12話 革命のプレリュード 115項「失われたもの」
濁りきった空から雫がこぼれる。
寮の屋上、未來はフェンスを背に座り込んでいた。
膝を抱え込むようにして、ただ床の一点のみを見つめる未來。長らく雨に打たれていたのか、その小さな身体はシャワー直後のようにずぶ濡れになっていた。
千空はずっと自分のために行動してくれていたのに――勝手に見捨てられたと思って、勝手に暴走して……その結果がこれである。
「わたしは……」
かすれた声で呟く。あの慟哭が彼女の喉を破壊するに足りたことは言うまでも無い。
腕に顔を埋める未來。
彼女は精神的にかなり参ってしまっていた。
依然として雨が降り注ぐ。
その時、彼女の頭上に傘が差された。
「やっぱり、ここにいたのね」
見上げると、心配そうな顔をした優奈が居た。自分も濡れてしまうというのに、未來に差し出した傘を引っ込める様子は一切ない。
「どうして……」
「静也がここかもって。あなたたち、似てたからね」
優しげな笑顔を見せる優奈。だが、やはり憂いの色は残っている。あの日から2ヶ月以上経過してはいるが、未來が帰ってきたことでやりきれない思いが蘇っているのかもしれない。
「風邪引くから」
「……うん」
それ以外に、会話はなかった。お互い、何を話して良いのか分からなかった。
こういうとき、優奈は気の利いたことが言える人間だ。
しかし……未來が千空に特別な感情を抱いていたことは誰の目にも明らかだった。
一番大切に想う相手を失った人間にかける言葉など、流石の優奈も持ち合わせてはいなかった。かつて自分が救われた言葉を今の未來にかけるのは……あまりに残酷である。
優奈の髪から水滴が落ちる。まだ六月前だというのに、雨の匂いが飽和する。
やがて優奈は傘だけを残して去って行った。
再び屋上に一人となった未來。耐えがたい無力感がフラッシュバックして、思わずえずく。会話こそ少なかったが、優奈が来てくれて幾分か楽になっていたらしい。
……未來は一人、考える。
こんなとき、どうすればいいのか。
こんなとき、千空ならなんて言ってくれるのか。
「雨、止まないね」
そんな彼女の呟きは、傘に打ち付ける雨の音にかき消され……儚く消えるのだった。
数日後――
CBS本部では次の任務に関する会議が行われていた。
議題は犯罪組織「OBORO」の調査について。「ワクワクファミリー」が壊滅したことで競合相手を失った「OBORO」が勢力を拡大しており、その対策が必要という内容だった。
「現在OBOROは西海岸側にも進出しており、予断を許さない状況です」
「うーむ……こうなる恐れがあったからこそ、公安でもワクワクファミリーとOBOROの対応には慎重になっていたのだが……」
「ワクワクファミリーと比べてOBOROは凶暴度も市民への危険度も高い。一番恐れていたシナリオだな……」
総帥やCBS捜査官たちが憂鬱そうに意見を交わす。それもそのはず、ワクワクファミリーが勝手に自己崩壊してしまったために、裏社会全体の均衡が大きく崩れてしまったのである。
本来、西海岸側を牛耳るワクワクファミリーと東海岸側を牛耳るOBOROが対立することによって、その勢力のバランスは保たれていた。どちらかの組織が大幅に成長することもなく、公安としても比較的対処がしやすかった。
しかし、今回その片方であるワクワクファミリーが壊滅してしまった。結果として対立する相手の居なくなったOBOROが一人勝ちの状態となり、急激に成長してしまったのである。
「こうなったら、OBOROも壊滅させるしかあるまいよ」
「幸い、マスカレードは現在動きを見せていませんからね」
「うむ。そうだな……」
皆が渋い顔をしつつも、会議は着々と進行してゆく。一応アイズホープメンバーも参加しているが、どうやら出番はなさそうである。誰が何を言うこともなくこのまま終了するだろう。
依然としてやまない雨がBGMを奏でる。
そんな中、未來はとあることを思いだしていた。
それは、少し前までの自分。任務についての会議中だというのに――いや、だからこそとでもいうべきか、未來は自分自身のことについて思い返していた。
少し前までの自分――宿街に居た頃の自分。
彼女は……ずっと空っぽだった。
宿街に生まれて、キャストを使って役に立つことが自分の使命だって、自分の意志なんてものは持たずに任務に参加してきた。歌についても、それが役に立つならって考えだった。
未來は、それでもいいと考えていた。だからこそ、生まれてからその時までずっとそうして生きてきたのである。
でも……千空のおかげで〝自分の意志〟を取り戻すことが出来た。
キャストで役に立ちたいという自分の意志。
歌で役に立ちたいという自分の意志。
まるで、空っぽだったピースが埋まるような感覚。
それは、千空が自分に与えてくれた大切なものの一つ。
彼のおかげで、自分のしたいことが見えてきたのだ。
だったら……と未來は思う。
――せめて、彼に貰った「想い」だけは守り抜こう。
それが、未來が考えに考え抜いて出した一つの答え。
だって、それこそが千空に出来る唯一の手向けなのだから。
そう考え、未來は任務への想いを新たにする。
しっかり、前は向かなければいけない。
なのに――それなのに――――
現実は、どこまでも残酷だった。
次の任務の内容が決定したため、ラヴビルダー総帥が参加メンバーを伝える。いつも通りなら、当然のように自分の名前も呼ばれるはずである。過去を観るキャストは、どんな捜査にも確実に役に立つ。
しかし……総帥がメンバーを伝え終わっても、自分の名前が呼ばれることはなかった。
どういうことだろう……?
もしかして、気を遣って参加メンバーから外されたのだろうか。
だが、そんなこと未來は望んでいない。
「わたしも……さんかできます」
挙手をしつつかすれた声を上げる未來。
しかし……そんな未來に毒島が告げる。
「未來。お前が任務に参加することはもうない」
「……え?」
それは、予想外の言葉だった。
毒島が何を言っているのかわからない。
だって、自分はアイズホープのメンバーで、今までだって何度も「REAXTION」を使って役に立ってきたではないか。
それなのに、任務に参加することはないだなんて……
動揺して皆の顔を見回す未來。
そんな未來に、哀れみの目を向ける毒島。
そして……
次の彼の言葉は、今の未來にとって致命的な一撃となって襲いかかった。
「気付いていないのか。自分のキャストに何が起こったのか」
「キャスト…………まさか?!」
そんな馬鹿なと「REAXTION」を発動しようとする未來。
しかし、キャストを使おうとしたことで感覚的に分かった。
信じたくない。
こんなこと、絶対に信じたくないのに。
今まであったものがごっそりとなくなって、別のものがそこにあるような感覚。
……存在そのものが、全く変わってしまったかのような感覚。
そこにあったのは……小さい頃から寄り添った能力ではなかった。
「お前は……『REAXTION』を失った」
毒島の声が遠い。
目の前が真っ暗になるような気がした。
あまりにも残酷で、グロテスクな現実。
こんな酷いことが、あっていいのだろうか。
めまいがして、会議中だというのに崩れるように机へ倒れ込む。
そんな未來を咎めるものは、最早誰もいない。
未來はもう――再起不能である。
会議から一週間が経過していた。
あれから、歌も歌っていない。
歌う気になれるわけがないし、そもそもこの声で歌えるわけがないというのもそうだが、なによりもう歌う理由がなかった。
この歌が役に立つことは……もう無いのだから。
それだけではない。
自分は、能力さえも失ってしまった。キャスターとして活躍するためには無くてはならない存在である「REAXTION」を、失ってしまったのである。
どうしてそんなことになってしまったのか。それはなんとなく想像できる。
以前、毒島たちに聞かされた因子についての話――あの話が本当ならば、おそらく自分は因子が変化してしまったのだろう。「存在としての本質」である因子が変化したことで、能力自体が全くの別物になってしまったのだ。
本来ならば、初期段階で因子の隔離を行うことで元のキャストを残すことが出来たというが……あいにく、自分は二ヶ月もの間ずっと眠っていた。それも身体的に異常は無く、キャストの過剰使用による意識不明状態だった。そんな状態で因子の隔離処置など出来るはずがない。
ついに、自分は全てを失ってしまったのだ。
歌うことも、キャスターとして活躍する道も。
千空がくれたものは――――全て無意味になってしまった。
――お前が望むなら……アイズホープを抜けることが出来る。キャストを失ったのだからな、正当な権利だ。特定関係者保護プロトコルを受けて、普通に生きることも出来る――
それは、部屋でうずくまる未來に毒島がかけた言葉だった。
宿街の外に出て、一般人として静かに暮らす――
全てを忘れて、外へ出られたのなら……色々な未来が彼女を待っているのかも知れない。
普通に学校に通って、普通に友達と遊んで、普通の女の子として生きる。
大学に入って、就職して、いつかは結婚して――そうして、普通に年を取って死んでいく。
夢にまで見た「普通」の生き方。
断る理由なんて、無いはずだ。
足りないものなんて、無いはずだ。
でも――
そこに千空の姿はなかった。




