1、ルート解放『ハロルド・ナルル・トリーシャ』
彼女が自分をハロルド・ナルル・トリーシャだと理解した時、目の前に真っ赤な花びらが放射状にそれは派手に舞っていた。僅かに開いた厚めの唇が、短い息を小さくこぼす。鉄臭い口紅が端から垂れて、緩やかに走馬灯が脳裏を駆け抜ける。
自分が一体誰なのかが、身体と心が馴染んでいく。一体、現状は命の危機だと誰が呑気に予測できようか。
今まで、どんな魔物と対峙しても決して手放さなかった愛用の戦斧が両手から滑り落ちていく。
「ハロルドっ!!」
動きを止めた彼女の身体を、魔物の鋭い鉤爪が、右肩から腹部にかけてを掻き抉っていた。
痛い、だなんて感じる間もなく全身が炎に包まれたかのように熱くなり、戦場に舞った自分の赤い雨が己の身体に降り注ぐ。命の終わる、音がする。
下肢の力が抜けて崩れ落ちるハロルドの視界の端に映ったのは、浅黒い肌の屈強そうな男が野性的に牙を剥き出して、相棒を害した魔物を真っ二つに割る場面。
「ハロルド!このっ、馬鹿野郎っ!!」
口汚い男は返り血をものともせずに断末魔をあげて闇に溶ける魔物の残骸を放り捨て、踏みならされた坑道の、硬い岩壁に身体を預けた彼女の体を抱き起こす。
ヒュー、ヒューと肺雑音の混じる呼吸を繰り返すハロルドの軽装の前を乱暴に開いた男は、傷口を見て低く唸る。
「だから防具を着ろっつっただろ…!」
そんなに酷い傷なのだろうか、やはりこの身体は死ぬのだろうか。ハロルドが彼女と溶け合った瞬間にこの世とおさらばだなんて、まるで三流以下の喜劇だ。
ハロルドならばこんな時、彼にどう言葉を返しただろう。
「だ、…て、直るの、待て…な…」
依頼されたポイントは、目と鼻の先だった。坑道に棲息する岩土竜が抗員を襲い、討伐されるまで閉鎖されてしまったこの坑道は、獣人達の数少ない稼ぎの場だ。ただ人至上を掲げるこのルクス王国で、獣人が就ける職は限られている。いくら、ハロルドとは縁もゆかりも無い種族といえど、獣の性を身に宿す者の切なる依頼に、A級冒険者である彼女が立ち上がらないはずがなかった。
例え、前日の依頼で胸当てが破損した為に修理に出して、装備が不完全であったとしても。
「息をしろ、ハロルド!」
ひきつけを起こしたような呼吸の彼女のぬるりと熱を持つ血の付いた無骨な太い指が、繰り返し頬をさすり懇願をする。
「待て、逝くな、今回復を、くそっ」
死にたくないな、なんて思えるだけの自分を自覚はしていないけれど、きっとパーティーを組んでいたこの男には苦い思い出を残してしまうだろう。申し訳なさを伝えなくてはいけない。鮮血に濡れる指先を緩やかに動かすと、気が付いた男は塗り込んだ止血軟膏の空缶を落とす。
カラン、カラン…と、二人の他に気配はない坑道に軽い音がこだました。
いい人だ、優しい人だ。男の名前も思い出せない癖に、看取られることの全てを彼に委ねて震える唇が僅かに口角を上げる。その小さな変化に舌打ちをした男が、女と言えど体格の良いハロルドを抱えて立ち上がる。
「ふざけるな…」
「ご、め…」
言葉が雑音ばかりの呼吸に邪魔されて伝わらない。ごめんなさい、名も知らぬ貴方。謝罪すらまともに伝えられず、荷物を背負わせてしまった。
「ふざけるな、簡単に死なせる訳ねぇだろが!!」
強烈な眠気に意識を流されて、目蓋が落ちる。耳に残ったのは男が相棒を呼ぶ怒号。さすがハロルド、人望のあるキャラだったんだなと考えが過り、彼女は小さく笑う。こんな最期だとしても、引き止めてくれる誰かが居たならハロルドは恵まれていたのだろう。
「ふざけるな、お前がお前を諦めるなら、俺が奪い取ってやる」
熊獣人よりも熊のように厳つい男の、嘘みたいな幻聴が届く。人の死の間際、最後まで残る五感は聴覚だと聞いたことがあったななんて、呑気に彼女は感心しながら死んだ。
***
死んだと思っていたのに、目蓋を掠める柔らかな春風に擽られて意識の外側から自分を取り戻した。耳に入るぼやけた声や街の生活音は、彼女だった頃のものとはかけ離れている。規則的に、定時に聞こえる電車の音ではない空に打ち上がる空砲。クラクションではなく食器をカチャカチャと忙しなく洗っている音。知らない音に鼻から息を深く吸い込むと、知らない空気か肺を脹らませた。花と、木炭で火を起こした時の臭い。日常からは程遠い臭いだ。
知らない音、空気。正体の分からぬ空間に居る自分のことすら危うい立場に思えて、重たい目蓋を持ち上げる。
ぼやける黒に近い木目調の天井は、自分の部屋ではないものだった。あの部屋は余り日当たりが悪く、いつだって淀んだ空気を孕むヘドロが溜まったようなにおいがしていた。こんな、清潔な空間は知らない。眩しい朝日が幾筋も折り重なって注がれる明るい部屋は知らない。
鈍い頭痛に突付かれて頭が徐々に働き始めていくと、浸透して行く現実を飲み込んだ。
かつて自分であった彼女の身体にはもうきっと戻れない。名前もここでは通じない。彼女の意識は、身体を捨てて彼女とひとつに交わったのだと。ハロルド・ナルル・トリーシャと呼ばれるキャラクターの一人と、彼女はひとつになったのだ。
別に、惜しむ程高尚な人物ではないはずだった。どちらかと言えば斜に構えたような可愛いげのなかったかつての自分。捻くれ者で、自己評価の低い、愛に飢えた子供じみた人間。
だけれど、確かに彼女は存在していた。
さようならとかつての己に別れを告げるだけなら許されても良いだろう。静かにゆるりと目蓋を閉じると、人の気配のなかったはずの室内に男の声が響いた。
「何で泣く?」
泣いている?誰が?まさか、ハロルドが?
目尻から耳に流れ落ちる温かな水滴に驚いて、その時初めて自分が泣いているのだと知った。
「おい、」
ガタンと大袈裟な音をたて、仰向けの視界に男の姿が映り込む。ぼやける中でも見覚えのあるあの屈強そうな浅黒い肌の男。その男が、険しい表情でハロルドの様子を伺っている。
「どこか痛むのか」
面倒そうに吐き出す言葉と裏腹に、伸ばす癖に決して触れてこようとしない指先のなんと繊細なことか。顔の上でさ迷う男のささくれだった指先は、やがて握り潰されて彼の体の横に戻って行く。
「ハロルド、答えろ」
呼ばれた名前に感じる違和感。そう、そうだ。自分はハロルド。ハロルド・ナルル・トリーシャは猛者達の集まる冒険者ギルドに所属する女戦士。間違っても、こんなか弱い涙を見せるような女ではない。
「っ、でも、ない…!」
ハロルドらしからぬ姿をこれ以上晒してはならない。首をゆるゆると横に動かし、腕を持ち上げ顔を隠そうとした。しかし、思うように両腕は動かせずに指先が痺れるだけだった。
目を瞑り男の視線から逃げる為に顔を逸らすが、全く意味のない反抗だった。さっきは躊躇した男のひび割れた指先は、容赦なく小さな顎を捕まえる。
「逃げるな、言え」
端的に告げる言葉は高圧的。それなのに不器用に頬を挟んだ指先は、臆病に震えている。何なのだこの男。どうしてこの男はこんなにも真逆にハロルドを責め立てる。
「さ、わ…るな…」
わざと傷付けるような言葉を吐いても物怖じしない男は、表情の僅かな揺らぎも見逃しはしないと見詰め続ける。
嫌だ、自分はハロルドなのだ。
見るな、お願いだからハロルドを見ないで。
掻き混ざる心情を察したのか、それともただの当てずっぽうかは分からない。だけれど男はハロルドの目を見て、たった一言の爆弾を落とした。
「お前…誰だ…」
答えなんて、ハロルド・ナルル・トリーシャ以外有り得ないと最初から分かったことなのに。
男から逃げたい、そればかりに支配された声帯が震えた。
響くのはか弱い悲鳴。起き抜けの掠れた声で必死に叫んで恐怖を語る、ただの女の悲鳴だった。
悲鳴に駆け付けた年配の女性が男を部屋から追い出した後も、壊れた玩具のように、ただただ、悲鳴が枯れて意識を落とすまで狂っていた。
ハロルド・ナルル・トリーシャとは、一体誰のことなのだ?