第十九話 怪しい予兆
「それで、そろそろ気分は晴れたのか?」
「…………」
見慣れた道を下校する中隣を歩いていた烏丸が僕に問いかける。
どんよりと薄灰色の雲が空を漂い、じきに雨が降り出しそうな気配。
僕はパック紅茶をストローで飲むだけでその質問には答えない。
「気分悪くするくらいならやらなきゃよかっただろ」
「…………」
別に気分がさらに悪くなったわけじゃない。気分の悪さは常に持ったもの。今回はただ単に達成感がなかっただけだ。
それは何故か。その答えは朧ながら意識の端に書き記されている。
思いの外事が上手く進んでしまったこと、織原の反応が想像の範囲内だったこと。
それと――。
「……まだ終わってないから、だな」
「おまっ、まだやんのか!」
「別に強制はしてないだろ。お前はお前のメリットのために僕に付き合ってるんだから」
「確かにそうだけどな……。でもこの間のあれはさすがにビビッたっての」
この間のことというのは、当然織原の過呼吸事件のことだ。
あれから一週間が過ぎようとしている。
僕が知っているのは救急車で病院に運び込まれた後、数日入院することになったくらいだ。マネージャーという人物が織原の携帯を使って律儀に僕の携帯に連絡をしてきた。
以降織原とは連絡を取っていないので体調の経過やその後何をしているのかは分からない。
「連絡取ってねえのか?」
「今までもこれからも僕から連絡を取るつもりもないし、その必要は生まれないよ」
「さようで」
烏丸の呆れた様なため息を余所に、僕はストローから紅茶を吸うが紙パックにもう紅茶は残っていなった。
まだ乾く喉を潤したかったが仕方がない。家まで我慢しよう。
「それはそうと烏丸、この間の曲だけど――」
「ちょっと失礼しますよ、お兄さん方」
電柱の陰から突如男が姿を現した。
歳は四十後半くらい。白シャツに黒いチノパン姿という至ってシンプルな服装だが、脂っぽくうねる黒髪に清潔さを欠く不精髭が怪しさを醸し出していた。
僕と烏丸は一瞬で不審者と察知し身構える。
「待った待った。そんなに警戒しないでくださいよ」
突然見知らぬ怪しい人物に声を掛けられて警戒しない人はいないだろう。
防犯ベルを鳴らされないだけマシだと思って欲しい。持ってないけど。
それに僕らが通り過ぎる寸前に声を掛けてきたということは、待ち構えられていた可能性だってある。
「君たち茜が丘高校の生徒さん?」
「いちいち聞く必要が?」
僕らの制服の胸ポケットには茜が丘高校の校章が入っているし、烏丸の鞄は指定鞄でこちらにも大きく校章が貼られている。
「いや、申し訳ない申し訳ない。確認するのがクセになっていてね」
「それで、僕らに何か用ですか」
烏丸が目線でこいつと会話をするのかと、問いかけてきたが無視する。
僕らが運動部所属じゃないとしても、本気で走れば目の前の男くらい軽く撒けるだろう。
仮に何かしらの危険物で攻撃されても周囲に民家は多数ある。距離を取りながら危機を叫べばすぐに助けは来る。最悪危険を承知して二人がかりで取り押さえればいい。
ただそれは僕らが男というのが最低条件。
ここで僕らがこの男を撒いても女子生徒が次に来るかもしれない。それこそ危険が生じてしまう。解決できるならばここで解決してしまったほうが後腐れはない。
後から聞いて今の感情がより曇天に覆われないようにする。ああだこうだ言ってはいるがようは自分のためだ。
「君たちの学校に織原香苗がいることはもちろん知っているね」
「そりゃ有名人ですからね。それが何か」
「いやなに、最近彼女に何か変わったことはないかと思ってね」
「変わったこと……。どうしてそれを一般生徒に? 事務所や本人に直接聞けば早いんじゃないですか」
何だこいつは、一般人じゃないな。聞き方が大雑把すぎる。
もし事件性があったとして警察ならもっと突っ込んだ聞き方をしてくるだろうし、事務所の人間ならそもそも一般人にこんな怪しげな聞き込み染みたことはしない。
「若い有名人の情報は周囲に聞いた方が新鮮で真実味のあるものが出てくるんですよ。それにちょっと前から彼女の姿も見なくなりましてねぇ。本人に直接聞くのも出来ないんですよこれが」
ああ、なるほど。――記者か。
ならば僕に話すことはない。そもそも織原の情報など持ち得ていないのだから。
この不審者の正体も分かった。ここで放置しても僕らへしている聞き込みを繰り返すだけ。想定していた危険はもうないだろう。相手を続けたところで時間の無駄だ。
僕は烏丸へもう行くぞ、とアイコンタクトを投げ、
「話すことは何もないですね。僕らはあんな有名人と関わりはないので」
記者の横を通り過ぎ――。
「それはおかしな話ですねぇ。そっちの元気そうな彼はともかく、君は関係者じゃないんですかい?」
「……は?」
自分でも意外な程低い声が出た。
一体何を根拠に関係者だと言っているのか。
一時期ネットを騒がしたあの写真の正体が僕だと分かったのか。それならば彼氏という認識を持たれている可能性もある。いや、僕だと特定できる写真があるならばとっくにネットに拡散され正体は暴かれているだろう。織原香苗の人気を舐めてはいけない。
ならば、僕の家に来たときか。違うな、それも烏丸や宮原が一緒にいた。烏丸が関係者ではないと言っていたためその可能性もない。
「ちょうど一週間前偶然に取れた写真なんですがね。これ君ですよねぇ?」
男が胸ポケットから数枚の写真を抜取り出した。
そこに映っているのは僕と織原。駅で待ち合わせたところから順を追ってレコーディングスタジオに入る寸前までの写真だった。
盗撮されていたということか。
「おやおや、おかしいですねぇ。さっき関わりはないと言っていたのに、どういうことでしょうねぇ?」
その嫌な粘っこい物言いに僕は満面の笑みで答える。
「逆にあんたみたいな怪しさ満点なやつを相手にして自分の友達の情報を売れるとでも? もうちょっと脳みそを回転させてから話してはどうですか」
「私が怪しい……。これは手痛い指摘を頂きましたねぇ。次からの参考にいたしましょう」
「それにそれ盗撮写真ですよね。織原はともかく僕は一般人だ。プライバシーの侵害訴えますよ?」
「訴える? それは構いませんがどうやって。私がどこの誰かも分から――」
「今この状況を理解していない? あんたの前には健全な男子高校生二人、後ろは逃げ場のない壁。あんたの身分証明書はあんたが持ってるんじゃ?」
「……おお、怖い怖い。確かに君たちに力づくで来られたら敵いやしませんね。しかし、いささか手慣れてやいませんか」
「最近のドラマは学べるものが多いんでね」
僕は前に掌を向けて右手を差し出すと、記者は溜息交じりに持っていた写真を僕の手に握らせる。
当然記者の元にはオリジナルデータが残っているだろうが、とりあえず今回は形だけ敗北宣言をさせる必要があった。
記者というのは粘着質な生き物だ。利益のためなら身を削ることなどお構いなしに行動する。つまり手を変えてまた次もあるということ。
だがそうはさせない。
「もし次僕の何かしらを侵害した場合、今この場でのやり取りとあんたの写真をネットにばら撒くからそのつもりで」
僕はポケットからスマホを取り出し記者の姿を連射した。連射はただの操作ミスだが、これまた意外と効果的で記者の顔色が変わる。
「……容赦ないですねぇ。今日のところは引き上げますよ。ご迷惑をおかけしました」
記者は両手を上げ降参の意を示すと、頭を軽く下げて僕らが進もうとした逆の方角へ歩いていく。
「夏代、よくあいつが記者って分かったな」
「ああ。去年内の近くのマンションに芸能人がいてな、その時にも同じようなやつに声掛けられてんだよ」
その時とは話しかけられた雰囲気が若干違うとは思っていたが、関係者本人だと見据えられていたものだとは思いもしなった。
僕は乾いた喉を潤すため紙パックに刺さったストローを吸い上げる。しかしストローは液体ではなく空気を吸い上げるだけ。
「そうだ……、もう中身ないんだった。喋りすぎて喉カラカラだしコンビニ寄っていい?」
今回の写真と脅しでしばらくは大人しくしているだろうが、あの言い方ではいつかまた良からぬものを捕まえて僕らの前に現れるだろう。
この時はまだあの記者と関わった小さな火種が、あのような大炎上を起こすとは思いもしなかった。




