山越えならびに山籠りの魅力とそれが持つ潜在的リスクに関する一考察(其の壱)
八ヶ岳のふもとに広がる高原で、ソフトクリームを食べまくったあたしは、野辺山からさらに北へとバイクを走らせ、松原湖エリアへ到着。
エルフにとって高原の気候や森に囲まれた湖畔はとても心地が良い。今宵はここに留まろうと決めた。けっして、このあたりにも美味しいソフトクリームがあるとかいう理由では無い。無いといったら、無い。
このまま北上すれば中山道にぶつかり、そのから右に行くのも左に行くのも面白い。でもバイク乗りが松原湖で夜を迎えるからには、次の日はあれにトライするのが本能に忠実だろう、とも思う。
というわけでこの先あたしが目指すのは、八ヶ岳ビューロード。八ヶ岳本峰北側に続く山脈を越えていく、アグレッシブな走りが楽しめる山岳コース。山越えこそバイクの醍醐味。あたしはそう思ってる。
翌朝は、楽しみのあまり日の出と同時に目が覚めた。ひんやりとした高原の空気のなかバイクにまたがり、さあ出発だ。
このルートは山の尾根へとダイレクトに取り付き、尾根に出たらばそれに沿って道が伸びてゆく。左右は谷へと落ち込んでいるので眺望は抜群。
次第に斜度を増した道は、ヘアピンカーブの連続するゾーンに入り規則的なカーブが続く。それが終わるとギザギザの等高線に忠実なカーブをたどるようになる。不規則なカーブもまた走りがいがあって良い。
トンネルや切り通し・橋などで無理やり走りやすくした道よりも、自然の地形に逆らわず敷かれた道の方が、あたしは好き。
いつのまにか標高およそ千七百メートルまで登り詰め、メルヘン街道こと国道二九九号と合流する。
メルヘン街道はその乙女ちっくな名前とは裏腹に、急坂と急カーブの連続する典型的な山岳ルート。攻めた走りを楽しむにはもってこい。
ちっとも疲れを知らぬまま、標高二一二七メートルの麦草峠に到達。ピークにたどり着いた達成感、爽快感といったら!
バイクを停めて、展望の良い場所でヘルメットを脱ぐ。長い髪がダンスするかのごとく風になびく。スリリングなライディングで紅潮気味の頬も癒してくれる。
……このまま、ずっとこうしていたい。
けれど穏やかな時間は、あっという間に過ぎて行く。タイトな予定に振り回される身ではないけど、夏の太陽が既にあたしの肌をこんがり焼いてしまえと狙っているから。
急ごう。
さしあたり、顔を隠そう。フルフェイスのヘルメットはこういう時も便利。
……くさっ。
————
汗の臭いというものは実際には存在しないのだという。一般にいう汗臭さと呼ばれる臭いは皮膚の上に住む細菌と汗が反応して出来るもの。つまり汗自体に悪臭は無いということ。
異世界の種族たちも汗をかく。エルフだって汗をかく。でもあたしたちの身体はその点では恵まれていて、皮膚上にいる菌類も人間のそれと構成が違っているらしい。だからエルフが汗をかいてもほとんど匂いは発生しない。
これは既に実証済み。あたしはキャンプ場を使うこともあるんだけど、隣のテントの人達が互いに服や肌が汗臭いと言ってわちゃわちゃしてることがある。もちろん隣のテントにいるあたしもしっかり汗をかいている。
心配になってきたので、その子たちにお願いして、かいでもらった。すると、
「全然匂わないですよー?」
と異口同音に答えが返ってきた。
本当に? お世辞抜きで? と念を押しても返事は同じ。何度やっても同じ結果なのでこれは確からしい。
だからついつい肌のお洗濯を忘れがちになるけど、今回はさすがに汗をかきすぎた。汗だくのエルフがまったく匂わないというわけではないので、ずーっとほっとけばこうなるのは必定。油断してた。
麦草峠から西へと下ると蓼科の別荘地が眼下に広がってくる。ここには主に別荘の利用者に向けた水遊びスポットがある。
もちろん温泉も悪くない。でも、有り体に言って金がない。全国を放浪していると定職には就けないし、まして同じところでずっと就業していればエルフであることがバレるリスクも高まるのだから。
あたしは、夏のあいだはもっぱら水浴びで身体を清めることにしている。だいいち、向こうの世界のエルフは水で身体を生活に保つのが普通の習慣だった。
蓼科の清冽な流れを求め、国道から逸れてのどかな別荘地をゆっくり走る。スポットはいくつかあるけど、今日は水量も水質も十分な、あそこにしよう。
目的地到着。誰一人いないところで水浴びなんてしたら、よほどの酔狂に見られてしまうけど、今日は程よく人がいる。
もちろんレーシングスーツで入るわけにはいかない。トイレついでに着替えてこよう。水を吸って重くなったりせず、水の中でも快適な、それでいて全身で水を感じられる、泉や川や海などに入るための服。軽くて動きやすく、着ていることを忘れてしまいそうな服が、この世界にはある。
————
十分に準備運動をして、足から少しずつ身体を濡らしてゆく。冷たいけれど気持ちいい。
着たままで水のなかに入れる服は、この世界の大発明だと思う。まわりには水遊びをする子ども連れの家族が何組かいて、その子達も思う存分沢水と戯れている。
あたしは、はしゃがないまでも、水と一体になろうと思う。
きゃっ。
冷たーい!
でも、気持ちいーい!
ラッシュガードという、そのままザブンといっても平気な服は本当に便利だ。色白のエルフにとって日焼けは禁忌なので、全身を覆ったうえで水に濡れても動きやすい服というのはとても有り難い。
スイミングキャップは、昔から懐かしいドルフィンスタイルを愛用している。厚めのメッシュ素材でジェット型ヘルメットのような形状、伸縮性が無いのでストラップを顎に伸ばしてホックで留める。今風の競泳用キャップとは違う形だけど、レトロな感じが、あたしは気に入っている。
山の中の沢なので、流れは速いけど水位は浅い。流木を枕にして仰向けになり、流れに身を任せることもできる。
本当に気持ち良い。清流があたしの身体を優しく撫でて、綺麗にしてくれる。
————
「……いじょうぶ、ですか?」
……ん……。だ、誰か呼んでる?
「あ、良かった。大丈夫ですか? い、息は、してますよね?」
「まって、脈拍が先。……うん、問題ない」
「そしたら起こさないと」
「うん、そっちの肩もってくれる? せーので行くよ」
流れに身を任せていたら、いつのまにか眠っていたらしい。あたしは慌てた顔をした二人の女性によって目覚めさせられた。
させられた、というのは失礼な言い方だ。彼女たちはあたしのことを心配してくれている。
「せーのっ!」
それを理解した直後、あたしは身体を起こされた。腰から上が流れる水から解放された。
「あ……、ありがとうございます」
まだ若干寝ぼけているので状況が把握しきれない。でもまずはお礼をしなければならないだろう。どんな理由であたしが助けられる対象になったかは分かりかねるが……。
「くしゅん!」
濡れた身体に風が当たると熱を奪われる。それに気づいた女性が、
「タオルタオル! 早く身体拭いて、上がりましょう」
「あ、ありがとうございます」
と言いつつも、まだ状況を飲み込めていないあたし。
「あの、そんなに、具合悪そう、でしたか?」
恐る恐る聞いてみる。すると、
「具合悪いどころか、心臓止まる所でしたよ? くちびるが紫色です」
エルフが低体温とかで死ぬわけはないけれど、心配してくれた二人の女性には丁重にお礼を言って、その場を去った。なるほど、高原の冷たい水に浸かったまま寝落ちしてては一大事ではある。エルフ基準では普通の行動が人間にとっては一大事に繋がりかねないこともあると、何度も肝に銘じているのだけどなかなか後を絶たない。
もう夕方になろうとしている。今日もこちらの世界にいるかもしれないエルフからの返信は見つからない。そろそろ今宵の寝床を決めておいた方がいい。
蓼科は緩やかな斜面に別荘の点在するところで、深い森に見えてもそこは別荘の庭、なんてこともよくある。特に夏場は別荘のおかげで人口が増える。賑やかなのは悪くないことだけど、人目につかない場所を探すのは難しい。
さらにこのあたりの難しいところは、あまり山奥に行くと登山者のテリトリーになるということ。今は指定地以外での野営を禁止している山域が多く、登山者のあいだでも野宿は止むを得ない場合を除いてマナー違反という認識がある。
結果、蓼科湖と白樺湖を結ぶ道中を少し逸れたところに寝床を決めた。身体を清めたので気持ちよく眠れそうだ。
あっという間に十月ですが、物語のなかではまだ夏。
でもあまり違和感無いのは、今年の夏が長すぎて十月になってもなお夏の名残が居座って暑さに翻弄されることもしばしばだったからでしょうか。
さすがにこの時期ともなると、高山では紅葉が始まってますので、そろそろ夏のおはなしから季節を移してみたいものです。