考察「通りゃんせ」
“通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して 下しゃんせ
御用のないもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
お札を納めに まいります
行きはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ”
この童歌「通りゃんせ」は、皆さんもよくご存知だろう。
天神さまに詣出るがなかなか通ることが出来ない。
色々な申し出の末、何とか通してもらうことが出来る。
しかし、こう脅される。
「行きは良いですが、帰ってくるのは難しい。難しいですが、通りなさい」
はたして、これは何を意味するのか?
実は、この童歌の歌詞に含まれた剣呑さに「神隠し」「人身御供」などを連想する人は多い。
それは本当なのだろうか?
その前にまず、疑問点がいくつかある。
「天神さま」はいわゆる「菅原道真公」のことを指す。
現在でこそ親しまれている道真公だが、大宰府に流刑になった後、都に戻れぬ中、失意のうちに亡くなった悲劇の人物だ。
そして、その無念は雷神(鬼)と化して天皇の御所を襲ったいわくのある存在である。
実際、平将門公・崇徳天皇と並ぶ「日本三大怨霊」としても有名だ。
以上を踏まえた上で歌詞を分析してみよう。
まず、ここでいう「天神さま」の社が本社(太宰府天満宮)なのか、分祀をされたものなのか。
推測だがこれは分祀された社なのだろう。
根拠は「細道」という表現だ。
仮に本社であれば、細道などを辿る必要もない。
何故なら、立派な参道があるのだから。
しかし、次の一節が謎を呼ぶ
「この細道は何でしょうか」
「天神さまの細道である」
「ちょっと通してくれませんか」
「用の無い者は通せない」
このやり取りに違和感を覚えずにはいられない。
歴史に疎い私だが、いかに名高い天神さまとはいえ、分祀された社の「細道」に「門番」のような存在が必要なのは何故なのか?
そんなミステリアスな余韻を残しつつ、参拝者と思われる親子は「門番」にこう持ち掛ける。
「この子の七歳のお祝いにお札を納めに参ります」
それに「門番」はこう答える。
「行きはいいが、帰ってくるのは難しい。難しいが(それでもいいなら)通るがいい」
この答えは非常にそら恐ろしい。
要は「帰れないけど、通ってもいい」ということだ。
では、帰れないという状況は何を意味するのか?
この考察は、何故だか暗い想像へと果てしなく広がる。
「神隠し」
「人身御供」
「隠れ里」
「人さらい」
「人柱」
「口減らし」
いずれにしろ「現世へは帰れない状況」というのは、どうしても「=死」という連想をしてしまう。
しかもその流れ…「願いが通じ、希望的な光が見えたもの、即座に絶望に叩き落とされる」という流れがまた恐ろしい。
しかし同時に、不思議な雅さ・儚さを覚えるのは私だけだろうか?
ここで、考察を整理しよう。
親(或いは兄・姉?)と子(或いは弟・妹?)は、どうしても「天神さま」へ詣でる必要があった。
そこで「門番」に許しを乞い、何とか詣でることを認められる。
しかし、それは決して戻ることの叶わない「不帰の旅」となった。
これらの流れに、冒頭の疑問点(門番の存在など)を加味し、推測的なストーリーを練ってみた。
とある親子が懸命に逃げ延びている。
人買いの元からなのか。
あるいは、口減らしから我が子を守るためなのか。
そんな親子は逃亡の旅路の果てに、ある山中で細道を見つける。
山深いその道には、人が分け入った形跡もなさそうだ。
そして、不思議な神気が辺りに漂っている。
「ここはどこに続く細道なのかしら」
そう呟く母親の前に、一匹の鬼が現れた。
「何者だ?ここは天神さまのお社に続く道だ。招かざる者は儂が食い殺す。それが嫌なら疾く去るがいい」
恐れ慄きながらも、もはや逃げ延びる宛ての無い母親は、泣きじゃくる我が子を抱きしめつつ、鬼に平伏した。
「お願いです。ここを通して私達を逃してください。このままでは、この子の命がございません」
しかし、鬼は無情にも首を横に振る。
「言ったはずだ。招かざる者がここを通ることはまかりならぬ。ここから帰るか、儂に食われるか…さあ、選ぶがいい」
平伏しつつ、母親は意を決したように伝えた。
「……ならば、この子が七つになったお祝いのその時に、私がお札(ここで言う『お札』は『身代わり』の意味を有する)を納めに参ります。ですので、どうかこの子だけでも逃がしてください…!」
母親の身を挺したその言葉に、さすがの鬼も揺らいだのか、折れたように言った。
「よかろう。そこまで言うなら、二人で通るがよい。ただし、お前の言った通り、その子が七つになった時にお前を食らわせてもらうぞ。もし約束を守らなければ、その子を食ろうてやるから忘れるな」
「有り難うございます…!」
こうして、親子は鬼が塞ぐ細道を通り抜けた(行きはよいよい)。
しかし。子が七つになった時、母親は鬼との約束を守り、かつて逃げ延びた細道を逆にたどる。
全ては鬼との約束を守るため…(帰りはこわい)。
結末に待つ悲劇。
それを知ってでも行くならば行くがいい。
不帰の旅となるその日が来ても良いならば…
全ては私の推測の物語である。
作者不明であるこの歌の真意は、永久に謎であろう。
そこに私のような者が考察を被せることをおこがましいと思う方も多いだろう。
しかし、この童歌を聞くたびに、私の脳裏には身を挺して子どもを守った母親の悲しい愛を想像してしまうのである。
そして、残された子はまるで「かくれんぼ」のように消えてしまった親を、ずっと探し続けることだろう…
なお、神奈川県小田原市南町の山角天神社・同市国府津の菅原神社・埼玉県川越市の三芳野神社がこの童歌の舞台であるという説があり、いずれの神社にも「発祥の碑」がある。