山越えならびに山籠りの魅力とそれが持つ潜在的リスクに関する一考察(其の弍)
避暑にやってきた人々で、湖畔は華やいだ雰囲気に包まれている。そのなかでも湖の北端に位置する複合リゾート施設は、この界隈で一番の賑わい。
普段のあたしは極力人目を避けて行動するし、人がいっぱいの所もあまり得意じゃないけど、ここの雰囲気は嫌いじゃない。
もっとも、あたしはレジャーに興じる人々には直接縁の無い、いわゆるバックヤードなんだけど。歩くと、再び静けさが勝るところに飛び出る。きらびやかな風景が広がる表側とは対照的に、質素で実用的な建物のつくりが目立つ。このシンプルな感じも悪くない。
目的の建物に到着し、そーっと扉を開ける。別に立入禁止とかじゃないからコソコソする必要は無いのだけど、ま、用事の内容が内容なので……。
「……お邪魔、しま……」
「あ、お久しぶりです」
良かった。あたしの顔を見るだけで全て察してくれる人がいてくれて。
「いつもの通りでいいですか?」
あたしが尋ねると、
「もちろん。期待してますよ」
これで話はすべて決まり。毎度毎度の話の早さに苦笑しつつも、お礼を伝える。
「はは、ありがとうございます」
このリゾートパークでは、夏のあいだ大小さまざまなイベントが行われる。そのなかのひとつがストリートパフォーマンス、つまり大道芸。ジャグリングとかバルーンアートとか、園内のあちらこちらに、さまざまなジャンルの大道芸人が出没する、というものだった、かつては。
今や、会場は野外ステージに限定され、あらかじめ演者もタイムテーブルも決まっている。飛び込み参加は原則認めていない。
表向きは。
というわけで、別世界から迷い込んだ人との関わりを極力避けている放浪エルフとしては、昔からのよしみでゴニョゴニョしてもらうしかないわけで。
エルフなんて、文字通り霞を食べてでも生きていけるのだけど、それはそれとして何かと物要りなことだってある。
かと言って定職につく当てもあるじゃなし、単発バイトだって身元確認とかが年々面倒になってく。そんななか、ここは古くからのお付き合いということで甘えさせてもらっている。これはちょっとした夏の小遣い稼ぎ、なのだ。
————
「いいんですか? ここで」
「あ、いいんですいいんです。いつも無理言って、ねじ込んでもらってるんですから」
パフォーマー用の更衣室と控室は別途ちゃんと準備してあるんだけど、飛び入り枠のあたしは大手を振って使える立場じゃないと、わきまえてる。
それに、だいいち、着替え中に。
この無駄に長い耳を見られたら困るじゃないか。
というわけで、あたしはいつも物置小屋の一部を使わせてもらってる。
あたしは、いつ何時でも一芸を披露できるように必要最小限の小道具類は持って移動してるけど、大した量は持てない。ところが、なぜかここの物置にはジャグリングツールがカゴに入れて保管してあって、ホコリをかぶってる他の収納物の中にありながらキレイでピカピカで、ついでに「自由利用可」なんて書かれた貼り紙が、むかしどっかで使った時にはがし忘れたにしてはやたらと真新しくて、しかも、あたしの持ってなさそうな重かったりかさばったりするものが揃ってて。
ひと様の物を勝手に使うのは良くないけど、でも使用禁止とも書いてないわけだし。
(ありがと)
あたしは独り言ちて、これまた持ち歩きに最適なサイズと構造になっている小道具カゴを拝借する。
相変わらずの着た切りスズメなあたし。古びた(古臭くはないぞっ、ましてや薄汚れてもないしっ)レーシングスーツで一芸を披露してもサマにはならないので、お気に入りの専用衣装も常備してる。レーシングスーツの下に着てるスポーツインナーに重ね着できる便利なつくりなのだ。
その衣装を取り出して、
「お久しぶり」
そう語りかけるのがあたしのルーティーン。だってこの衣装も演技での相棒みたいなもんだから。真っ黒で光沢があり、手に取るとそこそこ重みも感じるこの衣装。そりゃ、長いあいだ使ってたら愛着だって沸くさ。
コンパクトにしまってあるのを広げると、上から下までつながったオールインワンで、背中のファスナーを開けて足から着ていくように出来ている。あたしの身体にピッタリかややきつめの寸法で作ったので、膝から腿を着圧タイツよろしく締め付ける感覚に気も引き締まる。
ただこのコスチューム、ちょっと難点があって。
「……くっさ……」
コスチュームの内部から、独特のニオイが上がってくる。
この衣装はキャットスーツという全身をびっちり覆う服で、このコスチュームの材料はラテックスとかラバーとか呼ばれるゴム素材。そして裏地は耐久性を持たせるため、主にコットンで作られた丈夫な生地で補強している。まるで昔のレインコートみたい。
この服、水を通さないかわりに通気性も持たない。ということは、いくら高原の湖畔とはいえ、夏には変わらない。しかもコスチュームの色は黒だから容赦なく太陽熱を吸収し、着ているあたしはどんどん汗をかくし、それは外には一切放出されない。そしてゴム引のレインコートって洗濯機を痛めるので洗えない。
したがって、あたしのかいた汗は、ずっと肌とスーツとの間に閉じ込められる。さらに中の裏地はコットンとかなので、そこには汗が染み込む。
エルフの汗はニオわない。いや、人間の汗だって元々ニオイは無い。だから俗に言う汗臭さというのは、汗が皮膚上の物質と反応して臭い菌をどんどん生成してしまうからなのだとか。
一方でエルフの肌は組成が違うので、汗と反応する物質がほとんど無い。ほとんど無いんだけど、大量の汗が長時間服の中に閉じ込められれば、さすがにエルフの汗も臭いを発するようになるし、洗わずにいれば、発酵し、熟成していく。
ま、もともと自分の身体から発したニオイなんだから我慢しなくちゃ。とりあえず背中のファスナーを首まで閉めれば、いったんこの汗臭さからは解放される。首より下にニオイが閉じ込められるから。
ここで衣装を重ね着する。黒一色で遊びのないツルツルじゃ味気ないから。いくつかラインナップがあるけど、今日はモノトーンのメイド服。ぜんぶエナメルで出来ていて、ラバースーツとの相性も良い。
普段おしゃれとかしないし、こうやってカワイイ服を選んで着るのは、いつもドキドキしちゃう。
でも、これで終わりじゃない。お次は、金髪ロングと民族的アイデンティティではあるけどこっちの世界では面倒でもある長い耳をまとめなければならない。
あたしはずっと、昔ドルフィンと呼ばれてたレトロなスイミングキャップを被る。いま主流になっている水泳帽と違って、ジェット型ヘルメットのように生地が耳までしっかり覆ってくれるので、耳も髪の毛もコンパクトにまとまってくれる。それに、したたる汗もよく吸ってくれるし、デザインも好き。あごのホックを留めると、改めて気が引き締まる。
髪をまとめるのは、コスチュームの首から上を着用するためだが、その前に、ヘッドマスクとか言うらしいんだけど、頭部を覆う樹脂製のものをかぶる。ヘルメットのようでもあるけど、それにしては薄い。
あたしはカプセルって呼んでるけど、これはキャットスーツを完全に着るのに必要なモノ。
スーツは背中のファスナーをそのまま上げて頭部を着用する。この時、髪の毛が巻き込まれないためにもヘッドキャップが無きゃ困る。
顔の部分は覆面のようになっていて、それをカプセルに密着するようにかぶせると、一瞬目の前が真っ暗になるけど、慣れるとわずかな光が漏れ出ているのが分かる。
そして、いよいよ首の後ろのファスナーをしっかり閉めると、コスチューム着用完了!
さあ、仕上がり確認だ。姿見に自分の全身を写しだしてみる。
……これが、あたし。いつも思うけど、ふしぎ。あたしがあたしじゃないくらい、カンペキに変身しちゃってる。
あたしの身体すべてが、このキャットスーツに包まれている。そして鏡に写った顔は、エルフじゃない。
黒猫ちゃん。
決して、キャットスーツと掛けたわけじゃ無いんだけど、要するにあたしは、猫のきぐるみに変身したってわけ。ぴょこんと飛び出す三角の耳、そしてしっぽもついてる。
大道芸はこっちの世界のあたしにとっては重要な生活の糧で、何年もやってる。でも最近は特にそうだけど、写真とか、動画も珍しくなくなって来たんで、あんまし顔出しはしたくない。万に一つもそこから居場所とかが特定されて、たまたまこのクッソ長い耳を見られた日にはびっくり人間発見てな具合で見せ物からの研究材料コースになっちゃう。
だからずっと顔は隠してるけど、どうせならオシャレも兼ねてみようと思って、このカッコに落ち着いた。このキャットスーツは顔ばかりか全身見えなくなるし、コンパクトに収納できるので、重宝してる。
とにもかくにも、準備は整った。さあ始めよう。
————
正規ルートでない以上、ステージではなく、文字通り園内の道があたしのプレイグラウンド。通行の邪魔にならない場所を確保して軽く準備運動を始めると、一人、また一人と、遠くから観察し始めるお客さんがいることに気づく。準備を周到にするのは、こうやって通行人の目を引くためでもある。
複数の視線が投げかけられていることを確認して、まずはジャグリングの定番、クラブを取り出す。コーラの瓶のような形をした木の道具を片手で投げて、もう片方の手でキャッチしてを繰り返すやつ。 まだまだ通り過ぎるだけの人がほとんど。でもやってるうちに自然と人は集まってくる、はず。こうして、投げて、取って、また投げて、とリズミカルに……。
「あいたっ!」
高々と宙に舞ったクラブが、あたしの脳天を直撃。
あたしは決して器用でもなければ、運動神経が優れているわけでもない。ジャグリングだって素人の見よう見まね。
それでいてこのキャットスーツ、いや実質きぐるみであるこの黒猫ちゃんの衣装に身を包めば、視界は狭いし、動きにくいし。ゴムといってもふにゃふにゃじゃないから、手や足を曲げるにも力が必要だし。そもそもこれを着て芸をする時点で無謀だったりして。
マスクの中でも、外の雰囲気は何となく察せられる。どうやら呆れてこの場を立ち去った観客もいるようす。でも、
「……くすくす」
かすかに笑いがこぼれている。
よし、こりゃしめたもんだぜ。
気を取り直して、再度クラブを投げ上げる。今後こそ、ってとこでまた失敗。
「あーあ」
というため息も起きてる感触。でもここぞとばかり、あたしは、
「いったーいー!」
といった感じのジェスチャーをする。頭を抱えてしゃがみ込んで、首を左右に振って。
そしてゆっくりと立ち上がり、手に取ったクラブをまじまじと見つめる。そしてそれをそっと小道具箱にしまって、リングに持ち替える。直径三十センチくらい? のキラキラした輪っかを、これまた回転を加えて投げ上げる。上手くいけばキレイだし、カッコいいし。
はい失敗。
これは頭とかに落ちても痛くは無いんだけど、失敗すれば凹むんで、それを隠さず表にだして悔しがる。
「……あはは」
いつのまにか聴衆が増えてきていて、その中から本格的に笑いが起きてくる。
よし来た。
懲りずに次々とリングを頭上に放つあたし。もちろん失敗。
うんうん、いい感じに失敗してる。
コツは、わざとらしいのはすぐバレるから本気で失敗すること。でも失敗を前提に制御を加えることは必要。たとえば、あの辺を狙って放り投げると?
「カシャン」
縁日の輪投げよろしく、頭の猫耳にナイスイン。ここてここで大げさに首を振って、
「あれあれ、どこ行っちゃったの〜?」
なんて感じのリアクションをしてから、ハッとするように自分の耳を触って輪っかの存在に気づき、アタフタしながらそれを外す仕草をする。するとギャラリーの中から、
「かわいい〜」
なんて言葉も聞こえてきたりして。
うんうん、今日も順調順調。ぱっと見真っ黒な出で立ちで、とっつきにくい姿なのかもだけど、こうやってドジなキャラクターを見せていくとお客さんの気持ちもだんだんほぐれてく。
失敗するたびに、オーバーアクションするのも効果的って、あたしが長年やってて気づいたこと。でもそれも大変なんだぞ。このキャットスーツはラバー製だけど、輪ゴムなんかと違って柔らかくもなければ伸縮性もあまり無い。ちょっと手足を動かすのにも結構な力が必要。
でもそうすると、かえってオーバーアクションを取りやすいのもあるみたい。意識して身体を動かさなきゃいけないから。
ほら、また失敗しちゃった。でも次第に、
「頑張ってー!」
「今度こそ行けるぞー!」
といった声援が高まっていくのが感じ取れる。
いくら冷徹な性格で鳴らすエルフ様でも、この応援には心動かされる。
よし、今度こそ!
……成功!
暖かな拍手と歓声に、あたしは包まれる。うん、悪くないよね、このカンジ。
いつのまにか集まった、たくさんのお客様に、ていねいにお礼をする。きぐるみだから声を出さない今のあたしだけど、その代わり肌にピッタリのラバースーツがキュッと鳴いて胴体に食い込むくらい深々とお辞儀して。
すると、拍手のリズムが次第に揃ってきて、
「アンコール!」
という合唱となる。
あたしが始めた頃は、ライブとかのアンコールも演劇のカーテンコールと同じで拍手だけだったんだよなあ、掛け声はちょっと無粋に感じるなあ、なんてマスクの外には聞こえないようにつぶやいてみるけど、もちろん悪い気はしない。
ご要望にお答えしての、ここでの追加パフォーマンスはいつもこれ、と決めているものがある。あたしは小道具箱から取り出した球体のカプセルを、次々と宙に放つ。すると、
「コロコロコロ」
と、またも拾い損ねたカプセルが地面を転がってゆく。あーまた失敗、ほんとドジだねえ、そんなことを皆さんお思いなのだろう。でもこの失敗は、目的あってのことなのさ。
たとえどんなにポカやってドジやっても、宙に舞った小道具がお客様を直撃! なんてことは絶対あってはならない。でも今のあたしは、わざとそのための注意力をオフにしている。
すると、
「あ、これ中にキーホルダーが入ってる!」
「こっちはバッジ!」
てな声がちらほら湧いてくる。
このカプセルは、誰にもお馴染みのガチャガチャに入ってるやつ。中には子どもが喜びそうなちょっとしたアクセサリーやオモチャが入っている。ときには園内の本物のガチャで余ったオモチャとか、周りの施設のキャラクターだったり、なかには割引券なんかも。
取れないくらいたくさん投げ上げて、こぼれたものを拾った子に持ち帰ってもらおうっていう、ちょっとしたサービス。大して豪華なものは出せないけど、喜んでくれてるとあたしも嬉しい。
小道具箱は空カプセルの回収箱にもなる。開けたあとのカプセルを戻しに来てくれた子どもたちが、「ありがとう」
とお辞儀してくれることもしばしば。そんな時はあたしも、
「こちらこそ、ありがとにゃん」
的なポーズでお礼を返す。グーにした両手をくいっと顔の両側で曲げてみたりして。
せっかく猫なんだから、猫らしいこともしなきゃね。
エルフなんだから、魔法でも使えればもっと楽に演技できるかもしれない。でもこの世界に来てから、せっかくの便利な魔法が使えなくなった。だからあたしは、自力で、こうして道化の要素も交えつつ自分の努力でオーディエンスを喜ばせる。
でも、もし今のあたしが観衆ウケする魔法を使えたとしても、多分ジャグリングとかには使わないと思う。だってそれは修行を積んで今の地位に達した人間の同業者に対してフェアじゃないから。そんなチートは、あたしの誇りにかけて出来ない。こんなちっぽけな、吹けば飛ぶよな誇りだけど。
さあ、ステージでモノホンのパフォーマーショーが始まる。あたしはパークの雰囲気を暖めるのが役割だから、あとはヨロシク。
————
ステージだったり、他のアトラクションに向かう子どもたちに全力で両手を振ってバイバイを続け、一通り人流がはけたのを確認したら、そっと、あたし専用休憩室こと物置小屋に戻る。いちおう、正体は秘密だから、マスクを外した姿を見られないようにしなきゃね。
と、言いつつも。
このあとも何度か出番があるので、そういう時はいちいちコスチュームを脱がなくなった。一度脱ぐと緊張感が切れてしまいそうなのが嫌だし、水分補給はいつも使ってる水筒に付いたストローが入るくらいのスリットを作ってあるから、マスクも取らなくて良い。
暑いことは暑い。スーツの中は汗と水蒸気とが逃げ場なく漂っている。口元のスリットは、あくまでストローの出入り口。ストローを抜くと閉じてしまうので、視界や換気の補助にはならない。できれば、背中から後頭部まで伸びるファスナーを全開にして涼みたい。
だけど、緊張感もそうだし、あと脱ぐと身体が冷えすぎちゃう。だって、蒸発して体温を奪うための汗が、一気に解放されたら一気に体温を下げちゃうでしょ?
だからあたしは、どういうわけか清潔さの保たれている、使われなくなったプレイルーム用のマットに黒猫ちゃんの姿のままダイブし、しばしの休憩タイムにする。この柔らかすぎず固すぎず、コスチュームが着崩れないジャストな感じ。大の字になってリラックスなのだ、にゃあ。
高原の空気には魔法のような成分が含まれてると思う。
……いや、こっちの世界に本気で魔法があると思って言ってるんじゃなくて、例えなんだけど。
なんだろ、一度ここにやって来るともう戻れないというか、下界に足を踏み入れるなんてもう御免だ、しばらくはこの雲の上の楽園でのんびりしたいという気分に支配されてしまう。それは猛暑からの逃避でもあるし、濃い密度を持って人と人がかかわる世界と距離を置きたいということでもある。
世間の色んな憂さってものが人間にはあるわけだし、エルフのあたしが直接それらに振り回されるわけじゃないけど、そういうのよりも自然の営みに囲まれてるほうが身体に優しい感じがするのは確か。
別にエルフに限ったことじゃない。この湖畔に集う人々もまた、日々のせわしなさからほんの少しでも離れていたい、できればここに居続けたいという魔法にかかっていると思う。
もしかしたら、あたしも。
ほてった全身が次第に落ち着いてくる。エルフはどうやら熱中症にも無縁らしいけど、頭は冷やした方が気持ちいいので、すきま風の当たるところに頭を持ってくと、程よく冷えてくる。
全身汗びっしょりでベタベタはするけど、この暑すぎず寒くもない、ちょうど良いくらい
ステージのパフォーマンスが終わったら、また外に出て、まだ物足りないお客さんにせめてあたしのつたない芸を見てもらおう。ステージの合間を縫うように休んだり技を披露したりを繰り返そう。
明日も、明後日も。