第十七話 ネームレス現る
「先輩って、ほんとこういうのに耐性ないなぁー」
首元を押さえ後ろを振り向くと、言わずもがなそこには腹を抱えながら爆笑する織原。
カーキ色のキャスケット帽をかぶり、黒のティーシャツに白いオーバーオールといった服装。そして身バレ隠しのためか丸いフレームレス眼鏡をかけている。
シンプルな僕に比べてこの圧倒的センス。ほんの僅かな時間かもしれないが隣歩きたくない……。
僕が織原の服見ながら無言でいると、
「じゃ行こうか」
僕の袖口を引っ張って先行し始める。だがその手はすぐ目の前の横断歩道で離された。
レコーディングスタジオは本当に近くにあり横断歩道を渡ってほんの二分ほど。
駅前商店街の中にポツンと立つビルの地下に存在している。
短い階段を下り、赤い扉を開けて僕らは中に入った。
誰もが行ったことのあるカラオケのようにまず待合室を兼ねたロビーがあり、奥にレコーディングルームに繋がる道がある。ここではさらに地下があるようで右手のガラス扉の奥には階段の姿が僅かに窺えた。
「いらっしゃいませー」
左手にある受付にいた若い女性従業員が笑顔で僕らを出迎えた。
レコーディングスタジオだからといってパンクなファッションをしているわけではなく、バーテンダーのような白いシャツに黒いパンツ姿。もしかするとこの店の制服なのかもしれない。
「ご予約はされてますか?」
「今日は知り合いがやるレコーディングの見学なんですけどもう来てるかな?」
「予約されている方のお名前をお伺いできますか?」
織原今知り合いの見学って言った? 完全にさらっと何食わぬ顔で嘘ついたな……。
「ネームレスです」
「えーっとネームレス、ネームレスっと……」
お姉さんが引き出しから予約表と思われるノートを取り出しペラペラとめくり始める。
だがその名前を見つけることが出来ないのか一向に手が止まる様子はない。
もしかしたらこのスタジオではないのか?
などと僕が訝しんでいると、入口扉が開かれ紺色のブレザーに茶色のスカート姿、棒つきの飴を咥えた女の子が店の中に足を踏み入れた。
ウィッグだとは思うが真っ赤な腰まで伸びる髪に目を奪われる。前髪も長く顔の様子は窺えない。
僕の横を通り過ぎる瞬間、長い前髪からほんの少し覗いた目と視線が合い、彼女の口が小さく動く。
『このマゾヒスト』
その声はほとんど聞こえず唇の動きを合わせて何とか判別がついた。
彼女が通り過ぎてから僕も音にならない声で呟く。
「……だから僕はドSだってーの」
赤い髪の女はそのまま真っ直ぐ奥に進み、こちらを再度一瞥することなく右手側の部屋へと入って行った。
「申し訳ございません。ネームレスという方たちのご予約はないですね……」
「そんなはずないと思うんですけど! 今日の夜七時過ぎから使うって聞いてるんですけども!」
織原は嘘言ってんな! と言わんばかりにカウンターから身を乗り出しお姉さんに顔を近づける。
それでもネームレスは予約していないと言い張るお姉さんの言葉を信じられない織原は食って掛かる。このままだとカウンターの中へ入り込み予約表を奪いかねなかったので、僕は見かねて織原の両脇に腕を入れカウンターから引きはがす。
「お前はどこぞのクレーマーか。すいませんね」
「わわわ! ちょ先輩……!」
「ちなみに今入予約してる人ってどんな名前ですか?」
僕の質問に受付のお姉さんは困った顔で口をごもらせる。
そりゃ個人情報だから簡単には言えないだろう。僕らがそのバンドのファンで勝手に追っかけてきている可能性だってある。
……いや、勝手に追いかけて来てるわ。約一名ファンが勝手な行動して許可なく見学に来てるわ。
けれどここで帰ってしまえば徒労に終わることは目に見えていた。
だから僕は最終最強の手段に入る。
織原を抱えている手を離し、おもむろに彼女のキャスケット帽とサングラスをはぎ取った。
「わ……、待って!」
反射的に織原は両手でキャスケット帽を押さえるが、サングラスが外されているのでもう遅い。
ミュージシャンは見慣れているであろう受付のお姉さんも目を丸くしてピンクの悲鳴を小さく上げていた。
「先輩! 私だって女子なんだから着てるもの取るときは事前にひと言かけて! 心の準備とかいるんだから!」
「御覧の通りこいつあの織原香苗なんで、信用は出来ると思いますよ」
「まさかの無視!?」
帽子とサングラスを外されることに一体何の心の準備が必要なのだろうか。
あ、そうか。一応芸能人だから顔バレするのに心の準備がいるのか。それはちょっとだけ申し訳ない気持ちになる。ちょっとだけだが。
「それで今いる人たちなんて名前のグループですか?」
僕がもう一度訪ねると、受付のお姉さんは小声で自分に言い聞かせるように「織原さんならいいかな」と呟き、僕と視線を合わせ重たかった口を開く。
「この時間帯ですと……。アウトサイダー様と名無し様の二グループの方々が使われてます」
「「名無しはどこの部屋?」」
僕と織原の声が重なる。
実に簡単な偽名だ。ネームレスを日本語読みにして名無しとは。もうちょっとマシなひねりはなかったのだろうか。
しかしすぐに正体が分かったことは行幸。これでネット配信時間に間に合う。
受付のお姉さんはネームレスの部屋がこのフロアの奥、真っ直ぐ向かって右側の部屋だと口頭で案内をしてくれた。
真っ直ぐ向かって右側の部屋ということはさっきの赤髪が入って行った部屋。
織原は逸る気持ちを抑えることなく「お先!」と僕から帽子とサングラスを奪い装着しながら走って行った。
僕も受け付けのお姉さんに感謝と迷惑への謝罪を込めたお礼を言い、織原を追いかける。
部屋の扉は木で出来ているが中心に長細いガラスがはめ込まれており、中の様子が少しだけ窺えた。
基本的にここのレコーディングルームはコントロールルーム、メインブース、サブブース、ミーティングルームの四つに分かれているようで、扉からはミキサー機材が置かれたコントロールルームが見える。
さすがに彼女たちの許可なく中に入るわけにはいかない。そこはプロの織原が一番よく理解している。だから扉のノブに手を置いたまま中の様子をジッと窺うに留めていた。
だがここまで来た僕らの目的は果たさなければならない。
僕もガラスを覗き込み、コントロールルームとメインブースを隔てた大きなガラスの向こう側に立つ彼女たちの姿を視界に入りこませた。
は?
僕は思わず目を擦る。目に映る光景があまりにも想像とかけ離れていたため、自分の目がおかしくなったのかと疑ったからだ。
擦ってぼやけた視界が再びクリアに……なったが目の前の光景は依然変わることはなかった。
メインブースに佇むのは二人の男女。
一人は先程すれ違った赤髪の少女でもう一人は……。
「先輩」
「何だ?」
「ネット配信するから顔バレを防ぐために変装するっていうのは私からしたら残念ですけど、まぁアリだとは思うんですね」
「うん、そうだな。赤髪のやつも前髪長いし」
「漫画とかアニメとかだとマスクとサングラスしたり、お面被ったりしてますよね」
「そのあたりが定番だな」
顔出ししていないネットの歌手だとプロモーションビデオなんかでフード目深に被ったり、何かしらの草木で顔の上半分を隠したりと歌詞も合わせて逆に意味深さを演出していたりもする。
しかしこの場合は……違う気がした。いや、ハッキリ違うと言える。
「どうしてあの人恥ずかしげもなく紙袋に穴開けて被ってるんでしょう?」
「……馬鹿だからじゃないか?」
本音が思わず口に出た。
僕の視界に映るのは赤髪の少女と謎の茶色い紙袋にちょっとした穴を空けて被った変人男性。
もうちょっとカッコつけろとは言わないがまともな変装はなかったのだろうか。
というか、たったそれだけの視界でドラムを叩けるのだろうかあの変人は……。
だがそんなツッコミを入れる立場ではないので僕は彼らのことを見守ることしか出来ない。
そろそろ時間は十九時半を回ろうとしている。
見たところ楽器の準備やカメラの準備も終えて最終打ち合わせでもするように顔を合わせて話し込んでいた。
ということはもう間もなく配信が始まるのだろう。
僕と織原は互いに自分のスマホを取り出し、ネームレスの公式ページを開きつつ配信の開始を待った。




