「なんてことない日々」(前編)
2022/11/19 一部内容の整合性を修正
その日初めて聞いたのは、なんということはない彼を呼ぶ声だった。
「千空、もう7時よ!」
小鳥の声を遮るかのように発せられたその声に、千空は心底うんざりした。しかし、無視すればこの呼びかけが悪化することは明白だったため、しぶしぶ声を返す。
「あと五分」
まどろみながら発せられたその言葉は、実に情けない。どのくらい情けないかというと、もう彼を見た人全員が苦笑いするのではないかと思うくらい情けなかった。
「あんたそう言ってこの間何分遅刻したの!」
ああ、正論が飛んできた。二十分です。ワタクシ瑞波千空は、そう言って二十分遅刻しましたと、心の中で反省の言葉を述べる千空。
思い返してみれば、あの時は最悪だった。タイミングの悪いことに、生活指導の先生が代わった直後だったみたいで、千空はかなり厳しいお叱りを受けていたのだった。
もうあんな思いはしたくないと思うと、なんだか途端に起きる気になってくる。こうなってしまえば後は簡単だ。名残惜しいが、勢いに任せて起きてしまうことにしよう。よし、そうしよう。
掛け布団を脱ぎ捨て、朝の空気とご対面する。もう6月だというのに、若干の肌寒さがあった。
「おはよ、母さん」
リビングへ行くと、母はもうエプロンを外してソファにくつろいでいた。
「はい、おはよう。ちゃんと起きられたわね」
ちゃっちゃと顔洗ってきちゃいなさいと促され、千空は洗面所に向かった。そのうちに母はテーブルに朝ご飯を並べていく。なんということはない、いつものルーティーンだ。
顔を洗い終えた千空がリビングへ戻ってくると、机の上には朝ご飯が並んでいた。ほかほかのごはんに温かい味噌汁、ケチャップのかかった炒り卵と香ばしいウインナー。代わり映えしないラインナップだが、朝はこれが一番食欲をそそるのだった。
「いただきます」
そう言い、千空はパクパクと朝ご飯を口に運んでいく。一口食べてはまた一口。ほおをハムスターのように膨らませながら食べる千空を、面白いものを見るような目で母は眺めていた。千空が食事中そうなるのはいつものことだが、やはりいつ見ても面白いものは面白いのだった。
〈続いてのニュースです。本日未明、藍地県警の警官が同部署の他の警官を――〉
何やら急に物騒な言葉が聞こえてきたと思ったら、母が観ていたテレビのニュース番組だった。母はこの時間いつもテレビを観ているのだ。
ニュースを観る限り、どうやら警官が警官を刺し殺してしまったらしい。どうしてそんなことになったのかはわからないが、朝から物騒すぎる話題だった。
「ちょっと母さん。朝からそんな話題みせないでよ」
「しょうがないでしょ、ニュースなんて何やるかわからないんだから」
まあ、その通りだ。その通りなので、これ以上は何も言わない。というか、もとより冗談のつもりだし、何を言うつもりでもなかったのだが。
「ま、時事ネタとして覚えておくことね。社会のテストでたまに出るでしょ?」
なんで息子のテスト事情知ってるんだよと思う千空だが、よくよく考えてみればテストの結果はすべて母が監視していた。小中とそうだったし、この前あった高校の初めてのテストももちろんそうだった。問題の内容を知っててもなんら不思議ではない。
勝手に困惑して勝手に納得した千空は、先程から食べていた朝食の最後の一口を口に運んだ。
「ごちそうさま」
「お粗末様。食べ終わったなら、早く支度しなよ」
わかってるよと、千空は支度を始めた。歯を磨き、髪を整え、制服を着る。今まで幾度となくしてきたルーティーンをこなすと、後は重い重いカバンを肩にかければ完了だ。千空はあまり置き勉をしないタイプだったので、割と荷物が重くなりがちだった。
忘れ物がないかチェックをし、玄関に向かう。現在の時刻は7時45分。我ながら完璧である。
「ちょっと、体操服持った?」
リビングから母の声が聞こえた。体操服を持ったかだって? ふふふ、聞いて驚くなよ。今日の時間割に、体育は入っていないのだー!
「寝ぼけてるのも大概にしなさいな。今日は健康診断の日でしょ」
……。
そうでした! 忘れてました! 何が我ながら完璧……だよ。ああもう、恥ずかしすぎる。
「そうだった、ありがと母さん! 行ってきます!」
母への最大限の感謝を胸に体操服を取ってくると、今度こそ家を出る千空なのであった。
「おう、千空! 今日も早いな!」
教室に入るなりそう声をかけてきたのは、髪をバッチリ茶髪に染め制服を軽く着崩した少年――クラスメイトの中村だった。
「この前散々しごかれたからな。てかお前のほうが早いだろ」
中村はチャラチャラした風体とは裏腹に、遅刻はしないし授業をサボることもない。授業中騒ぐなんてことも全くしないので、先生からの評判も良い。見た目ではわからないが、かなりの優等生タイプだった。
「ま、俺は怒られたくないんでね」
と彼はいつも口にする。実際彼の行動原理は、立派でありたいとか成績を上げたいだとかではなく、シンプルに「怒られないように」というものなのだろう。それでも、それを実際に行動に移せるのはすごいことだと思う。
「それに、指導が長引いて有栖ちゃんの配信リアタイできないと死ぬからな」
と、中村は付け加えた。ああ……「怒られないように」の部分の理由も浅はかだった。アイドルのネット配信が生で観られなくなったら困るからという……しかし、自分も過去に配信を見るために部活をサボったことがあったので、人のことは言えないなと思う千空である。
「最近どんな配信してるの?」
「あれ、お前観てないのか? あんなに雪希ちゃん推してたのに」
雪希というのは、中村が口にした有栖と二人で活動をしているアイドルだ。普段から千空が推していた子で、配信もよく有栖と一緒にやっていた。活動初期から中村と一緒にファンをしていたのだが、最近はあまり観なくなっていた。
「興味がなくなったわけじゃないんだけどねー」
「まあお前は部活とかも忙しいだろうし、しゃーないっしょ」
ここで、あることを思いつく千空。
「それよりもさ中村、お前ちゃんと体操服持ってきたか?」
そう。今日は健康診断があるから体操服が必要なのだ。自分も忘れそうになったし、もし中村が忘れてきていたのだとしたら……
「いや、昨日先生があれだけ言ってたのに、普通忘れねーだろ」
……うん。聞いた俺が馬鹿だった。もし忘れいていたのならば貴重な煽り材料になったのに、逆に煽られてしまった。思いつきで行動するんじゃなかったと嘆く千空だが、中村には煽ったつもりはないのだろうし全くの正論なので、煽られたと思うのはただの被害妄想なのであった。
「あー、そりゃそうだよな。はは……」
「つかマジでだるいよなー、診断」
「そうか? 授業よりは楽だと思うけどな」
今日の健康診断は七時間のうち二時間を使う。時間的にはまあまあかかるのだが、実際の検査時間は三十分あるかないかくらいのもので、大半は待ち時間になる。待ち時間はほとんど休憩時間のようなものなので、雑談して時間を潰すこともできる。普通の授業よりは相当楽なはずなのだが……
「あー、いやあれ、最後の検査の時、ピアスとかコンタクトとか外さなきゃだからさ」
疑問に思っていると、中村からそう返ってきた。なるほど確かに、ピアスもコンタクトもしていない千空にはわからなかったが、それらをしている中村にとってはまあまあ面倒くさそうな制限だった。
最後の検査では特殊な脳波のスキャンを行うのだが、そのときにピアスやコンタクトがあると誤反応してしまうのだろう。いつも検査の時確認されていたし、先生も昨日注意していた。
あたりを見回してみても、眼鏡の生徒がいつもより多い。千空のクラスは一、二限が検査だったので、その二時間のために一日コンタクトがつけられないことに不満を漏らしている生徒も多かった。
「あー、サリエル検査ね……」
「そっ。超能力病な」
最後の検査では、サリエルシンドロームという病気について検査する。中村の言うとおり、いわゆる超能力のような力に目覚める病気で、そこに居るだけで周囲に超現実的な影響を与えてしまうという極めて異質な病気だ。
「でも、重要な検査だもんなアレ」
「そーそ。お前も知ってんだろ? 昔サリエル関係で起こった大事件」
中村がそう問いかけてくる。事件とかそういうことに関しては詳しくない千空だったが、サリエル関連の事件と言えば、誰もが知っている事件が一つあった。
「あれだろ? サリエル患者が立て続けに起こした失踪事件……警官も一人亡くなったんだっけ?」
医療関係者連続拉致事件――十四年前にサリエルシンドローム患者が起こした大きな事件だ。犯人を捜査中だった警官も一人殺害されている、凄惨な事件だった。
「通称ザラキエル事件。あれの何がやべーって、犯人まだ捕まってないんだぜ?」
「そういえばそうだったっけか」
犯人が捕まっていないどころか、確か被害者の行方も未だわかっていない。犯人が捕まっていないのだから当然ではあるのだが、よくよく考えてみればかなりヤバい事件であった。
「とにかく、サリエル患者を野放しにするのはやべーってことだな」
と、中村が締めくくった。検査が毎年学校でも行われるようになったのも、恐らくそういうところが理由なのだろう。
「まあ、サリエルなんてめったに出ねーだろうけど」
「違いない」
〈テレレン♪ テレレン♪ テレレン♪――〉
そんな会話をしていると、予鈴が鳴った。
「やべ、もうこんな時間か。お前も早く着替えないと」
検査は一限からなので、今を逃すと着替える時間はない。暢気に駄弁っている場合ではなかったと後悔しつつも、千空は中村にも着替えるよう促した。
しかし……
「ああ、俺は中に着てきたから大丈夫」
……。
こいつ本当に完璧だな、と思う千空なのであった。
「次どうぞー」
長い待ち時間といくつかの検査の末、ついに最後の検査までやってきた。
検査場は体育館への通路の側に設けられており、検査用の機材を積んだ車が何台も停められていた。クラスごとに通路に並ばされており、遠くからでもわかるくらいのまあまあな長さの列ができていた。
とはいえ、飲食店の行列ではないので列は時間通りにきっちり進んでいき、特に苦になることなく自分の番はやってきた。ちなみに中村は千空より番号が若いので、すでに検査を終えて教室に戻っていた。
「お願いします」
「はい。じゃあ、ここに横になってねー」
検査員の男性に頭へ装置をつけられると、言われたままに横になる千空。検査自体は毎年あるので、勝手はなんとなく覚えていた。しばらく力を抜いていて下さいねーと検査員に言われ、瞑想まで始める始末だ。そういうことではないのだが、特に問題はないし検査もスムーズに行えるので誰も何も言わなかった。
そういえば、サリエル検査ではないのだが、過去に一度歯医者で治療中に眠ってしまったことがあった。そのときも確か痛みに耐えるために瞑想をしていたので、今回は眠ってしまわないように注意しなくてはと、瞑想中に考える千空。もはや瞑想でもなんでもなかった。
「……はい、終わりでーす」
そんなことを考えているうちに、今まで通り検査は問題なく終わった。結局検査自体は全部で二十分くらいで終わってしまい、今回も待ち時間がほとんどだった。検査台から降り検査員の方にお礼を言うと、千空は伸びをしながら教室へと戻った。
――このとき検査員が妙な顔で検査結果を眺めていたのだが、千空には知る由もなかった。
「ただいまー」
家に着き手洗いうがいを済ませると、千空は二階にある自分の部屋へ直行した。そして制服を脱ぎすてると、そのままベッドにダイブする。疲れ果てて帰ってきたとき、千空は大体こうなる。
「おかえり。検査どうだった」
母が検査の結果を聞きにきた。当然当日のうちに結果が出るわけがないので、おそらく母が聞きに来たのは、視力とかの当日わかる部分のことについてだろう。
「残念ながら視力がBだったよ。でも、これくらいなら目を休めるようにすれば良くなるって」
「そう、なら良かったわ。もうすぐご飯できるから、ぼちぼち降りてきなさいよ」
そう言い残すと、母はキッチンへ戻っていった。そういえば、一日疲れておなかも減っていた。今日の夜ご飯はなんだろうと気になってきた千空は、母に言われたとおりリビングに向かうことにした。
〈容疑者の警官は、自分は操られていた等と供述しており――〉
リビングに着くと、いつものようにテレビがついていた。タイミングが良いのか悪いのか、朝のニュースの続報がやっていた。
「あれ、母さんこれ朝のやつの続きじゃん」
「あらほんとに? なんて言ってるの?」
「えーっと……」
ニュースの内容をよく観ると、どうやら警官を殺してしまった警官は、自分は操られたと言っているらしい。とんでもない言い訳だなと、あきれる千空。往生際が悪いにもほどがある。そんな戯言が通用するわけがないのに。
「世の中、色んな人がいるものよ。聖人もいれば、どうしようもない悪人もいる」
そういうものなのかなぁ……と千空は思った。でも、今まさにテレビに実例が映っていることを考えると、そう納得せざるを得なかった。
「さ、ご飯にしましょ」
母が完成した夜ご飯を運んできた。匂いで薄々気がついていたが、今日の夜ご飯はカレーだった。いろいろ思うところはあるが、先ほどからお腹の虫が大合唱している。今はこのお腹を満たそう。そう思い、千空はカレーを口に運んだ。