1.
この世に幽霊がいるとしたら、彼らは何のためにこの世にとどまっているのだろうか。
加賀谷柚月は自分の目に映る少年を見て、小さくため息をつく。何度瞬きをしても、目をこすっても、彼は変わらずこちらを見て微笑んでいる。相手が困惑しているのを楽しんでいるかのように、口元が美しい弧を描いている。
「どうしたの?今日はいつにも増して見てくるじゃん」
少年は嬉しそうに柚月の腕を肘で小突く。しかし、少年の腕は柚月の腕に触れたとたん、空へと霧散し、柚月の身体は何事もなかったかのように彼の存在を無視していた。透けた彼の身体は、彼がこの世の存在ではないことを物語っていた。
柚月が彼に出会ったのは、ちょうど2か月前。
中学2年生の春、ちょうど、柚月が保健室登校を始めて半年が経ったころだった。派手ではないが整った顔立ち、年頃の少女と比べて達観した態度、そして、自分の意思を曲げられない気の強さ。彼女の性格が招いた、友人とのやりとりはほんの些細なものであった。そう、ただ彼女は自分の意見を言っただけ。しかし、それは彼女をいじめのターゲットにするには十分なきっかけだった。
一日で彼女の世界は天から地へと転落した。最初は友人たちの豹変に腹が立ったものの、元来の気の強さから何事もなかったかのように学校へ通った。そう、ただ、耐えていたのだ。彼女の身に降りかかった理不尽に。しかし、周りにはそうは映らなかった。悪口を言っても、持ち物に落書きをしても、飄々としている彼女の姿に、周囲の行為はエスカレートしていった。
まずは、クラスの女子から、次に男子、そして隣のクラスの派手な女子たち。どんどん相手は増え広がっていったのだ。無視や陰口は、身体の暴力程目立つものではないが、その殺傷能力はあまりにも強すぎた。気の強い柚月の心は確実に蝕まれ、深い深い傷をつくっていった。そして気がついたら、彼女は学校で声を出すことができなくなっていた。
彼女の異変はもはやだれが見ても明らかだった。担任の先生に呼び出され、カウンセラーの先生のもとにも連れていかれた。両親も呼び出して、何があったのか問いただされた。それでも、柚月は一言も話さなかった。病院に連れていかれても、結果は同じであった。声を失っていなかったとしても、柚月はきっと何も話さなかっただろう。
自分がいじめを受けたこと、声を失うという形でそれに屈してしまったことを、彼女は認めたくなかったのだ。
周囲の大人があれこれ手を焼く頃には、クラスメイト達はもう柚月へのいじめなどなかったかのように、教師を欺いた。教師は喋らない柚月よりも、自分を信頼しているように話す加害者の都合のいい言葉を信じた。両親は何も話そうとしない柚月に手を焼き、怒りのままに怒鳴る日が増えた。学校にも、家にも、柚月には居場所がなかった。
すべてが敵のような日々の中、唯一味方についてくれた先生がいた。副担任の有坂心だった。有坂は柚月に保健室登校を提案してきた。クラスメイトとともに授業を受ける必要はない、ましてや学校を休んでもいい。有坂は柚月にどれが一番頑張らなくてもいいか、と問いかけた。美術部の顧問でもあった有坂は、柚月にとって親しみがあり頼ってもいいと思える大人の一人だった。そして、柚月の保健室登校が始まった。保健室では養護教諭や有坂が、可能な限り勉強を見てくれて、中学校教育の基礎についていくことができた。それだけではない有坂は柚月に新たな居場所をつくってくれたのだ。
旧校舎の第2美術室、「新しい校舎に美術室が移って、もう私しか使わないんだ」と有坂は少し寂しそうに笑った。物置小屋と化したその部屋は、少しかび臭く、歴代の美術部員たちが描いた絵が所狭しと置かれていた。もともと絵を描くのが好きで、美術部に入部していた柚月はすぐにその部屋を気に入った。柚月は保健室での勉強もほどほどに、午後のほとんどを第2美術室で過ごした。誰の目も気にせず羽を伸ばして自身の好きな絵にのめりこむことができた。いじめを受けてから、やっと手に入れた安らぎの時間だった。そして、その日は何の前触れもなく、急に訪れた。
「ねぇ、なんで背景ばっかり描いてるの?」
誰もいないはずの美術室に響く、声変わり前の軽やかな少年の声に柚月は絶望の淵に立たされた。やっと手に入れた、平穏が奪われたと思った。しかし、柚月の絶望はすぐに驚きへと変わるのだった。
恐る恐る顔をあげた柚月は目の前の光景に驚き固まった。声をかけてきた少年は生身の男子生徒、ではなかったのだ。少年の身体は淡く輝き、後ろの景色がはっきり見えるほどに透けていた。
幽霊?
柚月は失った声でそう口にすると、その少年は驚いたように目を見開いたのち、いたずらが成功した子どものようににんまりと笑った。
「そう、幽霊」
これが、柚月と幽霊の少年、花野蒼との出会いだった。