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エピローグ

 都内某所――とある古民家カフェにて。


 青年と少女はテーブルゲームをしていた。


「うわあーー! マジぃ?!」


「よぉし!! これでボクの100勝99敗だ!」


 少女が頭を抱え、青年が椅子から立ち上がりガッツポーズを決める。


「いや、今日ウチ高校初日じゃん? ここで記念すべき100勝を決めたかったのに~」


「それを狙ってると思ってたさ。でも、勝負に邪念が混じるとろくなことにはならないからな」


「うう~」


 机に突っ伏しながら、憎々しげに青年を睨む少女。頬なんか膨らませているが、青年がそれを気に留めることはない。


 すると、店の奥から青年の母が現れた。


「ちょっと、今日の仕込は大丈夫なの?」


「ああ、バッチリさ」


 問題ないと母に手を振る青年。どうやら彼は、この古民家カフェの店員だったようだ。


「そう。お父さんがあなたに託したお店なんだから、しっかりやりなさいよ」


「任せてくれよ。東京で一番のカフェにしてやるさ」


「それじゃあ、お母さんもう行くから」


「いってらっしゃい、母さん」


 そうして店を出た母を見送った青年は、テーブルでふてくされている少女にも声をかける。


「ほら、キミもそろそろ出ないと初日から遅刻するぞ。」


「あ、やっば! 保護区も卒業したし、ちゃんと一人でやってかないとじゃんね」


「一人でって、ここに居候してるくせにどの口が言うんだキミは」


「まーまー、こまかいことは気にしなーい! んじゃ!」


 テンションで誤魔化すように、少女もバタバタと店を出て行く。


 これで、店内に残ったのは青年一人となった。


「全く……さて、ボクもそろそろ店を開くか」


 こしこしと頭をかきながら、青年は店の外へ出て軽くドアの前を掃く。落葉やゴミがなくなったのを確認すると、かけ看板を「OPEN」に裏返してカウンターへと向かった。


 カウンターに入った青年は、設置してあるテレビのスイッチを押す。適当なニュース番組へ切り替えていると、ちょうどその時、本日一人目の客が来店した。


「……稀代の作曲家、ハチバフDBね。最近、その息子もちょっとした話題になってたわ」


「ああ、キミか。いらっしゃい」


 青年に案内されることもなく、その女性は彼の対面、カウンター席へと向かった。そのままカウンターチェアに腰掛けると「いつもの頼むわ」と青年へ注文する。その様子からも分かるとおり、彼女は常連客のようだ。


「なんだキミ、疲れた顔だな」


 彼女の顔を見て青年が声をかける。席に着いた彼女は、それは酷く疲れた顔をしていた。彼女の目の下にあるクマは、そのままパンダになってしまうのでは無いかと思うくらいに濃い。


「昨日の大火災でね。大変だったのよ」


「あれ、キミも出動してたのか。救急隊員も大変そうだな」


「それがあたしの使命だからね」


 やつれた顔を無理矢理キリッとさせる女性。どうやら彼女は救急隊員という仕事に誇りを持っているらしい。とはいえ身体というものは正直なもので、その疲労はかなり溜まっているようだ。


「ま、無理はほどほどにね。はい、ジンジャーコーヒー、生姜多め」


「ありがと」


 差し出されたコーヒーを受け取り、それを一口だけ口に含む女性。生姜珈琲には疲労回復効果がある。救急隊員という仕事をこなす彼女が愛飲するには、まさにうってつけと言えた。


 ふうとため息をつき、テレビを眺めながら落ち着いた様子でコーヒーを飲む女性。


 すると、青年は彼女の左手にとあるものが光っているのに気付いた。


「ん? キミ、結婚するのか?」


「あら、気付いた?」


 コーヒーを置いて左手を差し出す女性。差し出された手の薬指には、二人の人間が将来を誓い合った証明である、婚約指輪が嵌められていた。


「ま、式は挙げないんだけどね。フォトウェディングってやつよ」


「なら、店を空けなくて済みそうだな。でもそうか。キミも結婚か」


「ええ……背中を押してもらえたからね」


「というと?」


 青年が尋ねると、彼女は窓から外を眺めつつこう言った。


「知り合いに医療機器メーカーに勤めてる人が居てね。あたしにとっては恩人とも呼べる人。その人の言葉で、結婚を決められたのよ」


「へぇ」


 恩人の言葉で結婚を決められた……簡単に言うが、結婚とはそんな簡単なものではない。考えなければならないこと、覚悟しなければならないこと、それが山ほどあるのだから。


 それでも、その人は彼女にその決意をさせた。一体、どれ程の信頼関係があったのだろうか。


「キミにもそんな人が居たんだな」


「あら、少なくともあんたもその一人とは思ってるわよ」


「お、キミがそんなことを言うなんてな。こりゃあ明日は雨が降るな」


 思わぬ返しに意表を突かれた青年は、誤魔化すように軽口を叩く。


 すると、片手間に観ていたテレビの特集が切り替わる。


『以上、ハチバフDBさんでした。次です。日本が世界に誇るピアニストが、婚約を発表しました』


「お、誰かが結婚発表だってさ。タイムリーじゃないか」


「ええ、そうね」


 そうしてテレビに映し出されたのは、とある世界的ピアニスト。日本生まれ日本育ちの、天才と称されるピアニストが、インタビューに答えている。


『どのような相手なんですか』


『そうですね……一言では言い表せないような……でも、私にとって、本当に大切な人です。小さい頃から、ずっと一緒でしたし』


『なるほど……運命の相手ってわけですね』


 画面の向こうでインタビューに答えるピアニストの女性。


 そんなテレビの放送を見て、コーヒーを飲んでいた女性が微笑みを浮かべていた。


「なんだい、そんな顔して」


「別に、なんでもないわ」


 青年に指摘され、口元に左手を当てながらコロコロと笑う女性。


 そうして、再び珈琲を一口ほど口に含む。


 そんな彼女の薬指では、純銀の光を放つ指輪がきらきらと輝いていた。







 愛知県――某高校の通学路にて。


 少年と女性は、桜の花びらが彩られたアスファルトの道を歩いていた。


「別についてこなくても……」


「だってだって、弟の初登校だよ! それに私は今日2限からだしさ!」


 そういって女性が少年を隣からハグする。どうやら二人は兄妹らしく、姉が弟の登校を見送りしているようであった。その距離感はなかなかに近い。


「あ、ちょっとコンビニ寄るけど姉様は?」


「私も行く!」


 道沿いにあったコンビニに入る二人。高校の通学路上にあるこのコンビニは、さぞ繁盛することだろう。店の中は、少年が通う高校の制服を着た学生が何人か居た。


 そうして、昼食用のおにぎりやパンを購入する二人。彼らの親は仕事が忙しく、弁当を用意できないことが時々ある。そんなとき二人は大抵、こうやってコンビニを利用している。


「……ん?」


 女性が会計を済ませようとすると、ふとレジ横のディスプレイに気がついた。どうやら募金をしているようである。前例のない難病治療のために、双子の兄姉がお金を募っているらしい。


 女性はパネルにカードをかざし、会計と同時に募金も行うことにした。タッチパネルに従い、募金額を決めていく。


「……このくらい入れちゃお」


「え、そんなに? 結構いいランチ食べられる額だけど」


 多めの額を選択した女性に、弟の少年が問いかける。彼女は食への執着がすごく、お金を使う場合は食べ物を優先することが多い。今回の募金は、彼女にしては珍しい行動であった。


「……うん。なんか、人ごととは思えなくて……」


「あ……ごめん」


 思わぬ地雷を踏んでしまい、少年はすぐに姉へと謝罪する。彼女の親は、既に病気で亡くなっている。彼女は養子……少年とは、義理の家族であった。


「ごめんごめん! そういうつもりじゃなくて! それにほら、結構イラストとかの仕事も来るから、バイト入れまくってる子くらいはお金あるんだよね。というか、そもそも家が太いし」


「うん……それもそっか」


「ほら、学校行こ!」


 反省顔になってしまった少年を元気づけるように、女性が少年の頭をなでる。少年としては外でこういうことをされるのは恥ずかしいと思っていたりするのだが、それが姉に伝わることはなかった。


 用も済み、コンビニを後にする二人。すると、入口のそばで電話をしている人物が目に入った。見たところ、二十代後半といったところだろうか。


「え、おじさん今年は来れないの? うん……わかった。うん、天国のママもパパも納得してくれると思う。大丈夫、こっちはなんとかやってるから」


 別に聞き耳を立てたわけではないが、かなり聞こえやすい音量で電話していたため、内容が全て入ってきてしまった。どうやら、誰かが何かに来られなくなったとか、そう言う話らしい。


「……みんな色々あるんだね」


「姉様、何か言った?」


「ううん、なんでもない」


 そうして、コンビニの駐車場を抜けて通学路へと戻る二人。


 すると今度は、三人組の大人に声をかけられた。


「お、君……もしかしてウチの新入生じゃないか?」


「あ! ほんとですね! ウチの制服です!」


「ネクタイの色的に、確かに新入生みたいですね」


「え、えっと……?」


 唐突に大人から囲まれ、あわあわと目を回す少年。そんな少年に、最年長であろう壮年の男性が申し訳なさそうに笑いかけた。


「すまんすまん、俺はこれから君が通う高校の教師でね。1年の学年主任を担当する。こっちの真面目そうなのは1年の担任、こっちの元気なのは養護教諭だ」


「そ、そうなんですね。よろしくお願いします」


 どうやら、彼らは高校の教師陣だったらしい。それなら、高校の制服を着ている生徒に声をかけるというのも納得だ。何も怪しいことはないので、少年は改めて挨拶をしておいた。


「わあわあ! じゃあ、弟をよろしくお願いします!」


「お姉さんですか? はい、こちらこそよろしくお願いしますね」


「調子悪かったりしたら遠慮せず保健室来るんだよ!」


「は、はい。体調管理はしっかりするつもりですが、もしもの時はよろしくお願いします」


「うむ。ウチの高校は理事長とかも面白いやつだからな。期待しててくれ」


 そうして、ひとしきり挨拶を終えた少年達は、教師陣を含め5人で通学路を行く。


 そんな彼らの足下は、散ったばかりの桜がまばらに彩られていた。







 学校内のとある部屋……理事長室にて、その人物は誰かと連絡を取っていた。


『珍しいね。君がかけてくるなんて』


「まあネ。今日から新学期なんだけど……昨日の入学式、懐かしい顔があったものだかラ」


 そう言ってその人物――この学校の理事長が肩をすくめると、スマホの向こうに居る人物は「ははは」と手を叩いて笑った。大層、今の話が面白かったらしい。


「あラ、笑うところだったかしラ?」


『いやいや、そうじゃなくて。こっちも今朝、懐かしい顔というか、面白いコンビを見かけたところでさ』


「というと?」


『竜巻みたいな奴と、そうだな、大人しいけど聡そうな奴、ちょっと訛ってるけど。そんなコンビだよ。学校に通う途中だったみたいだ』


 よほどそれが愉快だったのか、スマホの向こうに居る人物は笑いを止めることが出来ないで居る。……いや、その表情を見るに、これは楽しそうと言うより、嬉しそうと言った方が適切なのかも知れない。その顔はどこか、子を思う親のようであった。


「必然か偶然か……ううん。これはきっと、必然ネ」


 スマホを片手に、ブラインドの隙間から窓の外を眺める理事長。電話の向こうの人物はその様子をみて「うむ」と深く頷くと、何か思うところがあったのか、理事長に答えるように言葉を続ける。


『……必然だよ。今朝に見たコンビだけじゃない。ウチの委員会にも、口数少ないけどクソ真面目な奴とか、ありえないくらいふにゃふにゃしたしゃべり方の奴とかが居る。少し前に会った警官は完璧に職務をこなしていたし、有名ファッションデザイナーの「3-D」はウチと同じ町に住んでいる。偶然なんてわけがないだろう』


「違いないワ。……もしかしたら、彼女がそうさせたのかも知れないけれど」


 ふと、執務机に戻り、机からとある資料のコピーを取り出す理事長。


 それは、今年から編入してくる、とある転校生の資料。


「……もしそうなら、お礼をしなきゃネ」


 資料を机に置き、瞳を閉じる理事長。すると、スマホにセットされていたアラームが鳴り響く。どうやら、始業式の開始時間になったようだ。


「それじゃ、アタシはもう行くワ」


『ああ。またな』


 その言葉を最後に、通話が途切れる。


「さて、と」


 ゆっくりと伸びをして、肩や首を回す理事長。一度だけ深呼吸をして「よし」と手を叩く。


 今日から始まる新学期は……去年までよりも面白いことが待っていそうだ。


 そんな期待を胸に、理事長はノリノリで理事長室を後にするのであった。







 愛知県……某高校の体育館。そこでは、30分ほど行われた始業式が終わり、各々がバラバラと教室へ戻っていくところであった。クラス替え直後のため、色んなクラスの人間が入り交じりながらざわざわと廊下を歩く。


 3年生になったその生徒も、流れに身を任せて体育館横の廊下を歩く。横目に見える中庭では、満開となった桜がひらひらと雪を降らせている。ああいうところでロマンチックなことが起こるんだろうなーなどと青年が思っていると、ふいに後ろから首へと衝撃が走った。


「よっ」


「なんだよ、中村か」


 それは、なんてことの無い、いつものやりとりであった。急に後ろから肩を組んできた友人の手を、軽く手の甲ではたく。彼らの挨拶は、いつもこんな感じである。


「聞いたぜー? 軽音部のコンクール、曲が良すぎるってめっちゃバズってたじゃねーか!」


「ああ、それな」


 ぐいぐいと肩を揺らしてくる友人に、軽い調子で返事をする青年。友人が話題に出したのは、青年が所属する軽音部がコンクールで披露した楽曲……彼が作った楽曲が、ネットを中心にバズっているという話であった。


「ま、そりゃあさ、あの超人気アイドル『AKプラチナディアーズ』に楽曲提供した俺が作った曲だからな。当たり前だろ」


「ちがいねーな!!」


 そう言って大盛り上がりする二人。そうして「AKプラチナディアーズ」の話題に話をシフトチェンジすると、今度は他の友人が二人に水を差してきた。


「それってなんかネット配信のやつだろ? ドマイナーじゃね?」


「あ、てめー! 俺らに喧嘩売るつもりかー!!」


「俺らにとっては最っ高のアイドルなんだよ! しっし!」


「あはは、ごめんごめん! にしても、お前らほんと好きだよなー」


 青年らに追い払われ、やれやれといった感じで去って行く別の友人。と言っても、お互い特に嫌な顔をすることなく、その雰囲気は和やかだ。言い合いのように見えて、これは単なるいつものじゃれ合いなのだから。


「最期もクラス同じで良かったよなー」


「まあな」


 嬉しそうに拳をこつんとする二人。青年とこの友人は、実のところ小学生の頃からの仲であった。小中高と共に過ごした、いわば腐れ縁というやつだ。そんな彼らが高校3年間、同じクラスになれた。これほど嬉しいことはなかなか無いだろう。


「後は、他の奴らがどうなったかだなー」


「確かクラウドとしばけんは居たんじゃなかったか」


「あー、そーだったわ!」


 そんな風に、クラス替えの結果を話しながら教室を目指す二人。


 すると、渡り廊下を渡ろうとしたところでとある先生から声をかけられた。


「あ、望月君! ちょっと……!」


「え、はい」


 それは、保健室の先生――養護教諭であった。彼が保健室を利用することはあまりないが、この先生のことはよく知っている。彼は良く、彼女の頼み事を聞いていた。どうやら今回も、青年に何か頼み事があったようである。


「それじゃあ、そういうことだからよろしくね」


「はい、やっときますね」


「ほんといつもありがとうね!」


 青年に用を伝えると、養護教諭はお礼の言葉を述べてから去って行った。そんな彼女の後ろ姿を見て、友人が青年にちょっかいをかける。


「お前、ほんとふーちゃん先生の言うこと全部聞くよなー。え、もしかして好き?」


「そういうワケじゃねーよ。ただ、なんとなく恩を感じてるって言うか?」


 自分でもよく分からないというように青年が首をかしげると、友人は面白いものを見たような顔で肩をすくめた。そして、青年の背中を叩く。


「お前、保健室あんま使わねーだろー? ま、そーゆーことにしとくか……って、うぅ……」


 すると突然、友人が胸を押さえてうずくまった。


「どした?」


「いや、ちょっとよー……実は今朝から調子がなー……」


 廊下の壁に手をつく友人。実は、彼は1年の終わり頃に病気が見つかり、こういう風に体調を崩してしまうことがちょくちょくあった。


「大丈夫か? てか、せっかく先生そこに居たのに」


「保健室、行ってくるかー……」


「ああ、送ってくよ」


 こうなってしまっては、青年ではどうすることも出来ない。青年は、友人を保健室に送り届けてから教室へと向かうことにした。保健室では、先ほどの養護教諭がきょとんとした顔で二人を出迎えてくれたが、すぐに状況を察して友人を受け入れてくれた。


 そうして教室に戻った青年は、多くの生徒に見守られながら自分の席へと向かう。


「お、来た来た。中村君は……保健室ね。じゃ、これで全員だね」


「すみません、遅くなって」


「いやいや、むしろ保健室まで送ってくれてありがとうね」


 担任の先生が青年へと感謝を伝える。生徒に何かあっては学校としても問題になるし、先生個人としても悔しい思いをすることだろう。青年はその感謝を素直に受け取ることにした。


「ここか……って、ん?」


 席に着こうとして、青年は隣の席に見慣れない人物が座っていることに気がつく。胸の下辺りまである髪を左右でおさげにした女の子。ふと、その子と目が合い……女の子は、にこにこと笑みを浮かべた。こんな子は、今まで居ただろうか。


 そんな青年の疑問は、どうやら間違っていなかったらしい。


「はい、ということで気付いてる人も多いだろうけど、望月君のとなりの子ね、転入生です。3年からで大変だろうから、みんな色々と助けてあげてね」


 先生の言葉を受け、教室内で「はーい」という声が幾重にも重なり響き渡る。やはりこの子は転入生だったようだ。3年生になってからと言うのは、確かに珍しい。慣れないことも、きっと多いだろう。


「ちなみに、まあ見ての通り担任は私です。まあ私のことは分かってるよね。このクラスの国語系科目は私が見るから、授業もまあ今まで通りで。それじゃ、ウチのクラスは教科書配布最後の方だから、先に色々進めちゃいまっしょう!」


 その後、特に滞りもなくLHRは進んでいった。クラス係、委員会、掃除担当など、新学年の初めに決めることがどんどんと確定していく。教科書もしっかりと受け取り、気付けば帰りのHRが終わろうとしていた。


「じゃ、初日はこんな感じということで。じゃあ日直、初仕事お願いね」


「はい。きりーつ……きをつけー、さようならー」


「「さようならー」」


 挨拶が終わり、重い荷物を持った生徒がぞろぞろと教室を後にする。一目散に昇降口へと向かう生徒たちは、靴を履き替えると校門付近でその流れを滞らせる。始業式では、よくある光景だ。


 しかし、青年はその流れに逆らい別の校舎へと向かう。その手に持つのは二人分の荷物。彼は、保健室にいる友人を迎えに行くつもりであった。


「……あ、ちょっとこっちから行くか」


 渡り廊下を歩いていると、ふと中庭の桜が目に入った。体育館から教室に戻る際にも見えたが、かなり見事なものだ。どうせならと、青年は中庭を経由して保健室のある校舎へ向かうことにした。


「この桜も、これが見納めかぁ」


 青年は3年生。次にこの木々が花を咲かせるのは、青年が卒業した後だろう。それが少しだけ寂しくもあり、青年を儚げな気持ちにさせる。


 そんな風に桜を眺める青年。


 すると、ふいに後ろから声をかけられる。


「もしも桜がなかったら……日本はどんな国になってたのかな」


 驚いて振り返ると、そこには隣の席に座っていた転入生の女の子がいた。少し風が出てきたため、その両サイドのおさげがパタパタと揺らいでいる。


「どんな……うーん、別に、そう変わらないと思うけどな。ま、寂しくはあるだろうけど」


 散りゆく桜を見上げながら、青年は答える。春の代名詞とも呼べる桜……それがなかったらなんて、考えたこともなかった。


「ま、春のイメージカラ―はピンクじゃなくなるかもな」


「うん、きっとそうなると思うよ」


 青年の答えを聞いて、おさげの先端をいじりながらにこにこと頷く女の子。その仕草に、青年は少しだけ胸がドキっとするのを感じた。


「ちょっと見てくか」


「そだね」


 そのまま二人は、側にあったベンチに座って桜を眺めることにした。今はまだ満開だが、この桜も徐々にその姿を散らしていく。落ち着いてみられるのは、今しかない。


 それにしても、先ほど感じたものは一体――


「あ、そういえば自己紹介まだだったな。俺は――」


 名乗ってすらいないことに気付き、隣に座った女の子へと視線を向ける青年。


 すると、女の子はそんな青年の口に人差し指を当てた。柔らかな指の感触が唇に伝わる。


 突然のことにびっくりして、思わずのけぞる青年。


 一体、彼女はなんのつもりなのだろうか……戸惑いを隠すことができない青年。


 そんな青年に、女の子は指を離しながら答えた。


「ううん。知ってるよ。ずっとずっと、前から」


 その表情に……青年は、どこか見覚えがあるような気がした。


 一体、どこだったのだろうか。


 わからない……わからないのに……知っている。


 自分は、この女の子のことを知っている。


 でも、どうしてだろう。思い出すことが出来ない。


 自分の中にあるこの感情の正体が、分からない。


 彼女の言葉で、胸の中に温かいものがこみ上げてくるのに、何も、わからない。


 自分は、何か大切なものを……持っていたような気がする。


「知ってるって……?」


 絞り出すように口に出来たのは、その言葉だけだった。


 しかし、女の子がそれに答えることはない。


 ただ、こう告げるのだ。


「約束……守ってくれて良かった。だって、こうやって見つけられたから」


「……? えっと……?」


 約束……覚えなんて無い。


 それなのに、どうしてこんなにも胸が締め付けられるのだろう。


 そんな青年の様子に、女の子は軽く微笑んでから……青年の頬へと手を当てた。


「でも……まだ、終わりじゃないから」


「あの、さっきから一体、何を言って――」


 その問いへの答えは……言葉ではなかった。



「――私の名前は〝鍵乃未來〟。これからよろしくね…………愛緒君」



 そして……青年の口が、柔らかいもので塞がれた。


 指ではない……それは、彼女のその唇によって。


 ただ……心の底から温かくなるようなその感触は、二人にとって初めての感情となった。


 今まで手に取ることの出来なかったものを、一つ一つ大切に拾い上げるように。



 なんてことない一日から始まった非日常。


 白昼夢のような物語は、今、終わりを告げ……


 ふいに吹いた風が、二人の頭に桜の花びらをあしらう。


 それは、新たな日常へ旅立つ二人を、鮮やかに彩っているようであった。



 なんてことない日々が、始まる。


Fin

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