「まっ!ず!!」
横の友達が声をあげて、卵焼きを口から吐きだした。床に咀嚼された卵焼きが広がる。
慎君は、そっとティッシュでふいた。友達は、冷蔵庫を開けて、水をコップに注ぐ間もなく、ボトルのまま口に水をつけ、ごくごくと勢いよく飲んでいく。
「おまえさ」友達は私の目を見ていった。「塩と砂糖の分量間違えてね?」
「へ?」
「しょっぱすぎるだろ!!」
私は、顔が真っ青になる。「しょっぱい?」
私は記憶をさかのぼるが、すでにどうやって作ったかを思い出せなかった。
そういいながらも、私は自分が作ったことを言ってしまったことを後悔していた。
私は慎君から箸をかりて、卵焼きを口に運んだ。箸に口をつけるのは悪い気がして、箸から卵焼きを口に落とすように、口の中にほおりこんだ。
口の中にしょっぱい味が広がる。こんなにまずい卵焼きを食べたことがなかった。
「こんなもの卵焼きじゃねぇ!」友達が叫ぶ。「罰ゲームじゃねぇか!」
「ご、ごめんなさい」意識するよりも先に私は謝罪を口にしていた。目線が下を向き、慎君の顔を見ることができなかった。
「かえでが作ったんだろ?」
慎君は私の顔を見ていった。私はこくり、とうなずいた。
「たしかに、これは世間一般にしられる卵焼きじゃない」
そう言われて、私は心細くなる。
「砂糖と塩を間違えるなんて、ありきたりだ」
目の前が暗くなる。
「でもな」慎君は私の顔を見た。「かえでが作ったのなら、それが嬉しいよ」
私は、にじみそうになる目をこらえた。やっぱり、慎君は、誰よりも優しくて大好き!