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4.


 いつものように第二美術室で絵を描いていると、控えめに扉がノックされる音が聞こえ顔をあげる。少しの間の後、控えめに開かれた扉から有坂がひょっこりと顔を出した。


「入ってもいいかしら?」


 有坂は柚月が頷いたのを確認して、部屋の中へと足を踏み入れる。

 時計を見ると、ちょうど12時半を指していた。お昼休みの時間だ。有坂は二人分の給食を乗せたトレイを器用に片手で持ちながら、後ろ手で扉を閉める。柚月がここで一日中過ごすようになってから始まった、いつものルーティンだ。

 柚月は手を止めて、机の上を片付ける。昼食の時間と、その後の3時間は他の科目の課題を有坂が見てくれることになったのだ。絵を描くのは午前中と放課後だけ。第二美術室で過ごしたいという柚月の希望を汲んでくれて、有坂がここに赴いてくれるようになったのだ。有坂がここに通うようになって、血の通った人間が来るようになったからか、心なしか美術室も明るくなったように思える。ただ、にぎやかさはなくなってしまった。有坂がここに通うようになってから、蒼はあまり言葉を発さなくなった。邪魔にならないように、との配慮からなのか、それとも、柚月が人と接しているのを見るのが嬉しいのか、にこにこと嬉しそうに、遠くから二人を見つめるだけなのだ。


 何故だか、蒼は柚月が人の輪に戻っていくことを望んでいるような気がしてならなかった。自分自身が孤独に戻ったとしても。


 頭に浮かんだ嫌な思考を消し去るように、柚月は強ばった体を無理やり動かす。彼を一人にしたくないのか、それとも、自分自身が彼に捨てられたくないのか。その答えを柚月は気づきたくなかった。


「本当に素敵な絵ね。見慣れた景色のはずなのに、加賀谷さんの絵を通して見ると輝いて見えるわ」


 有坂は手前の机に盆を置くとそのまま柚月の隣を通り過ぎ、描きかけの絵に近づいた。まるで宝物を眺めるかのように、慈しむように、有坂は優しいまなざしをその絵に向ける。大した技術があるわけでもない、何の変哲もない絵なのに、有坂はどうしてそんな目で見るのか柚月には分からず小さく首を傾げた。

 柚月の疑問を感じ取ったのか、有坂は柚月の方を振り向きにっこりと笑う。その笑みはいつものやさしい有坂の笑顔だったが、何故だか少し不安げになる寂しそうな笑みだった。


「ここの景色が絶景だ、とか、もっときれいな場所を見に行きたいとか…もちろん、それも素敵なことだと思う。それを見たいって原動力は計り知れないもの。でもね、気付いていないだけで、すぐ傍にこんなにきれいな景色があるんだよって、加賀谷さんの絵を見てるとハッとさせられるの。ああ、私はもう十分素敵な物を持っていたんだって」


 有坂は絵のすぐそばの席に腰を下ろすと、隣の席の椅子を引き柚月を手招きする。柚月は少しためらいながらも、促されるまま有坂の隣に座る。ちらりと視線をあげ、教卓の上に座っている蒼に目をやると、いつもの爛漫な笑みとは裏腹に表情の読めない冷えた目を窓の外へと向けていた。


 どうしたんだろう……?


 蒼のことが気になったものの、有坂の視線が気になり、柚月は蒼のことを頭の隅へと追いやった。柚月の心の関心が自分とは別の所にあるとは知る由もないのか、それとも、ただ誰かに話したいだけなのか、有坂は柚月と目を合わせずに窓から見える、いつもと何一つ変わらない景色を見つめたまま、ぽつぽつと話し始めた。


「実はね、私もここの生徒だったの。ずっと前のことなんだけどね」


 柚月はこくりと頷く。有坂がここの卒業生だというのは、聞いたことのある話だった。


「私、割と絵が得意だと思ってたの。祖母が絵の先生でね、小さいときから習ってたから、私が一番うまい、なんて思ってたな……。今思うと、どの口が言ってるのよって恥ずかしくなるんだけどね。若気の至りってやつね。いい絵を描くには良い題材だと思って、いろんな場所に行ったわ。世界中の綺麗な景色をこの絵に全部詰め込みたいって」


 有坂がまっすぐに手をのばし、何かをつかむ仕草をする。その眼にはきっと、いつもの平凡な景色ではなく、輝かしい絶景が映っているのだろう。


「でもね、この美術室で出会ってしまったの」


 何かをつかみ損ねた有坂の手が、力なく宙をさまよう。有坂はゆっくりと目を閉じ、小さく息を吐くと、今度はしっかりと対象を見据えたまっすぐな目で柚月を見つめた。


「初めて見たとき、ああ、私はこの人を絶対に超えられないって思った。

特別でもなんでもない、普通の景色がなんでこんなに輝かしいのか、なんでこんなに心つかまれるのか。私には何一つ分からなかった。ただ、彼の絵がとてつもなく魅力的だってことだけ。若さって怖いわね。私、負けを認めたくなくて悔しくて、問い詰めたの。なんで、こんな題材で描いたの、もっと綺麗な場所の絵を描きなさいよって。そうしたら、素直に負けを認められると思ったのよね」


 有坂は当時のことを思い出し、小さく笑った。今の有坂からは想像できないが、だいぶんやんちゃな少女だったのだろう。もし、同じ年齢で同じクラスになっていたら、絶対に関わらなかっただろうと柚月は、有坂が先生でよかったとこっそり息をついた。


「そしたらね、君って目が悪いんだね、なんて大笑いして……。ほら、若かったから、もうカチンときて怒りのままに、どこが綺麗なのよって怒鳴りつけたのよ。そしたら、彼、『じゃあ、教えてあげるよ』って、そのまま学校中いろんなところに連れていかれたわ。最初は私もふてくされてたから、こんなののどこがいいんだって見ようともしなかった。

 でも、次第に怒ってたことよりも、彼が教えてくれる景色の綺麗さに夢中にさせられていった。加賀谷さんの絵と同じように」


 有坂はにっこりとほほ笑みながら、柚月の絵を指さす。


「この絵、雨あがりの絵でしょう?校舎の窓にあたって反射した陽射しが、水を纏った葉っぱをキラキラと淡く輝かせている。水をはらんだ光の色がとっても綺麗。この絵を描いた人は、きっとこの景色が好きなんだろうなって、伝わってくる。かけがえのない、宝物のように、日常を見ることができるんだろうなって」


 この景色が好き?


 柚月は首をかしげる。


 私が、この景色を好き?大嫌いな学校を好き?


 そんなはずはない、これほどまでに学校を憎んでいるのに。柚月は有坂の言葉に困惑しつつも、自分が描いた絵を思い出す。それはどれも、この第2美術室から見える景色ばかり。

それも、蒼を通して見た、ここからの景色なのだ。


 柚月は自分が思っているよりもこの第2美術室を気に入っていることに気づく。蒼と出会ってから、学校がそんなにも嫌な場所ではなくなっていた。


 スケッチブックの端に、鉛筆を走らせる。そして、そのページを有坂の前へそっと差し出した。


『ここから見る景色は、悪くないかもしれません。』


 柚月の言葉に有坂は優しく微笑む。


「そっか」


 有坂はそれ以上何か言うこともなく、柚月の小さな字をそっと撫でた。その顔があまりにも優しくて、たかが生徒の一人である自分が有坂の特別にでもなった気がして、すこし怖くな。ありがたいはずなのに、その優しさがナイフのように柚月の心へ突き刺さった。

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