こんにちはおじさん
暖かな日が差し込む朝。私はいつものように自転車をこぎ、大学へと向かう。
「授業だる」
春も過ぎ、これから夏が始まろうというのにも関わらず、まだ少し肌寒い。それにこの眠気だ。心の底から、隕石でも降って休校にならないかなと願う。
しかし、そんな非現実は起こらない。いつも通り、普通が過ぎ去っていくだけだ。
途中、私は差し掛かった赤信号に自転車を止めた。目の前にはすでに大学が見えており、周りにはあくせくと人々が行き交っている。大学入口のある道沿いには、広々とした車道が伸びており、歩道わきには木々が立ち並んでいる。私は目の前の風景をぼんやりと眺めながら、いまだ重たい瞼を擦った。
――信号が青になった。
それと同時に、ペダルに足を乗せ、自転車を漕ぎ始める。大学が近くになるにつれ、憂鬱さは増していくが、仕方ない。それにどうせ出席したって、陰でこそこそとゲームするだけだし、家にいるのと大した差はない。
よし。今日も適当に受け流そう。そんなことを考えながら、横断歩道を渡り切った、そのときだった。
「どうも、どうも。こんにちは、どうも」
突如、声がした。のっぺりとした、か細く消え入りそうな声だ。普段街中で話しかけられることのない私は、反射的にその声の持ち主を一瞥する。
随分と小柄。150㎝くらいだろうか。顔は小さく、耳は大きい。ポロシャツにズボン、そして黒のリュックを背負っており、握った拳を変に力強く振って、ずんずんと歩いている。年齢は老けているようにも見えないが、おそらくは40歳くらいだろう。どこか飄々とした印象を持っている。
そんなおじさんが、細い目をさらに細め、強張った笑顔で片手をこちらに挙げながら、話しかけてきたのだ。
「……」
――気持ちわるっ
辛辣とも思える反応は、しかし、私にとって当然のことだった。だってどこの誰かもわからない男に急に話しかけられたのだ。びっくりするに決まっている。
関わらないが吉。私は視線を戻し、自転車をこぐ足に気持ち少しの力を入れる。そして無言のまま、彼とすれ違った。
何も言わずに去っていく彼にズキリと心が痛んだが、関わることも二度とないだろう。私はそう考え、そのまま大学入口から校内に入り、教室へと向かう。
しかし、私の予想は簡単に崩れ去った。
その日を境に、その次の週も、そのまた次の週も、決まって朝の通学時には彼とすれ違うのだ。この前のことを忘れているのか。彼は会うたびに
「どうも、どうも。こんにちは、どうも」
と言ってくる。学校の授業を欠席するわけにも行かないし、この道以外を通ると結構遠回りになってしまう。だからと言って、できる限り関わりたくはない。私はそのたびに無言を貫いていた。
そんな状態が数か月続いた。いつしか私は彼のことを『こんにちはおじさん』と呼ぶようになっていた。
** * * *
ある日の夕暮れ時。私はとある公園に赴いていた。
私は散歩が趣味であり、川沿いや街中を歩くことが多かった。今日は趣向を変えて、遠くまで足を運んでみたものの、途中で疲れてしまった。そのため、一休みをしようと近くのスーパーで飴玉を買い、公園に立ち寄った次第である。
「疲れた」
私はベンチにどっと腰を下ろして、息をついた。
結構歩いたなと感傷に浸ると同時に、初めて来た公園を見回す。目の前にはグラウンドが広がっており、少年たちがサッカーをしている。
公園には真ん中を仕切るように無造作に草木が生い茂っており、向こう側には滑り台やブランコなどの遊具があった。そこでも小さい子供たちが、ワイワイキャーキャーと遊んでいるのが見て取れた。
近くに小学校でもあるのだろうか。時間帯も平日の午後ということもあり、周りは少し騒がしい。
「元気だね」
子供たちを尻目に、私は買ってきた飴玉の袋をびりっと開いた。一粒を頬張り、甘味がじわりと口に広がる感覚を楽しむ。コロコロと転がしながら、徒に砂利を掻き分け、ぼんやりと目の前のサッカー試合を観戦する。
どのくらい呆然としていたのか。はっと我に返ると目の前に、小さな女の子が立っていることに気が付いた。
まだ幼く、小さな子。背丈はベンチに腰かけている私よりも低い。髪は長く、可愛らしいフリフリの白ワンピースを身に付けている。
「おにいちゃん……」
じっとこちらを見つめていた少女だったが、口を開いて近寄ってくる。そして物欲しそうに、飴玉を指さした。
「それ、ちょうだい」
「ん? これか? 別に良いぞ」
私は袋の中から、一粒取り出して、少女に手渡した。ぱっと明るくなった少女の表情に、思わず微笑みが零れた。
「おにいちゃん、ありがと!」
「どういたしまして」
飴玉を頬張る少女。
私は嬉しくなって、一粒では足りないだろうと思い、一気に3,4粒の飴玉をあげた。少女はポケットの中にそれをしまい、その場を去ろうとした。そのときだった。
「おーい、何してるの!」
サッカーをしていた少年が一人、こちらに向かって叫んできた。
普段から外で遊んでいるのだろう。半袖半ズボンに褐色の肌をした少年は、勝気に眉を顰め、勇み足で少女の元まで近寄る。
「けいちゃん……あのね、りかね。このおにいちゃんから、あめちゃん、もらったんだよ」
「あー! りかちゃん、いけないんだ!」
少年はポケットにある飴玉を奪い取り、私に否応なしに突き返してきた。私は何が何だかわからず、呆然と受け取る。
「ほら、行くよ」
「あっ……」
腕を掴んで、ぐいぐいと引っ張っていく少年。女の子は残念そうに暗い顔をしている。
私はたまらず声を上げた。
「ね、ねえ。君たち? そんなに遠慮すんなよ。欲しいんだろ? やるよ」
ぱっと明るくなる少女。しかし、受け取ろうと伸ばした腕を遮り、代わりに少年が返事をする。
「いらない!」
「どうして?」
「だって知らない人から物をもらってはいけませんって、先生言ってた」
そう声高に言い放ち、少女の腕を引っ張っていった。私は何も言えずに、二人がサッカーに混ざる様子をただ眺めているだけだった。
** * * *
少年の義に満ちた眼差し。少女の悲しそうな表情。すっかり誰もいなくなった公園で、私はそれらを思い返し、雲が重く垂れ下がる空を仰いだ。
別に悪気があったわけではない。当然、少女に危害を加えるつもりはなかった。ただ物欲しそうにしていたから、飴玉をあげようとしただけだった。悪いことは決してしていない。恥ずべき行為でもない。しかし、私の心に何とも言えない悲壮感が漂っていた。
何がいけなかったのか。どうすれば良かったのか。そんな問いを逡巡させるが、答えなど出てこない。
なぜなら、少年は悪くないからだ。彼は教師の言いつけを守ったに過ぎないのだ。少し過剰だったかもしれないが、まだ小学生だ。そのくらいが丁度よい。
なぜなら、少女は悪くないからだ。彼女はただただ飴玉が欲しかっただけだ。先生の言いつけを破ったとはいえ、子供がねだることを責められるはずもない。
誰も悪くない。しかし、私はとても悲しかった。
ふと私の脳裏に『こんにちはおじさん』の顔がよぎった。
私はあうたびに話しかけてくる彼のことを避け続けてきた。ただ気持ちが悪いという漠然とした思いだけでだ。特段、悪気があったわけではない。むやみやたらに関わることが必ずしも良いこととも言えない。だけど、彼に悪意はあったのだろうか? 客観的に見れば、私がしてきたことは、果たして正しいことだったのだろうか?
私も小さいとき、あの少年少女と同じように「知らない人と関わってはいけません」と教えられてきた。『いかのおすし』なんて言葉で、警察官から授業を受けたこともあった。だから、見ず知らずの人や怪しい人を見かけたら関わらないように生きてきた。確かに小学生みたいに小さな子供であれば、それでよいのかもしれない。なぜなら、今回のように、私が本当に善良な人なのか、小学生の彼らには判別がつかないからだ。しかし、大人になった今、その考えは絶対ではない。
そもそも、あのおじさんには悪意があったとは思えない。逆に私に対してどんな被害があるだろうか。
単に挨拶がしたかった。それだけだ。
仮に襲われようものなら、30cm以上ある体格差だ。間違いなく返り討ちにできる。
仮に勧誘を受けようものなら、断れば良い。
よく考えれば、恐れることは何もないのだ。おじさんに対して、過去を引きずって、変に気構える必要などどこにもないのだ。
――おかしかったのは、過剰だったのは、私の方だった。
「どうすっかな……」
私は力なく、雲がかった空を見つめた。そして静かに立ち上がり、誰もいないグラウンドを背に、公園を後にした。
** * * *
「授業、だる」
夏真っ只中の朝。肌寒さは鳴りを潜め、半袖でも汗がじんわりと滲んでくることがわかる。
私はいつも通り、自転車で大学へと向かっていた。差し掛かる赤信号。目の前には大学が見えており、この暑い中、人々があくせくと行き交っている。
朝っぱらだというのに日照りが強く、大学に面した歩道脇には、先の方まで葉のびっしり生い茂った木々が立ち並んでいる。
私は緑に反射した強い光に当てがわれ、眩しさと眠気で重い瞼を擦った。
――信号が青に変わる。
私はペダルを踏みこみ、前進した。そして少し遠くの方から、見覚えのある人物が、ずんずんと歩いてくることに気づいた。
「どうも、どうも。こんにちは、どうも」
小柄な体格に細い目。小さい顔に大きな耳。ポロシャツ、ズボンに黒のリュックを背負った男性。
相も変わらず、妙な歩き方でこちらを向き、聞き慣れた挨拶を交わしてくる。
――やっぱり変な人だな
すれ違いざま、そんな言葉が頭をよぎる。しかし、私は気持ち少しの力を緩めた。そしてちょっとばかりの微笑みを浮かべながら、視線を送り返す。
軽い会釈に大きくも小さくもない声。はたから見ればなんて事のない、普通の言葉を私は告げた。
「こんにちは」