効率的ハッピーエンド
人間×アンドロイド(恋愛もの)
西暦2100年。”効率安寧死”施行。
初の完全オリジナル作品です。
拙い部分が多いと思いますが、楽しんでいただけたら幸いです。
この世の全てのものは等しく死ぬ。
そしてその「タイミングの権利」も誰もが持っている。
「ユウキ、おはよう」
「…おはよう」
「朝ごはん、この辺のもの食べちゃってね」
「うん」
なんとなく手に取った食パンを食べていると、ニュースのアナウンサーの声が、やけに耳に刺さった。
――本日は、記念すべき「効率安寧死」の施行の日です!
――いやー、西暦2100年にして、歴史的な瞬間ですね。
少しパサついたものを飲み込む。
こうりつ、あんねいし?なんだそれ。
「お母さん、なにこれ」
「あー、ユウキにはまだ早いかも。あんまり気にしなくていいんじゃない?」
「ふーん…」
「ほら、ぼーっとしてたら学校遅れちゃうよ。お母さん先行ってくるね」
「うん」
西暦2112年
100年くらい前と比べると、どうやら現代における人の命の在り方は多様化しているらしい。
今、最も話題なのが「効率安寧死」。
効率安寧死とは、医師とカウンセラーの判断の元、本人の強い意志があれば行うことができる一種の安楽死だ。
料金は200万。意外とこれに反対している人は少ない。
政界のトップの誰かの陰謀だったとしても、一般市民にとってもメリットだったらしい。
俺の母は体が弱く病気がちだったこともあり、2年前にこれを使っていた。
48歳だった。
父はまだ生きていると思うが、一緒に住んでいないからよく分からない。
俺はというと、新卒で入って3年勤めていた会社を先日辞めてきた。
仕事、謝罪、謝罪。仕事、クレーム、謝罪。陰鬱とした職場の環境、悪口、圧力。
人間の嫌な部分を毎日毎日見てきた。
他人と話す時には疑う事から入るようになった。人の目はしばらく見れていない。
もはや何に謝っているのかも分からない。
なんで生きているのかも分からない。
ふと鏡の中を見たときに、酷く老けた自分が映っていて驚いた。
はは、社会人になってからまだ3年だぞ…?
心も体も疲れていた。
そして、俺はもう決心していた。「効率安寧死」を使おうと。
「本当に辞めるのか?」
空き会議室に上司の声が静かに響いた。
「はい」
覇気のない声が口から溢れ出た。
「高野は頑張ってるし、お前ならもっと上を目指せるぞ」
「いえ…ありがとうございます」
張り詰めた空気はないが、窓から降り注ぐ柔らかな日差しとは裏腹に、口から出た言葉はただ床に積もっていく。
「…そうか、次のところでも頑張れよ」
「はい。失礼します」
会議室を出る際に、ちらっと上司の顔を見た。
ここ最近で一気に老け込んだ気がする。
あんなにすごい人でも疲れは顔に出るんだな。
そんな当たり前のことを思い、扉に顔を向けた。
お世話になった上司の顔を見たのは、見れたのはこれが最後だった。
瞼の外に光を感じる。
時刻は午前10時。
仕事を辞めてから一か月が経った。
元々朝が苦手な俺は、目覚ましをかけずにゆっくり起きるという生活をしている。
何もせず、ぼーっとし、たまに散歩をした。
それにしても、もうすぐ仕事を探さないとな。
200万必要だから、あと150万くらい貯金すれば良い。
それで全ておしまいだ。
テーブルに置いてあるパンを齧る。タブレットをつけて求人を検索した。
従業員ロボットの監視・メンテナンス、クレーム対応、プログラマー募集、工場での検査、配達ドローン管理、端末でカンタンお仕事、激レアスタッフ募集…
「ん?激レアスタッフ募集…?なんだこれ。」
――
閲覧ありがとうございます!
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さあ、画面の向こうのそこのあなた!是非↓の応募ボタンへ!
東京都□□市…
シフト交代制(希望のお時間をお聞かせください)
週2、3~ok!
時給3000円
仕事内容:効率安寧死の施設スタッフです。書類作成、機械操作など簡単作業のみ!
未経験者ok。
こ、効率安寧死のスタッフ!?
こんなものがあるのか、時給も3000円!?
ここなら1年くらいで目標の金額が貯まるかもしれない…!
今年、いや、ここ数年で一番に驚いていた俺は、気付いたら応募のボタンを押していた。
そういえば、あの時対応してくれていたスタッフさんは、効率安寧死センターの人だったのか…。
あの時、俺の母が効率安寧死を使った時だ。
最後の立ち合いの時、係の人と少し話した。
この求人とは違う管轄のセンターだったけど、対応はかなり事務的で淡々とこなし、すぐに終わった記憶だ。
まぁ、1年だけだしなんとかなるよな。
5月も半ばになって日差しが肌に食い込むようになった。
少しひんやりとした効率安寧死の施設に足を踏み入れる。
そこにはもう人影があった。
「こんにちは。君が高野くん?」
「は、はい。本日は面接よろしくお願いいたします」
急いでお辞儀をする。挨拶にしては角度が深すぎた。
「あはは、そんなに畏まらなくても大丈夫よ。私はセンター長をやっている葉山キョウカ、よろしくね」
葉山さんはなんだかフランクな雰囲気の人だった。
以前、ピリついた緊張感の絶えない職場にいた俺は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたかもしれない。
「それじゃあ、こっちついてきて。」
「し、失礼します。」
「はい。こっちに座って。」
ちょっとした面談スペースのような場所に案内された。
施設内には受付の人が1人。
どこも静かで、自然と声が小さくなった。
「早速なんだけど、高野君はどうしてこのバイトに?理由はなんだっていいから、正直に答えてみて」
正直に、か…。ジワリと手に汗が滲む。
「はい。私は…効率安寧死を使おうと思っていて、そのためにお金を貯めようと思っています。なので、この求人に興味を持って、応募しました。」
「高野くんは、人の死に興味があるってことかな?」
「い、いえ!えっと、その…。確かに興味はあるのかもしれません。死そのものというよりかは、死か生かを選択できることに」
「そっか、うん、正直でよろしい。あとは、どんな考えでこの仕事に臨むか教えて」
「考え…利用者様が気持ちに納得できるようにサポートをする、です」
「よし、大丈夫でしょう!高野くん、キミを採用します」
「え!?はや!?」
「元々、すごく変な人以外なら採用しようと思ってたから安心して!」
すごく変な人…。どんな人だろう。
「あの、俺、若いのに効率安寧死を使おうとしていて、…変ですかね?」
膝の上に置いた掌に更にじわっと汗を感じた。葉山さんはゆっくりと口を開ける。
「それは、これから自分の目で確認していくといいよ」
「…わかりました。」
「あとは、出勤日とか細かいところの確認ね」
「ただいま」
家に帰ると久々の緊張感からか疲れが押し寄せてきた。
少し横になろう。
家の天井を見つめながら、時給3000円って本当だったんだなぁとぼんやり思う。
葉山さん曰く、やっぱり人の死を扱う仕事だから応募自体がすごく少ないとのことだった。
ちなみに、求人内容にあった「特定の人にしか表示されません」という文言は嘘らしい。
なんというかお茶目というか…緩い人だと思った。
取り合えず、週4出勤の6時間勤務に決まった。
「お疲れ様です」
初出勤の日、職員入口から入った俺は、なんとなくそろりと挨拶をした。
「高野くん!来たわね!早速いろいろ紹介しましょうか」
事務所には葉山さんと、もう一人の大人しそうな女性がいた。
葉山さんは軽快な声を発するが、事務所も壁の向こうにある待合室も異様に静かに感じる。
「じゃあ、まずは早番のバイトを担当してくれている赤井さん!」
「…赤井セナです。よろしく」
「た、高野ユウキです。よろしくお願いします」
「高野くんには遅番を担当してもらうね。赤井さんが出勤している日は、入れ替わるときに当日の引継ぎをお願いね」
「はい」
「赤井さんは今日はもうあがって大丈夫よ、初日だから私がまとめて説明しとくわ」
「わかりました。お疲れ様です」
「はーい、おつかれさま!」
赤井さんは素早く帰り支度をしてそのまま帰っていった。事務所には基本的に葉山さんと二人の時間が多くなりそうだ。
「あと3人いるんだけど、今は仕事中だから勤務が終わってからにしましょうか」
ざっと一通り葉山さんにバイトの仕事の説明をしてもらった。
やることは利用者のスケジュール調整、メッセージ返信、診察・カウンセリング後の書類作成とまとめ、国への報告、そしてたまに同行して雑用をこなすようだ。
言っては何だが、わりと暇な遅番を終えた。
外はすっかり暗くなっている。
「さて、もう終わりにしよっか!高野くん、もうちょっと時間平気?」
「大丈夫です」
「じゃあこっちおいで」
事務所の扉を出て、待合室の方へ向かう。
受付に一人の人が立っていた。
中性的な見た目。
対面するとなんだか違和感があった。
あ、そうか。
「はい、じゃあまずは神田さん。この子には受付と、処置室での仕事をお願いしているの」
処置室…やっぱり“そういうの”あるんだよな。
「それと、高野くん若いし、なんとなく気付いてるかもだけどこの子はアンドロイドね。仲良くしてあげて」
「神田さん。高野ユウキです。よろしくお願いいたします」
「高野さんですね。よろしくお願いいたします」
「もう終業したからちょっと神田さん休ませてくる。あ、ちなみに2階が私の居住スペースと神田さんルームね」
葉山さんはそういうと、神田さんと2階に行ってしまった。
神田さん…俺が今まで見てきたアンドロイドと、なんだか少し雰囲気が違う気がした。
待っている間に待合室をきょろきょろしてみる。
俺が先日面接をしたちょっとした面談スペース、小さい子供を預かるキッズスペース、いくつかの長椅子に、自動販売機。
観察しているとちょうど診察室のドアが開いた。
すらっとした男の人と一瞬目が合う。
「あれ、君が新しいバイト君?」
「は、はい。高野ユウキといいます。よろしくお願いいたします」
「よろしく。俺はここの医師の榎本シュンだ。一人でどうしたんだ?」
「葉山さんが神田さんを休ませにいったので…」
「あぁ、なるほどね。じゃあ診察室でも見てみるか?あんまり大したことないけど」
榎本さんに診察室を見学させてもらった。
いくつかのモニター、椅子、横になれるベッド、たしかに一般的な診察室だと思った。
あとは、あれは本か?
「本置いてるんですか?」
「そうそう、珍しいでしょう。紙で読むの割と好きでさ。ここにも少し置いてるんだよ。気になるものがあれば貸すよ」
「い、いいんですか?」
久しぶりの本を眺める。
あ、あの昔の人気小説、タブレットで読んだな。
「…榎本さんのおすすめはどれですか?」
「うーん。そうだな、これなんてどうかな。ストーリー構成が良くて面白いんだよな。」
「じゃあそれ、読んでみたいです」
「おう。返却はいつでも大丈夫だから、ページ数多めだしゆっくり読めよ」
「ありがとうございます」
コンコン
開きっぱなしにしていた扉をノックしながら女の人が話しかけてきた。
「なぁに?秘密のお話?」
「わ!そんなんじゃないっすよ。まぁでも、大沢先生たちには内緒かなぁ」
「榎本先生だけずるいですよ。こんばんは。新しいバイト君かな?」
「は、はい。高野ユウキといいます。よろしくお願いいたします」
「よろしくね。私は大沢ノゾミ。ここのカウンセラーを担当しているわ」
3人で少し雑談をしていると葉山さんが戻ってきた。
大沢先生と葉山さんは学生時代の先輩後輩なんだそうだ。
「あれ、もう紹介終わった?」
「キョウカの出番なくなっちゃったわね。神田さん大丈夫そう?」
「うん。いつも通り。じゃあ紹介も終わったことだし、さっさと上がりましょう!」
「ただいま」
なんとか初出勤が終わった。
ふぅと息を吐いて床に寝転がる。
今のところだけど、みんな優しそうな人ばかり。よかった。
なんとか続けてお金貯められそうだな。
帰り道に買ったご飯をさっと食べて、お風呂にお湯を入れた。
鏡に映った自分をちらりとみると、なんだか口角が少し上がっているように見えた。
今日はもう早く寝よう。
初出勤から1か月が経ち、仕事にも職場にも徐々に慣れつつあった。
この仕事をして思ったことは、やっぱりいろんな理由で、いろんな人が、いろんな気持ちで効率安寧死を使っているということ。
すんなり処置まで行く人、カウンセリング・診察で終わる人、引き続きカウンセリングに通う人、途中で家族が来てもめる人、など。
今日は、少し難しい利用者さんが来ているようだ。
森崎ミユさん。14歳。学生。
診察がだいぶ長引いている。今日は飛び入りの森崎さんの次に予約は入っていないから、時間は問題ないけど...榎本先生大丈夫かなぁ。
そう思いながら事務所で事務作業をしていると、葉山さんが難しい顔をしながら入ってきた。
「高野くん、ちょっといい?今診察室行ける?」
「え、はい。大丈夫ですけど…俺がですか?」
「今診察してる森崎さんなんだけど、榎本先生とちょっと相性悪そうで...」
「そ、そしたら葉山さんとか大沢先生の方がいいんじゃ…」
「んー、そうなんだけどねぇ。大沢先生は他の利用者さんのカウンセリング中だし、こういう時は経験よりも年齢が近い方が落ち着くときもあるのよ」
「...わかりました。じゃあ行ってきます」
「そんなに気負わなくていいからね!」
そんなこと言われても…と思いながら診察室へ向かう。
いつもは静かなセンター内だが、診察室の扉から少し声が漏れている。
恐る恐る扉をノックした。
コンコン
「し、失礼します。」
「だから!!今すぐやってって言ってるの!!」
いきなり聞こえた大きな声にビックリしてしまう。
榎本先生の方を見ると少し困った顔をしていた。
森崎さんは俺の方を見ると、キッとした目つきで睨んできた。
今にも瞳から涙がこぼれそうだった。
「誰ですか...」
「このセンターのスタッフだよ。ごめんね高野、こっち座って」
促されるように先生の元へ向かう。
ビリビリした空気。
俺に出来ることなんてあるのか…?
膝の上に置かれた手に、ぎゅっと握られているスカート。
森崎さんの気持ちが強く伝わってくる。
「ごめんなさい。俺にもお話聞かせてもらってもいいですか?」
「だから、私は!今すぐに効率安寧死を使って欲しいの!」
「…どうしてですか?」
「…私なんか、この世界に必要ないから」
その言葉を聞いて、胸に鈍い痛みが広がった。
俺にもその気持ちは分かる。
「そうですか...」
「でも!この先生は明確な理由がないととか、親に話さないととか、お金の問題だってとか!」
どれももっともな対応の仕方だ。
利用者の気持ちが強い決定権となる効率安寧死だけど、さすがに未成年だと保護者の許可がいる。
この状態の森崎さんには、論理的な説明は逆効果みたい...。
「理由は私がするって決めたから。親とは話したくない。お金は親に請求して。家がそこそこ裕福なのは知ってるんです。200万くらい出せるはずです」
なんでこれじゃダメなの…と小さく呟いたのが聞こえた。
「…私はね、効率安寧死を勧めるためにここで医者をしているわけじゃないんだ。できればみんなに楽しく生きてほしい。そう思ってるよ」
俺はその言葉を聞いてハッとした。
そういえば、効率安寧死のセンターの医師やカウンセラーは、どちらかというと効率安寧死に賛成している人たちだと勝手に思っていたからだ。
森崎さんの視線がますます鋭くなる。
「お兄さんはどう思いますか?ここのセンターの人たちは私の味方だと思ったのに...。結局自殺は悪なんですか!?」
「俺は…」
こんなこと言ってもいいのだろうかと悩み、榎本先生の方をちらっと見る。
自分の意見を言っていいよといった目だった。
「...実は俺も効率安寧死を使うつもりなんです。ここで働いて、200万貯まったら」
「そうなの…?」
森崎さんの鼓動が少し落ち着いたように見えた。
「そう、俺もこの世界があんまり好きじゃなくて、疲れちゃって、それで使おうと思ってるんです。なんかよく分かんないよね」
あははと力なく笑ってしまう。
でも森崎さんの涙は少し引っ込んでいるようだった。
「…そう、ですよね。私もよく分からなくって。生きてる意味が。それで辛くて」
「そうだね。榎本先生も、森崎さんを否定してるわけではないんです。だからもう少し話してみて。その分からない部分を少しでいいから整理してみませんか?」
「…そうします。取り乱してごめんなさい、先生。お兄さん」
「ありがとう。森崎さん。高野も」
「いえ、それでは失礼します」
「お疲れさまでした」
終業時間になったのでセンターを出る。
今日はなんだかすごい1日だったな。
俺自身が利用者さんと話す時が来るなんて。
外はすっかり暗くなっている。
センターの周りは自然が多いから夜は少し怖かったけど、最近はもう慣れた。
夏の虫の音がよく聞こえる。
「おーい!高野!」
後ろから呼ぶ声に振り返ると、榎本先生が小走りに駆け寄ってきた。
「お疲れ様」
「お疲れ様です」
「ふぅー、あっちいなぁ。もう夏だな」
「そうですね、夜も暑くなってきましたね」
「今日はごめんな、難しいこと押し付けちゃって」
「いえ、力になれたのなら良かったです。」
「代わりと言っちゃなんだが、ラーメン行かね?奢るよ」
「え、いえ、悪いので...」
「いーからいーから、ほら、こっちだぞ」
リュックごと肩をつかまれ榎本先生に連れていかれる。
ラーメンか、久しぶりに食べるな。
なんだか悪い気はしない。
「はい、塩ラーメン大盛と味玉醤油ラーメンね。ごゆっくり。」
気さくなおじさんがラーメンを持ってきてくれた。
透き通った醤油のスープ。おいしそう。
「いただきます」
「いただきまーす!」
少し甘く、優しい醤油の味。
細麺がよく合ってて、卵もおいしかった。
「おいしいです。ありがとうございます」
「だろー!よく来るんだよねここ。高野の口に合ってて良かったよ」
お腹がすいていたため、すぐに食べ終わってしまった。
暑い日でも温かいものを食べると、なんだかほっとした気持ちになる。
「じゃあ駅まで歩くか」
「はい」
しばらく歩いていると、ぽつりと榎本先生が話しかけてきた。
「使うんだな...効率安寧死」
「あ、はい。お金が貯まったら…」
「そっか」
「…はい」
「まーでもさ、診察は絶対俺のとこ来いよ」
何か言いたそうな間があったが、サラッとした声で背中をポンと叩かれた。
はずみで足が1歩さらに前に出る。
「そうします。…先生は、反対派なんですね」
「反対派というほどでもないんだけどな。やっぱり、人を救いたくて医者になったわけだし、できれば反対ってくらいかな。あ、ちなみに大沢先生も俺とほぼ同じ意見だよ」
「そっか。そうですよね。葉山さんはどっち派とかあるんですか?」
「んー、あの人のことはよく分からないんだよな~。掴みどころがないっつーか。まぁ、反対派ではないことは確かかな」
「...じゃあ、先生はなんでセンターに勤務しているんですか?死をある意味積極的に取り入れてる施設なのに」
「だからこそ、かな。意外に思うかもしれないけど、診察やカウンセリングで思いとどまる人も少なくないんだ。俺は死を否定しているわけじゃない。でも、効率安寧死は死ぬ為の手軽な手段じゃなくて、心のおまもりにしてほしいんだ」
「おまもり?」
「そう、辛くなった時にいつでも逃げられるっていうおまもり。すぐ死んじゃったら幸せも何も見つからないからね」
「幸せ、か」
「高野は?どんなことが幸せ?」
「俺は、…自分の死を、自分のタイミングで決められることが幸せだと思います」
「なるほどね。高野的にはそれがハッピーエンドってわけだ」
駅に着き、先生とは路線が逆だったため改札で別れる。
「あ、そういえば葉山さんが高野の歓迎会しなきゃなーって言ってたぞ。またそん時にでも飲もうな。お疲れ様!」
「はい。お疲れ様です」
榎本先生、いい人だな。
森崎さんも、最初は取り乱しちゃったんだろうけど、先生の元で徐々に気持ちに整理がつくといいな。
そういえば、先生の幸せはなんだろう。
聞けばよかったな…。
そう思いながら、揺れる電車の座席に座って目をつぶる。
少しの間、意識を手放してしまった。
今日の仕事も、メインは利用者さんの書類作成。
国へ報告も毎回しているが、いつも承認だ。
ふと、この許可が下りない場合もあるのだろうかと思った。
「あ、高野くーん。今日は書類整理が終わったら掃除お願いしてもいい?」
「わかりました」
このセンターには神田さんというアンドロイドはいるけど、お掃除ロボットや雑用ロボットはいない。
「予算が…足りない…」と葉山さんはしょんぼりとした顔で言っていた。
でもそんなに散らかる職場じゃないから、掃除がそこまで大変というわけでもない。
事務所から掃除を始めて、待合室へ。
いつも必ずある1人の人影が、今日は見えなかった。
あれ、今日は神田さんいないのかな。
ふと診察室よりも奥の方をみると、神田さんは仕切りのカーテンをくぐって“例の部屋”に向かうところだった。
あ、そうか処置室だ。今、行われるんだ。
処置室、保管室の管理と掃除は神田さんが担当なので、俺は全くその2つの部屋には入ったことがない。
処置室は、効率安寧死が決まった利用者さんが処置される部屋だろうし、保管室はその後に利用者さんが保管される専用の部屋だろう。
たまに火葬場スタッフさんの車が駐車場に停まっているのを見かける。
俺の仕事内容には、同行して雑用する場合もあると聞いている。
その辺りもいつか見ることになるんだろうか。
掃除できるところを綺麗にして事務所に戻る。
葉山さんがなんだかにこにこしていた。
「高野くん!そういえばさ、高野くんの歓迎会やってなかったからやりたいんだけど、今度の定休日の前日の夜どう?空いてる?」
「はい、空いてます」
「やったー!じゃあお店予約しとくね~」
「はーいじゃあみんなグラス持って!かんぱ~い!」
「「「乾杯!」」」
予定通り俺の歓迎会が行われた。
驚いたことにセンターのみんなが参加している。
なんだか嬉しい。
「高野くん、歓迎会遅くなっちゃってごめんね。もう2か月くらいかぁ。どう?もう慣れた?」
「はい。葉山さんが丁寧に仕事を教えてくれてるので、慣れてきました」
「ああ見えて、あの子結構真面目なのよね」
「今は…だいぶはっちゃけてますね」
「ふふ、たまにしかこういうことできないから楽しいんでしょうね」
榎本先生もだいぶテンション高めで、葉山さんと笑いながらお酒を飲んでいる。
俺も久々にお酒を飲んだ。
ふわふわした気持ちで空気になごむ。
そういえば、この間榎本先生に「先生にとっての幸せは何ですか?」って聞けた。
「飯!酒!穏やかな毎日!」って言っていたから、今幸せなのかななんて思った。
「今日は全員集まってるし、普段はキョウカ以外とはあんまり話すタイミングないと思うから、みんなと話してみてね」
「はい。ありがとうございます」
葉山さん、榎本先生、大沢先生、赤井さん、神田さん、みんなで雑談して、ご飯を食べて、お酒を飲んで楽しいなって思った。
トイレに行った後、少し外の空気を吸いたくて外に出ると赤井さんがいた。
「赤井さん、お疲れ様です」
「お疲れ様です」
「大丈夫ですか?体調悪いとか…」
「いえ、ちょっと人が多いところが苦手で、休憩です。高野さんこそ大丈夫ですか?榎本先生にお酒注がれまくってたけど」
「あはは、大丈夫です。俺も少し外の空気吸いたくなっただけです。あ、そういえば赤井さん、いつもセンターの備品の補充ありがとうございます」
「いえ、仕事ですから」
「俺の仕事でもあるのに、いつも完璧に済んでいるので助かってます」
「あの仕事、そこまで忙しくないですもんね」
「いいんだか悪いんだかですね」
夏の夜の空気を吸って、ゆっくり吐く。火照った体には、空気が少しひんやりとしているように感じた。
「そういえば、赤井さんはなんでこの仕事に応募したんですか?」
「時給が良いからですね。あと時間も短めだし」
サラッとした回答にふふっと笑みがこぼれてしまった。
赤井さんらしいな。
「高野さんは?」
「俺も時給がいいからです」
「同じじゃないですか」
「ですね」
あははと2人して笑う。
「じゃあ俺、先戻りますね」
「はい、また」
「はーいじゃあ解散!みんな気を付けて帰ってくださ~い!」
お疲れ様です~。と解散していく中、葉山さんに呼び止められた。
「あ、高野くんはこっち~。ちょっと手伝って!」
葉山さん、大沢先生、神田さん、俺でセンター方面へ歩いていく。
木々の間から流れてくる少し涼しい風が、俺の体を撫でる。気持ちいいな。
「そうそう、言ってなかったんだけど、今日から神田さん係を高野くんに任命しようと思ってぇ!」
完全に酔っぱらっている葉山さんは、大沢先生に寄りかかりながら歩いている。
いつもより声が大きくてふわふわしている。
「え、なんですかそれ?」
「いつも私が神田さんを2階に連れて行ったりしてるじゃん?それ~」
「神田さんを休ませたり、記憶の管理をしたりってところかしら。詳しい操作は、その時に神田さんに聞いても大丈夫よ」
葉山さんのあやふやな説明に大沢先生が補足をしてくれる。
「なるほどですね。わかりました」
記憶の管理ってなんだろうと思ったが、後で神田さんに聞けばいいやと思った。
センターに着き、大沢先生は葉山さんを自室へ、俺は神田さんをその隣の部屋へ連れて行く。
「神田さん、ここで合ってますか?」
「はい。高野さん、ありがとうございます」
「いえ。えっと、俺やり方まったく分からなくて…」
「ではまず、月末なので記憶の削除からお願いします。こちらのカバーを外してください」
神田さんはそういうと、右手の手首の辺りを指さした。
よくよく見ると線が入っていて外すことができるのが分かる。
ゆっくりと神田さんの腕に触れると、思っていたよりひんやりとした手触りにびっくりしてしまった。
カバーを外すとそこから文字が浮かび上がった。
神田さんの指示通りに操作を進めていく。
最後にここを押せば記憶は削除できるらしい。
「あの、神田さん。なんで記憶を消すんですか?」
「私は人間ではないので、全ての記憶を処理することが難しいです。全ての会話、景色の細かい部分も一度インプットしてしまうため、容量の消費が激しいです。その為、月に一度はデータを削除してもらい、寿命を延ばしています」
「寿命…。記憶を定期的に削除しないと、壊れるってことですか?」
「そうです。故障の原因となります」
「そうですか…」
「しかし、基本情報はそのまま引き継がれますのでご安心ください。高野さんのことも基本情報として登録されているので、記憶を削除した次の瞬間に誰ですか?ということにはなりません」
「それなら良かったです」
少しもやっとしていた心が晴れる。付き合いは短いけど、神田さんに忘れられてしまったらなんだかさみしい。
「じゃあ、押しますね」
「はい」
パネルをタップした瞬間、処理中という文字が浮かび上がった。
神田さんは完全に停止して、1ミリも動かなくなってしまった。
恐る恐るおーいと声をかけても反応しない。
少し不安になったが、数分して処理中という文字が完了に変わった。
その瞬間、神田さんは生きている人間のように再度動き始めた。
「神田さん。大丈夫ですか?あとはどうしたらいいですか?」
「高野さんですね。はい。あとは…」
神田さんを休憩させる方法を一通り聞いてやり終えた。
再起動後の神田さんは一瞬なんだか別人に感じた。
もう帰ろうと思い、葉山さんの部屋に挨拶に行く。
大沢先生もすぐ帰るのだろうか。
コンコン
「葉山さん、大沢先生、神田さんを休ませることが出来たのでもう帰ります」
声をかけながらちらっと部屋の中を覗くと、二人はソファに腰かけていた。
葉山さんは大沢先生の肩に寄りかかりながら寝ている。
やっぱりこの二人は仲がいいなと思った。
「高野くん、お疲れ様。私はここに泊まるから、気を付けて帰ってね」
「はい。お疲れさまでした。失礼します」
酔いが醒めてきた体で一度大きく深呼吸をする。
肺の中が夏の夜の空気で満たされたところで、終電に間に合うように少し早歩きで駅に向かった。
8月、いよいよ夏も本番で、日差しで肌が焼けるくらい暑くなってきた時、俺の初めての同行日が来た。
効率安寧死は処置後、火葬場で遺体を焼き、その後は遺骨を海に散骨する決まりになっている。
遺骨が入った箱は、海中で分解できる素材でできているため、箱ごと海へ流せる。
海に散骨する際は家族の同行が可能で、1輪の花のみ一緒に流すことも許可されている。
俺が別の効率安寧死センターの係の人と会ったのはこの時だ。
母が散骨される時、俺は同行した。
花の件は知らなくて当時は用意出来なかった。
ただ箱が流されていくところを見ているだけだった。
お母さん、今はもう幸せなのかな。
「高野くん、準備できたら乗っちゃって~!」
「はい。お願いします」
車に乗り込むと、葉山さんが行き先を入力した。
車は自動で動き出し、真夏の日差しの下を走り始めた。
「じゃあ、早速だけど火葬場に向かうね。そこで遺骨を受け取って、その後利用者さんのご家族と合流。管理区域の海に行って、船に乗って散骨する。こんな感じの流れよ」
「雑用って、何したらいいですか?」
「今日は初回だから流れをまずは掴んでみて。基本的にはご家族に寄り添うって感じで大丈夫だから」
「分かりました」
クーラーの風を感じながら窓の外を眺める。
BGMは蝉の鳴き声だ。
「そういえば、もう慣れた?」
「はい、おかげさまで」
「そう、良かった。利用者さんさ、いろんな人がいるでしょ。若い子からお年寄りまで、男女関係なく」
「そうですね。本当に人それぞれでした」
「だから君は変じゃないよ」
葉山さんは優しい顔でそう言ってくれた。
面接のときのこと、覚えててくれたんだ。
嬉しい。
「ありがとうございます」
少しすると、ある建物の前に停まった。
火葬場に着いたようだ。
「こっち、付いてきて」
扉の横のパネルに顔が認証されると扉が開いた。
そこには既に人がいた。
スーツを着た40代くらいの男性だった。
「おー葉山さん。お疲れ様」
「お疲れ様です」
「あれ、新人?珍しいね」
「はい。5月に入ってくれたバイトの子なんです」
「高野と申します。よろしくお願いいたします」
「私はここの管理人の茅場です。葉山さんとこの火葬は、ほとんどうちでやらさせてもらってるんだ。今後もよろしくね」
「茅場さん、今日の件。取りに来ました」
「用意するから少し待っててね」
周りを見てみると、向かいに大きな入口があった。
俺たちは裏口から入ったようだ。
小さな部屋もいくつかある。
ここで火葬が行われるんだと思っていたら茅場さんが戻ってきた。
「お待たせしました。確認お願いね」
「はい、合ってます。ありがとうございます。では、失礼します」
箱を受け取り車に戻り、利用者さんにご家族との合流地点に向かった。
水谷さん。ご家族は54歳の息子さんだ。
しばらくして、管理区域の海についた。
普段は聞こえない波の音がよく聞こえる。
「葉山さん、今回は父がお世話になりました。ありがとうございました」
「水谷様も、最後までありがとうございました。少し沖に出たところで散骨いたしますので、箱を持ってこちらの船にお乗りください」
船に乗り、葉山さんが簡単に操作する。
海風を感じながら水谷さんの顔をちらっと見た。
悲しさも寂しさも怒りも喜びも感じられないような表情だった。
水谷さんと目が合ってしまう。
「あまり、気を遣わなくても大丈夫ですよ。なんででしょうね、不思議とあまり悲しくないもんでね。」
散骨を終え、波に揺られて箱がどんどん遠ざかる。
箱が少しずつ溶けていき、遺骨が漏れ出しているのが微かに見えた。
8月の眩しい日差しを反射して、キラキラと波を彩った。
不謹慎かもしれないけど綺麗だなと思った。
その光からしばらく目を離せなかった。
涼しくて心地よい風を感じる。
もう秋が来たんだな。
今日の俺の仕事は掃除から始まった。
事務所のあまりない汚れをかき集めてゴミ箱に捨てる。
待合室への扉を開け、ふと受付の方に目をやると神田さんはいなかった。
その代わり、少し離れたところから重い物が落ちたような大きな音がした。
「保管室の方か…?」
待合室にいた利用者さんも少し驚いていたため、失礼しましたと声をかけながら保管室へ向かう。
処置室や保管室への廊下は、待合室から見えないようにカーテンで仕切られているため、向こう側の様子が全く見えない。
カーテンをくぐって扉をノックしてから入る。
コンコン
「神田さん?大丈夫ですか?」
「高野さん。すみません。備品を整理しようと思っていたのですが、思っていたより重かったようで落としてしまいました」
「手伝います」
「ありがとうございます」
黙々と備品を整理しているときに神田さんが小さく呟いた。
「…海」
「へ?」
「高野さん、同行したって聞いたので。海、どうでしたか?」
「あー!何回か行きましたよ。海、綺麗でした。天気も良かったですし」
「船も使うので、散骨の日は天気の良い日に行います」
「あ、そういえば確かに」
「神田さんは、海好きなんですか?」
「知識として理解はしているのですが、記憶としては存在しないので分かりません」
「そういえば、記憶消したばかりでしたね」
「はい」
先日行った記憶の削除について思い出す。
神田さんの肌の操作パネルはいつもひんやりとしている。
毎月毎月記憶が削除されるってどういう気持ちなんだろう…。
「じゃあ、今度の休みの日に海行きませんか?」
「高野さんが迷惑でなければ」
「決まりですね。楽しみです」
神田さんは少し目を大きくしていた。喜んでいるように見えて微笑ましかった。
目...。
そういえば、まだ他の人と話してるときは目を合わせられたり、合わせられなかったりするけど、神田さんとは初めて話した時から今まで、ずっと目を見て話すことができている。
無事に晴れた休日。
俺は神田さんと海に来ていた。
電車の中から海が見え始めた時から、神田さんは少し嬉しそうにしていた。
駅についてゆっくり歩きながら海岸へ向かった。
「高野さん、海ですね」
「着きましたね。海、どうですか?」
「すごく青いです。思っていたより綺麗です」
「ふふ、もう少し近くに行きましょう」
綺麗な砂浜を踏みながら移動する。
サクサクとした砂の音が心地いい。
ふと振り返ると、神田さんはとても慎重に砂を踏みしめていた。
「あはは、神田さん。手貸してください」
「え?あ、はい」
「少し歩きにくいかもしれないですけど、怖くないですよ」
「はい。ありがとうございます」
波の音が大きく聞こえる。
手を繋いだまましばらく海沿いを歩いた。
神田さん、いつもより手が温かいな。俺の体温のせいかな。
「少し休憩しましょう。なにか飲み物買ってきますね。神田さんはなにかいりますか?」
「私は飲食物の摂取の必要性はないので大丈夫です」
「あ、そうでしたね。すぐ戻ります」
少し駆け足で飲み物を買いに行く。
途中で良いものを見つけた。
「お待たせしました。これ、あげます」
「これは…かざぐるま、ですか?」
「飲み物探してたら近くに駄菓子屋があったので。今日いい風吹いてますし」
「ありがとうございます」
小さめの風車だが、海風に合わせてカラカラと回っている。
俺がサイダーを飲んでいる間、神田さんは風車をじーっと見ていた。
「あの、少し聞いてみたかったことがあるんですけど」
「はい」
「記憶が消去されるってどんな感じなんですか?」
「どんな感じ…とは、どういうことでしょうか?」
「えっと、寂しいとか悲しいとか…。逆にスッキリするとか?」
「なるほど、全体的に少しではありますが体が軽くなる感覚があります。あとは多少面倒と思うことも」
「面倒?」
「先日も備品を落としてしまいました。備品のデータは記録されていますが、重さは忘れていました。記憶を消す前にあの箱に物を入れすぎていたのでしょう」
「なるほど…」
「寂しいとか、悲しいとかはまだよくわかりません」
「そっか、それなら良かったです」
「高野さんは、もし記憶が削除されることになったら寂しい?のですか?」
「俺はきっと寂しいって思いますね。神田さん、海、砂浜、風車、サイダー、全て知っていても、今日の海の青さとか風の心地よさとか、少し笑ってくれた神田さんの表情の思い出が消されると考えると寂しいです」
「思い出…」
「もしかして、こういう細かい感情を覚えていることが生きているってことなのかな…」
「私、生きていないのですね…」
「わ!違います!そういうことじゃなくて!」
「ふふ、冗談ですよ」
「神田さん…」
「私だって冗談言いますよ。初めて使ってみましたが」
「心臓に悪いですよ...。じゃあ、そろそろ帰りましょうか」
「はい」
砂の音と波の音を聞きながら、ゆっくり駅に向かって歩き始めた。
「読書の秋」という言葉は昔からあるそうだ。
過ごしやすい気候になり、俺もまた本を読みたくなった。
そういえば、榎本先生から借りた本まだ読んでなかったな。
「この世の理の中で」作者は百目鬼日向さん。
かなり有名な小説家だ。
ページ数に圧倒されていたが、いざ読み始めるとその世界にのめりこんだ。
出勤日、小説にのめりこんでしまったため少し寝不足だった。
いつもより多めにあくびをしながら、センターへ向かう。
建物の裏手で、日光を浴びながら少しストレッチでもしようかと思っていたところ、先客がいた。
すらっとした色白の男の人が段差に腰かけていた。
「わ、ここにも人が来るんだね。すみません。すぐ退きます」
「あ、いえ、大丈夫ですよ。少し立ち寄っただけなので...」
「君もここの利用者?」
「えっと、スタッフです。ということは利用者様ですか?」
「ん~、利用予定かな、申請が通ればいいんだけど」
「そうなんですね」
「君がスタッフならまた会えそうだね。今日は大人しく帰るよ。またね」
「あ、はい。ではまた」
なんだか不思議な人だった。
申請は基本通るはずだけど、なにかあったのだろうか。
少しだけストレッチをして、出勤した。
「赤井さん、お疲れ様です」
「お疲れ様、今日の引継ぎだけど、この利用者さん申請の承認に時間がかかってるみたい」
「珍しいですね、分かりました」
「重要な人だとはじかれることも稀にあるよ。今日はそれだけかな。じゃあ、またね」
「はい。お疲れ様です」
「重要な人…?少し見てみるか。」
赤井さんが申請した書類に目を通してみた。
百目鬼ヒュウガ、29歳、男性。
その名前がなんか引っかかった。
もしかしてと思いながら他の作業を進めた。
しばらく経ってから申請状況が更新された。
そして申請は却下されていた。
「今日もお疲れ様!高野くん、もうあがっていいよ~」
「お疲れ様です。お先に失礼します」
他の作業は問題なく進み、今日の業務を終えた。
センターを出るとちょうど榎本先生が見えたので駆け寄った。
「榎本先生!」
「おう、高野か、お疲れ様」
「お疲れ様です。あの、先生にちょっと聞きたいことがあって…」
「百目鬼さんのことか?」
「そうです。今日の診察にいましたよね?」
「うん。そういえば、貸した本もう読んだか?なかなか面白いだろ」
「すごく面白いです!あと少しで読み終わります。じゃなくて、やっぱりそうなんですか?」
「うん。そうだよ。あの人は有名な小説家の百目鬼日向さんだ」
「…申請、却下されましたけど」
「あー、やっぱり駄目だったか。国にとって重要な人物だと通らないことがあるんだよな」
「そうなんですね…。百目鬼さんってどんな人なんですか?」
「ん〜、そうだな…さすが芸術家って感じかな。診察の時に話したけど、自分の死が美学としてあるタイプの人だと思ったよ」
「美学か…」
「案外、高野と話が合うかもしれないな」
「…俺が思ってる死はそんな大層なもんじゃないですよ」
「死はどんな理由でも、大層なもんだと思うぞ〜」
「うーん…。あ、そう言えばあの小説の話なんですけど、榎本先生はアンドロイドに心はあると思いますか?」
「あぁ、あの話はフィクションだからね、心はあると思うな。でもいざ現実の話となると難しいな。感情の記録自体はあると思うけど…」
「そうですよね…」
「ただ、まぁなんというか、葉山さんにその手の話題はしないほうがいいぞ」
「え?」
「うちには神田さんがいるからな。葉山さん、神田さんのこと気に入ってるし…否定的な話じゃなかったら大丈夫だと思うけど」
「そっか...。でも俺は否定的な意見じゃないですよ」
「だよな、お前最近神田さんと仲良いもんな〜」
榎本先生が肩を小突いてきたので、照れくさそうに笑ってしまった。
「仲良くできてると良いんですけど」
「何はともあれ、最近高野が楽しそうで良かったよ。じゃあな、お疲れ様」
「はい、お疲れ様です」
あれから、何回か百目鬼さんはセンターに来ているようだった。
タイミングが悪くて俺は会えてないけど…。
本も読み終わったし、また少し話してみたいなと思ってると、予想外の出来事が起きた。
「お疲れ様です」
いつものように職員入口から事務所に入ると、そこには百目鬼さんの姿があった。
「もー、百目鬼さん、ここに入り浸らないでくださいよ。職員の事務所なんですよ?」
「まぁまぁ、再申請がどうなるか僕が見守っても良いでしょうよ」
「何がまぁまぁよ…。ほらバイトの子も来ちゃったし」
びっくりしたまま百目鬼さんと目が合う。百目鬼さんの表情は柔らかかった。
「こ、こんにちは」
「あれ、君はあの時の?」
「なぁに高野くん、この人と知り合い?」
「あ、えっと、この前そこの裏で偶然会って…」
「そうそう、久しぶりだね〜」
「はぁ、ここにいても良いですけど仕事の邪魔はしないでくださいね」
「は〜い」
少しそわそわしながら今日の分の仕事をこなしていく。
たまに百目鬼さんに話しかけながら。
「そう言えば、葉山先生は恋人はいるんですか?」
「いるのでちょっかいかけないでください」
え!葉山さん恋人いるんだ。初耳。
ふと、大沢先生の顔が思い浮かんだけど合ってるだろうか。
「ありゃ残念」
「じゃあちょっと出てくるので、高野くんに変な事しないでくださいね!」
「嫌だな〜しないですよそんなこと」
「高野くんも邪魔だと思ったら邪魔って言って良いからね!」
「あはは…」
「いってきます!」
「いってらっしゃ〜い」
「いってらっしゃい」
葉山さんの姿が見えなくなると、百目鬼さんは椅子を引きずりながらこちらに近づいてきた。
「さて、今度は君に聞こうかな。高野くん恋人はいる?」
「いえ、恋人どころか友達もほとんどいないんです…」
「そっか〜、まぁ気にすることないよ!僕もそんな感じだし」
あはは、と少しの沈黙が流れた。
「あ、えっと、あの、小説読みました!ハッピーライフと時間旅行記と、この世の理の中で」
「へぇ!代表作からちょっとマイナーなやつまで!嬉しいなぁ。ありがとう」
「この世の理の中では、榎本先生に借りたんです。好きな作品だと言ってました」
「榎本先生ね!診察の時に話したよ〜。良い先生だね、彼」
「はい、俺もお世話になってます」
「どうだった?あの作品。少しマイナーだから若者の感想聞けると嬉しいな」
「面白かったです!人間とアンドロイドの関係、追求するのはタブーだって話もよくあるけど、綺麗に物語に落とし込んでいて楽しめました。2人が幸せに、ハッピーエンドになってくれて良かったです」
「そうか、ハッピーエンドと捉えてくれたか。それは良かった。そうしたらこれも聞きたくなるな。高野くんは現実世界のアンドロイドに心はあると思うかい?」
「あ、それ、俺も百目鬼さんに聞いてみたかったんです」
「そっか、じゃあまずは僕から言おうか。僕はもちろん、心はあると思うな。理想論かもしれないけど、そう考える方が面白いし楽しい。実は人間との違いは、あんまり無いんじゃないかなって思ってる」
「面白いと楽しい…」
「ふわっとした答えでごめんね」
「いえ、百目鬼さんの考えを聞けて嬉しいです」
「高野くんはどう思うかな?」
「俺は、初めてちゃんと接したアンドロイドは神田さんでした。あ、あの受付のアンドロイドです。最初はあまり心がどうとか考えてなかったんです。でも少しずつ話して、仲良くなってきて思いました。あまり人間と違いは無いんじゃないかって」
「そうだね」
「冗談とかも言うんですよ?びっくりしました。だから…神田さんに心があったら嬉しいです」
「良い関係を築けているんだね」
「もっと仲良くなりたいなって思います」
ピコンと、モニタ-に通知が届く。
「あ、申請結果が更新されましたよ!…却下されてますね」
「はぁ〜、やっぱりダメかぁ」
「百目鬼さんは何で効率安寧死をしようと思ったんですか?差し支えなければ…聞きたいです」
「んー、君になら教えてもいいかな。ズバリ、魅力的だからだよ」
「魅力的、確かにそうですね」
「やっぱり君は効率安寧死に賛成派なんだね。そう、魅力的、自分の老いる姿なんて見たくないし、成功している今を感じながら終わりにしたい。心残りを残すような相手もいないしね」
「凄いです」
「何も凄くはないよ。ただ、せっかくこんな素敵な法案ができたのに使えないとなると悲しいね。自分でやれって事かな」
「…自分でやるのは怖くないですか?」
「…そう思えるってことは、君は神田さんともっと仲良くなれるかもね」
「え?」
「さて、そろそろ帰ろうかな。お邪魔しました。先生方によろしくね」
「あ、はい。さようなら」
「さようなら!また機会があったら話そう」
百目鬼さんが帰って行き、残りの仕事に取り掛かる。
そうか、神田さんに心があるなら、処置をする度に怖いとか辛いとか思っているのかもしれないのか…。
1件のメッセージが届いた。
私の用事もう少しかかるから、時間になったらちゃんと上がってね。お疲れ様。
返信
ありがとうございます。お疲れ様でした。
「神田さん、今日もお疲れ様でした」
「はい、お疲れ様です」
「じゃあ上行きますか」
階段を登ると暖房が効いていない2階に着く。足元からひんやりとした空気が侵食してくる。
「流石にもう寒いですね」
「そうですね、12月ですし寒いと言われている季節です」
「暖房付けておきますか?」
「いえ、大丈夫です。電気代がかかってしまいます」
「あの、1つ聞いて良いですか?」
「どうぞ」
「答えにくかったら大丈夫なんですけど、…神田さんが利用者さんを処置する時って、怖かったり辛かったりしますか?」
「…高野さんは優しいですね。大丈夫ですよ、私はそういう目的で作られているので」
「そう、ですか」
「はい。それに私はアンドロイドなので心は無いです。先ほどもですが、高野さんはよく私がアンドロイドなのを忘れていますよね。」
「そういう訳じゃ…ないんですけど」
じゃあ、その微かに上がっている口角は何なんだろうと思わざるを得ない。
何かを言いたくて口を開いても、言語化できていないそれが声となって発されることはなかった。
「では、本日もありがとうございました。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
神田さんをスリープモードにする。
近くにあった毛布を神田さんに掛ける。
手が触れた肌は、いつも通りひんやりとしていた。
今日の仕事は、待合室の模様替えから始まった。
そう、もうすぐクリスマスだ。
葉山さんと一緒に、センターの外と内を軽く飾り付けをしていた。
「センターでもイベント事ってやるんですね」
「軽くね!クリスマスくらいはやっておこうかなと」
大人の利用者さんも結構喜んでくれるのよね~とるんるんで飾り付けをしている。
そんな葉山さんに気になっていることを聞いてみた。
「そういえば葉山さんって恋人いるんですよね」
「あ、あぁ〜…覚えてたか…」
「あ、なんかすみません…」
「いや、良いのよ。私が周りにあんまり言ってないだけだから。秘密ってわけでもないし…」
「そうなんですね。仲は順調ですか?」
「まぁ基本的にはね~。仲いい方だと思うわよ」
「でもクリスマスの日もイブも休みじゃないし、そもそも葉山さん滅多に休んでないですし…寂しくなっちゃいますね」
「ん〜、私は別に大丈夫だけど…」
「もしかして、ほぼ毎日会ってるからですか?」
葉山さんの手がピタリと止まった。口元が少し引き攣っている。
「…高野くん?君は、どこまで知ってるのかな?」
「あ、いえ、勘です!やっぱり大沢先生ですか?」
「うん…。なんで分かったの?」
「えっと、おふたりとも仲良いですし、大沢先生も嬉しそうに葉山さんと話しますし、飲み会の後の雰囲気とか…」
「あーはいはい分かりました!恥ずかしい…。そういう高野くんはどうなのよ、若いんだし恋愛の1つや2つあるでしょ!?」
「いや〜…俺は別に…」
「なによ、じゃあ過去は?恋人いたことはある?」
「いたことありますよ。上手くいかなかったですけど…」
「ふぅん…今は恋人欲しいな〜とかもないの?」
「うーん...ないですかね、あと半年くらいでお金貯まりますし」
「そっか。高野くんはブレないね」
「そうですか?」
「高野くんの給料下げちゃおうかな」
「え!?」
「冗談よ。よし、じゃああとはツリーかな。倉庫にあるから、この入り口あたりに運んでもらってもいい?」
「は、はい」
倉庫のドアを開けると、俺の身長と同じくらいの高さのツリーがあった。
「ちょっと重いな…よいしょっと…」
少しふらつきながら運んでいると、聞きなじみのある声が聞こえた。
「あれ、お兄さん久しぶり!」
「ん?あ、森崎さん!久しぶりだね」
森崎さんは以前、榎本先生の診察を受けた学生だ。
俺はその時少し同席したから、そこで顔見知りになり、その後は出勤のタイミングが合えば声をかけてくれるようになった。
今は大沢先生のカウンセリングに通っている。
「それなに?ツリー?」
「そうだよ?クリスマス用のやつ」
「へぇー、飾り付けするんだ!私の家そういうのやらないからなぁ」
「そうだ、ツリーの飾り付けはまだなんだ。手伝ってくれる?」
「うん!」
「あ、神田さん、森崎さん来ました。受付お願いします」
「かしこまりました」
「よし、あとはここに星を乗せるだけだね」
「んー!届いた!」
「ふふ、良かった」
「お兄さん、ありがとね」
「森崎さーん。こちらどうぞ」
タイミングを見て大沢先生が声を掛けてくれる。
「あ、もう行かなきゃ!またね」
「うん、いってらっしゃい」
電飾に小さい人形にてっぺんの星、簡単にだけど良い感じにクリスマス感が出てきた。
「あれ、まだあるな」
箱の隅に小さなサンタの飾りが残っていた。
せっかくだし…。
「神田さんも付けてみます?」
「いいのですか?では…」
神田さんが小さいサンタを受け取り、空いているスペースに括り付けた。
いつも思ってたけど、神田さんの手ってすらっとしてて綺麗だよな。
アンドロイドだから当たり前っちゃ当たり前だけど…。
「高野さん?」
「あ、えっと...神田さんの手って綺麗ですよね」
「そうですか?私のタイプのアンドロイドはどれも同じ形の手をしていますよ」
「まぁ、そうなりますよね」
「高野さんの手は、平均的なサイズでしょうか」
うーん。そう言う話じゃないんだけどなぁと思いながらも、神田さんらしいやと微笑ましかった。
「でも、温かい手です」
そう言って神田さんは俺の手をすくった。
びっくりして時が止まったように感じた。
「…!あ、ありがとうございます」
「すみません。私の手はこの時期には寒いですね」
「確かに冷たいけど、好きな冷たさです。神田さんの体温ですから」
「…ありがとうございます。そろそろ仕事に戻りましょうか」
「はい、ではまた」
「お疲れ様でした」
「はーいお疲れ様。気をつけて帰ってね」
うぅ、流石に寒いなぁ、マフラー出さないと。
そういえば、クリスマスの日シフト入ってるし、神田さんもきっと受付にいるだろうな。
仕事終わりに何かプレゼント渡そうかな…?
うーん、無難にマフラーとか手袋?でもあんまり外に出ないし…。
食べ物とか化粧品は必要ないし。
アクセサリー…、ブレスレットとかなら大丈夫かな?
クリスマスの日、仕事はトラブルなく順調に進んでいた。
「高野くん、もしこの後予定あるなら少し早めに上がっても良いわよ?」
「あ、いえ、特に予定はないので…」
「そう?」
危ない…。いや、別に隠さなくても良いんだけど。約束ではないし…。
あと、早く上がるとなると神田さんに渡すタイミング無くなるし…。
プレゼントは結局、ブレスレットにした。
細身のシンプルな、神田さんの腕に似合いそうな物だ。
「神田さん、お疲れ様です」
「本日もお疲れ様でした」
「上行きましょうか」
「はい」
心拍数が上がっている。
あまり悟られないように、前を歩いてそのまま神田さんの部屋に向かった。
「今日クリスマスですね」
「そうですね、お客様が入り口のツリーを見て喜んでました」
「飾り付けしたかいがありましたね」
「はい」
「神田さんは、クリスマスの日には何をするのか知っていますか?」
「日本の文化でのことでしょうか?日本では、ケーキを食べたり、飾り付けをしたり、イベントが開かれたり、プレゼント交換をしたり、ですよね」
「そうですね、そんな感じです。それで、もし良かったらこれ、貰ってください」
「これは…?」
「クリスマスプレゼントです」
「私はプレゼントを用意できていませんので…」
「あ、俺が渡したかっただけなので、お返しとかは全然良いんです!」
「では…頂きます。ありがとうございます。…プレゼントを貰うのは初めてです。今開けてもいいものなのでしょうか?」
「はい、開けてください」
神田さんが丁寧に開けると、それは月の明かりに反射してきらりと光った。
「…これはブレスレットですか?」
「はい。似合うと思って…あ、着けますね」
不思議なものを見ているような様子だったので、神田さんの腕に着けてみる。
細い綺麗な腕にシルバーが控えめに映える。
「綺麗です。ありがとうございます」
「良かったです。やっぱりこれ似合ってます!」
「…大事にします」
なんだか神田さんらしくないというか、初めてみるような表情をしていた。
その表情の正体が何かは、俺にはまだ分からなかった。
しばらく雑談をしていると、葉山さんたちが上がってきた。
「ふふ、あれ、高野くん予定なかったんじゃないの?」
葉山さんが完全にからかっている表情で話しかけてきた。
…ちょっと言い返してみよう。
「そういう葉山さんこそ、今晩はお楽しみですね」
「あー!そういうのセクハラって言うんだよ!」
葉山さんの隣にいる人、大沢先生を見ると目がまん丸になっていて少し可笑しかった。
「ちょっとキョウカ!?なんで?高野くんが知ってるの?」
「バレちゃったのよ、あはは」
「あははじゃないでしょう…もう」
「大丈夫よ、高野くん口堅いし。それに、バレたのだってノゾミが日々私に熱い視線を送ってくるせいだし」
「え!え!?」
「あはは、本当に仲が良いですね。それじゃあお先に失礼します」
あんまり長居すると邪魔になるだろうと思い、神田さんを休ませて出口に向かう。
途中、後で覚えておきなさいよと、大沢先生の声が聞こえてきて少し笑いそうになった。
年末になり、センターも短期間だけど休みになった。
しばらくシフトはない。
でも帰る実家もないので家に1人でいた。
どこにいるか分からない父親と連絡を取ろうともあまり思えない。
多くの時間をベッドでごろごろしていると、仕事を辞めたての時を思い出す。
あの時と比べて、精神面がだいぶ良くなってきたと自分でも思う。
元々は、この世界が嫌になって、人もあまり信用できなくなって、逃げるつもりで効率安寧死を使おうと思っていた。
けど最近は、センターの人みんな良い人だし、利用者さんとも世間話までできて、間違いなく心地良い世界にいることが出来ている。
以前より幸せだ。
でも、だからこそ。
百目鬼さんじゃないけど、だからこそ200万貯まったら効率安寧死を使いたいと思う。
幸せなまま、終わりにしたい。
神田さんに残る物なんて渡すべきじゃなかったかな…。
ぼんやりとした頭で考えていたら、いつの間にかそのまま眠ってしまった。
2113年
新年が始まった。
早々に再開したセンターでは、相変わらず仕事をこなした。
寒さも深まり、利用者さんの数が増えて少し忙しくなった。
真冬の海に沈んでいく遺骨はなんだか寂しく見えた。
あれから時が経ち、また春が近づいてきた。
暖かくなりつつある日差しを肌で感じながら今日も出勤した。
「高野さん。こんにちは」
「神田さん!外にいるの珍しいですね。どうかしましたか?」
「高野さんのこと待っていたんです。そろそろ出勤かなと思いまして」
「え!あ、はい!なんでしょう?」
「高野さんと桜を見に行きたくて声を掛けました」
「桜…だいぶ咲いてきてますもんね。いいですよ。俺も行きたいです」
「そうですか、それでは4月の1週目にある休みの日で」
「場所はどうしましょうか?」
「すぐそこの公園で大丈夫です」
「分かりました。あ、桜の満開のピークは月末みたいですよ。近場ですし、月末にします?」
「あ、いえ。あの…」
「都合悪かったですか?」
「えっと、少しでも長く高野さんとの思い出を覚えていたいので…」
「そう、ですか。じゃ、じゃあ4月に行きましょう!楽しみにしてます!」
「はい」
熱くなる顔を手でパタパタと仰ぎながら、職員入口へ小走りで向かった。
俺は出勤の時と同じルートを辿って、神田さんとの待ち合わせ場所に向かった。
「神田さん!こんにちは」
「高野さん、こんにちは」
「じゃあ行きましょうか」
「はい」
満開のピークは過ぎ、ゆっくりと散り始めている桜。大雨とか暴風がなくて良かったな。
ひらひらと風で舞った花びらが俺の手を掠める。
「今年の桜、綺麗ですね」
「はい。綺麗ではない年があるのですか?」
「んー、雨とか風ですぐ散っちゃうとかですかね。今年は長持ちして良かったです」
「ずっと咲いていれば、嬉しいことなのですね」
「あ、でも桜は散る良さもありますよ」
「確かに、散る桜と高野さんを見ていると綺麗だと思います」
微笑んで俺の目を真っすぐ見てくれた。
最近神田さんにドキっとさせられることが増えたと思う。
…俺、本気で神田さんのことが好きなのかな。
「それは俺のセリフですよ。綺麗です。桜も、神田さんも」
「ありがとうございます。また来年も見たいです」
「桜ですか?」
「桜も海も。他の景色でも良いです。高野さんといろんなものが見たいです」
「神田さん…」
「高野さんはどうですか?」
「あの…俺、実は効率安寧死を使おうと思ってるんです。もうすぐ、来月くらいにはお金が貯まるので」
「そう…だったんですね。すみません」
「いえ...。だから、これで最後かもしれないです」
その後、神田さんの口数はいつもよりも少なくなった。
表情も、時折寂しそうな顔をしていたような気がした。
センター内でも雑談は減った。
月を跨いでも難しい顔をしている時があったが、声のかけ方が分からなくなってしまった。
気がつけばもう5月。
あれから1年経った。
効率安寧死に使うお金も貯まった。
センターに予約もした。
家の解約もした。
葉山さんに退職のことも伝えたけど、こっちでやるからもう少し待っててと言われた。
あとは葉山さんに事情を話して、父に連絡は行かないようにしてもらった。
準備は整ったんだ。明日、榎本先生の診察を受ける。
「よぉ、ついにこの日が来たか」
「今日はよろしくお願いします」
少し緊張しながら始まった診察だったが、何のこともない雑談がしばらく続いた。
初めて会った時の事、森崎さんの事、一緒にあそこのラーメン屋に何回も行ったこと、好きな小説や漫画の話をしたこと。
「あの、診察は…?」
「約1年高野のこと見てきたんだ。もう分かってるよ」
「そうですか」
「だから俺が聞くことは1つだけ。本当にいいんだな?」
「はい」
「…分かった。あ、この後葉山さんのとこ行けよ。呼び出されてるからな」
「はい。榎本先生、今までお世話になりました。兄が出来たみたいで楽しかったです。ありがとうございました」
「こちらこそありがとう」
待合室を通って事務室に入る。
受付のところをちらっと見たが、神田さんはいなかった。
「失礼します」
「高野くん、お疲れ様。榎本先生の診察はどうだった?」
「ほとんど雑談でした」
「榎本くんらしいわね」
「それで話しって…?」
「神田さんのことなんだけど」
葉山さんの口からその言葉が出た途端、少し心拍数が上がった。
神田さんに何かあったのだろうか...。
「は、はい」
「あの子がね、珍しく私に相談してきたのよ。あの子、見た目は高野くんより年上に見えるけど、製造年から考えると14歳くらいなの。なんだかね、娘みたいに思える時もあるわ」
「そっか、確かにそうですね。」
「で、相談の内容なんだけど、なんだったと思う?」
「えっと、わからないです…。あ、でも最近難しそうな顔をしてることが多かったです。俺は相談のれてなかったですけど…」
「君は神田さんの表情がよく見えるのね」
「…え?」
「神田さんは高野くんのことで私に相談してきたのよ」
「どうして…。内容は…?」
「んー、私が言えるのはここまで。あとは本人から聞いて。一応解決したらしいから」
「わ、分かりました」
「じゃあ今日はこんな感じね!分かってると思うけど、手続き諸々で少し時間もらいます。処置日はいつが良い?」
「じゃあ、来週の火曜日で」
「分かった。ノゾミと赤井さんにも挨拶するでしょ?ノゾミはこの後予約入ってないから挨拶しに行って良いし、赤井さんは土曜日と月曜日にシフト入ってるから」
「はい、ありがとうございます」
事務室をあとにし、カウンセリング室へ向かった。
「失礼します。大沢先生、今大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫よ」
「あの、短い間でしたがお世話になりました」
「高野くんは私のカウンセリングには通ってくれないのかしら?結構評判良いのよ」
「森崎さんや他の利用者さんからもよく聞きます。好きな先生だって」
「それは嬉しいわね」
「来週の火曜日に決めたので、挨拶に来ました」
「そう...。本当に短い間だったけど、あなたが来てくれて楽しかったわ。ありがとう」
「こちらこそ、ありがとうございました」
カウンセリング室を後にして、今日はそのまま帰った。
神田さんとはまだ話せていない。
いよいよ明日が処置日か。
今日は家の中を空っぽにして、それから赤井さんに挨拶に行く。
神田さんとも話せたらいいけど…。
いつもの道を通ってセンターに向かう。
この景色ももう見れないんだな…なんて、自分が明日って決めたのに少しだけしんみりとしてしまう。
職員入口の扉を開けると、葉山さんと赤井さんがいた。
「お疲れ様です」
「お疲れ様。高野さん、今日最後?」
「はい。短い間でしたけどお世話になりました」
「こちらこそ。仕事助かった。ありがとう」
「俺も。ありがとうございました」
「ん」
赤井さんはそういうと手を差し出してきた。
「握手?」
「うん」
手を差し出すと、きゅっと軽く握られた。
なんだか珍しい光景だったけど嬉しかった。
「またね」
「…お疲れ様です」
「あ、高野くん、少し手伝ってもらってもいい?」
「はい」
その後は葉山さんの手伝いをした。
ついでにいつも通りの仕事もした。
「ごめんね、結局いつも通りの仕事してもらっちゃって」
「いいんです。特にやることないですし」
「この分の給料もちゃんと発生するから安心して!」
「あ、葉山さん。そのことなんですけど…」
「ん?」
「改めて、短い間でしたがお世話になりました。ここで働けて幸せでした。俺の残りの貯金、このセンターに寄付します。大した金額じゃないですけど」
「えぇ!?」
「身内は…おそらく父がいますが、連絡も取ってないのでよくわからないですし。なによりお世話になったここに少しでも恩返ししたくて」
「そうね…。分かったわ。ありがとう」
「それで、神田さんとは話せた?」
「いえ、まだなんです」
「そう。終業時間までもう少しあるし待つ?」
「はい」
「じゃあ、後はもうやることもないしゆっくりしててね」
葉山さんの邪魔をしたくなかったので、センター裏でゆっくりすることにした。
もう日も暮れて空は暗くなっている。
雲一つなく、月がとても明るい。
百目鬼さんと初めて会ったのはここだったな…。
あれから百目鬼さんには会えてないけど元気かな。
センターにももう来てないみたい。
「君は神田さんともっと仲良くなれるかもね、か」
いつしか百目鬼さんが言ってくれた言葉を思い出す。
仲良くなれたと思ったけど、最近は距離ができちゃったな。
夜の心地良い風に身を任せていると、いつの間にか眠ってしまっていた。
…さん。たかのさん。
あれ、声が聞こえる。俺のこと呼んでる…?
少しひんやりとしたものが俺の顔に触れた途端、意識が戻った。
「ぉうわ!あ、あれ神田さん?」
「はい」
「すみません。俺、寝ちゃったみたいで」
「お疲れのようですね」
「いえ、ぜんぜん…。今何時ですか?」
「9時過ぎました。終業です」
「そうですか。あ、起こしてくれてありがとうございます」
「葉山さんに言われたので…。今日も高野さんが操作してくれると聞きました」
「そうですね...じゃあ行きましょうか」
神田さんと話すタイミングは今しかないな。
せっかく葉山さんが作ってくれたんだし。
神田さんの部屋に着いたところで声をかける。
「あの、神田さん。この前はすみませんでした。俺が余計なことを言ってしまって…」
「それは、桜を見に行った時のことですか?」
「はい」
「効率安寧死のことですか?」
「はい…」
「私は余計なことだなんて思ってませんよ。…大事なことです」
「え、でも…。葉山さんにもなにか相談していたみたいですし…」
「あれは…。気にしないでください。もう解決、したので」
「…そうですか」
そう言う神田さんの顔は、まだ難しそうな顔をしていた。
「高野さん。今日は早めに休んでください」
「そうですね、そうします」
まだ話したりないけど、なんて言葉にしたらいいか分からない。
操作パネルを開くために、神田さんの腕をまくった。
部屋に差し込む月明りに反射して、それがきらりと光った。
「あ、…付けてくれてたんですね」
「一応、悩みが解決したので。今日は着けてみました」
「え!相談してたのってもしかしてブレスレットの事ですか!?好みじゃなかったとか…気持ち悪いとか…!?」
「全然違います」
「良かった…。ふふ」
「なんですか?」
「神田さんでも、むすっとした顔するんだなって思って」
「そんな顔していません」
「してますよ。ほらいつもよりちょっと違う」
「こんな些細な変化は普通気付きません」
「あはは。神田さん、俺、今日はまだお話ししてたいです。今晩は付き合ってくれませんか?」
「…分かりました」
それから、最近できていなかったおしゃべりを沢山した。
笑って、驚いて、少し怒って、また笑った。
壁に寄りかかり、座りながら。
朝日が昇る頃には、神田さんの肩を借りて寝てしまっていた。
ひんやりとしたような温かいような空気の中で。
「高野さん、おはようございます」
「ん...神田さん、おはようございます」
朝、始業時間よりも少し前。そういえば、葉山さんに何も言わずに泊まっちゃったな…と思いながらぼんやりしていると扉が開いた。
「高野くん、やっぱりここにいたのね。本来は事前に報告してほしいけど、今回は特別よ」
「す、すみません…。それと、ありがとうございます」
「その様子だと神田さんとは話せたのね」
「はい」
「ほい。それあげる。朝ごはん代わりね」
葉山さんはそういうとパンとお茶を渡してくれた。小さいときによく食べていたパンで懐かしい気持ちになった。
「ありがとうございます。」
「じゃあ神田さん借りるわよ。もう少し待っててね」
俺の予約は10時から。時間になるまで神田さんの休憩室で待っていた。
「高野さん。お待たせしました。準備が出来ましたので処置室へ」
「はい」
処置室のベッドに仰向けになる。
神田さんから最終的な説明を受け、同意する。
痛みはほとんどないし、すぐに終わるらしい。
俺は静かに目を閉じた。
しかし、しばらくしても何も始まらなかった。
目を開くと、神田さんは下を向いたまま固まっていた。
「神田さん?どうかしましたか…?なにかトラブルでも…」
「いえ、違うんです」
「え?」
「私、葉山さんに相談しました。高野さんのことで」
神田さんはぽつりぽつりと話してくれた。
「私は、誰かと親しくなりたいと思ったのは高野さんが初めてです。ですから…あの日、高野さんから効率安寧死の話を聞いて、どうしていいか分からなくなりました。私がいつもしている仕事をするだけなのに」
「…うん」
「葉山さんには、いつものように相手に寄り添えばいいと言われました。組まれたプログラム通りに寄り添う。一応解決したと言ったのはそのことです」
「そうですか...」
「アドバイスも貰えました。それが難しかったら気持ちをぶつけてみろ、と。しかし私はアンドロイドなので、私の気持ちなんてないはずなんです…」
泣きそうな顔をしていた。
いや、涙が出ていないだけで、本当はもう泣いているのかもしれない。
「…神田さん。人間かアンドロイドか、感情があるかないかなんて、そこまで気にしなくてもいいと思いますよ」
「ですが…」
「俺、神田さんに感情があったら嬉しいです。それに、実際本当にあると思います」
「…では、もし、もし高野さんが私のことを大切だと思ってくださるのでしたら、私の手を取ってください。あなたの温かい手で教えてください」
「…はい」
「高野さん。この記録を感情に当てはめてもいいですか」
「はい」
「...好きです。私と一緒にいてください」
「俺も神田さんのことが好きです。喜んで」
「迷惑をかけてしまってすみません」
「謝罪は必要ないです。…もう少しこのままでいいですか」
「はい。もちろんです」
神田さんのひんやりとした手を握りながら、しばらくそのまま…。
結論から言うと、俺は効率安寧死を延期にした。
神田さんとよく話し合って、キャンセルではなく延期にすることにした。
日程はちょうど1年後だ。
それと神田さん本人の希望で、記憶の削除を止めることにした。
一切の記憶を削除しないことで、彼女の寿命は約1年となった。
葉山さんを始め、センターの皆に沢山謝った。
葉山さんには「はいはい。アンドロイド1人壊すんだから、残りは住み込みで働いて弁償してくださ~い」なんて言われてしまった。
感謝してもしきれない。
しばらくして、また落ち着いた日常が戻ってきた時にふと思った。
「そういえば、神田さんって下の名前あるんですか?」
「いえ、元から名前はないんです。神田という苗字も葉山さんがつけてくれました」
「そっかぁ」
「…高野さん、私に名前をつけてくれますか?」
「え!いいんですか!」
「はい」
「うーんと、そうだなぁ…シオンはどうですか?」
「シオン…もしかして花の名前ですか?」
「はい。その花好きなんです。見た目も神田さんに似てるなって思いますし」
「確か…キク科の紫の花ですよね。ありがとうございます?」
「あはは、褒めてますよ。もうすぐ咲き時なんですよね。今度見に行きましょうか」
「はい」
「あ、そうだ。そしたら俺もユウキって呼んで欲しいです。あと敬語もなしでも…」
「すみません。敬語がないのはなんだか慣れなくて…」
「ですよね。じゃあ俺もそのままで」
「ユ、ユウキさんは敬語外してもいいんですよ?」
「俺はシオンさんと対等がいいんです」
「これがシオンなんですね。実物を見るのは初めてです」
「綺麗ですよね。ほらシオンさんにぴったり」
「ありがとうございます」
「今日は一段と月がきれいですね。十五夜だそうです」
「今年も海来れましたね!また10月になってしまいましたが」
「紅葉ってこんなにきれいな場所があるんですね。知りませんでした」
「今年は私もプレゼントを用意してみました。開けてみてください」
「ふふ、考えてること同じでしたね」
「雪、積もりましたね。風邪ひかないでくださいね?」
「桜の季節になってしまいましたね…今年の桜も綺麗です」
「あれから1年経ってしまいましたか。ユウキさん」
「ユウキさん?」
「あ、すみません。今までのこと思い出してて…」
処置室のベッドに横たわっていたら少しぼーっとしてしまっていた。
これが走馬灯ってやつなのかな。
シオンさんの笑顔ばかりが思い浮かんだ。
「ふふ、私、おかげさまで全部覚えてます。ユウキさんが何もない場所で転びそうになってたり、寝癖が全然直らない時もありましたね。あとは猫に頑張って話しかけたり、私が言ってみたダジャレがツボにはまってしまったり。」
「えぇ!変なのばっかじゃないですか」
「そんなことないですよ。大切な思い出です。あとは、空の色の違いを教えてくれたり、お散歩しすぎて迷子になったり、いろんな場所にもお出かけしましたね」
「沢山覚えてもらえて嬉しいです。楽しかったですね」
「ええ、とても」
「では、またあとで」
「はい、またすぐに会いましょう」
「ありがとう。愛してるよ。これからも」
「私も、愛してます」
目を瞑ると急激にまぶたが重くなっていった。
つめたい。心地良い。何度も手にした体温を思い出す。
魂が世界に沈んでいく。そんな気がした。
―――――――――――
ユウキさんが目を瞑ったあと、震える手を抑えてそれを開始した。
おやすみなさい。私もすぐに。
ゆっくりと触れたユウキさんの唇は、まだ温かかった。
「神田さん、お疲れ様。じゃあ行きましょうか」
「はい」
葉山さんの車に乗り、海に向かう。
今日はユウキさんの遺骨を散骨する日です。
「一緒に流すお花はなにかあるの?」
「はい。これにします」
「ドライフラワー…シオンね」
「ユウキさんに貰いました。一緒に見に行った時のものです」
「高野くん、やるわね~。うん、ぴったり。あなたの大切な名前だもんね」
「はい。それに…私もユウキさんのこと絶対に忘れません」
「うん」
「はい、着いたわよ」
「ありがとうございます」
「船の準備してくるから少し待っててね」
「はい」
1人残されて海を見渡す。
海はいつ見ても綺麗ですね。
ふと隣を見てしまった。
何もない場所を。
遺骨を落とさないように、しっかりと抱きしめる。
「おまたせ。気を付けて乗ってね」
「はい」
目的地が設定された船がゆっくりと動き出す。
散骨可能エリアにはすぐ着いた。
「神田さん、もう大丈夫よ」
「はい」
「ゆっくり流してあげて」
「…はい」
私は…このユウキさんを手放したくないという気持ちと、すぐに会いに行きたいという気持ちでごちゃごちゃだった。
でもこのまま過ごしたって、もう記憶し続けることが難しいことは十分に理解している。
あと数日でも過ぎたら、いくつかの記憶が消えてしまいそうなのが分かる。
それは絶対にしたくない。
ユウキさんを一瞬でも忘れたくない。
遺骨の入った箱を海面に近づける。
シオンを添えてゆっくり手を離した。
「それじゃあ戻るわね」
「…はい」
目をそらせない。
箱が少しずつ溶けていくのが見えた。
それは、太陽の光に反射してシオンの花を綺麗に彩っていた。
「神田さん。本当にお疲れ様」
「葉山さんも最後までありがとうございました。私、最初に名前を付けてくれた人が葉山さんで嬉しかったです。所属できた場所がここで幸せでした。お世話になりました。体に気を付けてください。これからもお元気で」
全ての機能が停止していくのを感じる。
どうか、この気持ちだけは消えないで―――