2.
幽霊の存在を疑っていたわけではないし、死んで何もかもなくなるっていうよりは、幽霊という魂だけの存在になると言われたほうがなんとなくしっくりくる。しかし、実際に目にしたこともなければ、絶対にそうだと信じられる経験をしたわけでもなかった。幽霊がみえるとしたら、生まれながらにしてとか、何かそれだとわかるようなきっかけがあるものだろう。それに、柚月はこの美術館で蒼と名乗る少年を見た以外、他の幽霊を目にすることはなかった。柚月の目に映るこの光景が、いったい何なのか柚月には分かり得なかった。
いったい何なんだろう。
柚月がいぶかし気な視線を向けていると、蒼は柚月の前の席に座って頬杖をついて「何が?」と首をかしげる。柚月は眉にしわを寄せて、ひとつ大きなため息を吐いた。
どうやらこの蒼という幽霊は柚月の心の声が読めるみたいなのだ。柚月が声を失っているからなのか、はたまた、蒼が幽霊だからなのか、皆目見当もつかないが、なぜか柚月と蒼は会話が可能なのだ。その上、蒼は図太い神経の持ち主のようで、柚月の冷たい態度もどこ吹く風で、毎日毎日一方的に話しかけてくる。驚くほどおしゃべりな蒼だが、「なんで授業に受けないんだ」とか「どうして声が出ないんだ」とか、柚月の気の滅入るようなことは一切言わず、「積乱雲って描くの難しくない?」「水彩画もなかなかいいね」などと、口にするのは絵に関することか、蒼に関するどうでもいい話ばかり。
そんな蒼だから、1人の時間を邪魔されるようになったけれど、柚月は変わらず第2美術室に足を運んでいる。それに、幽霊よりも人間の方が怖いし、録でもないことをしでかす。
うるさいだけで害はないもの。人間よりよっぽどまし。
柚月の心の声に、蒼はおかしそうに笑いだす。
「君、幽霊が怖くないの?やっぱり面白いね」
蒼は上機嫌で鼻歌でも歌いだしそうな勢いで、壁際の棚に置かれている石膏像の間に飛び乗る。そして、石膏像と肩を並べてにっこりとほほ笑む。
「ねぇ、僕のこと描いてよ」
え?
「僕、君の描く人物像が見てみたい」
まっすぐな蒼の目に柚月は言葉をのむ。正確には、頭の中が真っ白になったのだが、とにかく、柚月には蒼の真理が分からず動揺して視線が揺らぐ。
そんな柚月に、蒼は目を細めやさしく笑う。柚月の動揺すらもお見通しであるかのような、落ち着いた深い笑みだった。
「今すぐにじゃないよ。いつか、君が人物像を描きたくなったとき、僕のことを描いてみて欲しいんだ。僕は君の絵のファンだからさ」
蒼はそう笑うと、自身の後ろに飾られた柚月の作品を指さした。柚月は絵を描き終えた後、机の上に置いて乾かしていたはずなのに、気が付くと額縁に入れられて教室に飾られていた。どれも美術室から見える背景を描いたもので、淡い色使いが西日と交わりほのか光り輝いているように見えた。自身の絵が飾られている空間に居心地の悪さを感じるものの、有坂に筆記で聞くほどのことでもないかと放置していたのだ。
蒼はまぶしいものでも見るように、柚月の絵を見て目を細めた。彼はいつも柚月の作品を褒めてくれる。柚月の作品を好きだと言ってくれる。
柚月には目にしたものをただ描いただけの、面白みもないただの戯言のそれは、蒼の目を通すとまばゆい宝石のように、価値のある物に感じてくる。柚月はぼんやりと自分の絵と、そしてそれを眺める蒼の横顔を見ながら、初めて、彼はどうしてここにいるのだろうか、とぼんやりとした疑問を抱いた。