2-15
勇気を出して一口。初めて形の残った虫を自ら食べた瞬間だった。
「こ、これは……」
程よい塩分。上品なコク。滑らかな舌触り。発酵食品特有の深みのある味わい。この味はまさしく、
「醤油だ! 食べなれた醤油よりもまろやかで甘味があるけど、間違いなく醤油の匂いだ!」
ニイトは感動した。まさか異世界で醤油を食べられるとは思わなかった。
エビのバーベキューに醤油をかけたものだと思えば、少々見た目が虫に似ているエビでも食べられる。いつの間にか視神経を通って伝えられた情報に、対象がエビに見えるフィルターがかけられているが気にしない。
むしろ醤油がかけてあればフィルターなしでも食べられそうな気さえする。
地球時代に特別醤油が好きだったわけではないが、何日も食べなれた味を離れていると無性に恋しくなるのである。ああ、醤油、味噌、漬物。脳裏にはかつての食卓の光景が思い浮かぶ。
「おっちゃん、この醤油を売ってくれないか?」
「しょうゆ、ってのは何だい?」
「この黒いタレのことだよ」
「ああコウショウのことか。悪いけど、それはできねぇぜ。こいつは、うちの秘伝のタレだからな」
「そこを何とか頼む。銀殻3枚出すぞ!」
「何だと!?」
屋台のオヤジは心が揺れているようだった。
「よしわかった。銀殻5枚でどうだ! 作り方は誰にも言わないし、なんなら材料の調達もする。さらに一週間分の薪も付けようじゃないか」
「おいおい、正気かよ。何だってまたそんなに必死なんだよ」
ニイトにはわけがあった。それはキューブの売買で味噌や醤油を買おうとしたら、質の悪いものですら100万ポイントというふざけた値段を吹っかけられたのだ。更に酷いのは米が1kg1000万以上もした。冗談にしか思えなかったが、事実だった。
ノアに文句を言ったところ、稲は非常に優秀なチート作物だからそのぐらいするとの回答だった。さらに発酵調味料なども希少性が高いだの食事効果が高い高級調味料に類するからだとかで、軒並みひどい値段がつけられていたのだ。
ポイントに余裕のないニイトは断念せざるを得なかった。
しかしここに降って沸いた天啓があれば飛びつくのも致し方ない。
「実はさ、俺の故郷で似たような調味料があったんだよ。でも今はどうしても手に入らなくてさ、懐かしいこの香りと味をどうしても手元においておきたいんだよ」
「わかったよ。そういう事情があるなら仕方ねーな。一壺だけ売ってやるよ」
「本当か! ありがとうよ、おっちゃん!」
ニイトは嬉しさあまり屋台の親父に抱きついた。
「おい、こら、離れろ! 野郎に抱きつかれたって嬉しかないわい!」
ニイトはしばらく親父の胸板で頬をスリスリしていた。
さて、
マーシャはその様子を一歩引いた位置から眺めていた。
その胸中は複雑であった。
先ほどおばちゃんからの抱擁は回避したのに、オヤジさんには自ら熱い抱擁を迫る自分の旦那様。
ひょっとしてニイトさまは女性よりも男性が好みなのかもしれない。そう思い至って、マーシャの猫耳はショックを受けたようにへなへなと折り曲がって垂れた。
が、ニイトがホクホク顔で壺を持って帰ってくると、すかさずに元気な声をかける。
「わ、わたし! 頑張って男らしくなりますからっ!」
「ふぁいっ!?」
真意がわからず、混乱するニイトだった。
◇
銀殻5枚と大量の薪で醤油風調味料を売ってもらったニイトは、材料も調達してくると提案したが、これ以上してもらわなくていいとオヤジに断られた。
おそらく製法がバレるのを嫌ったのだろう。
しかしニイトは串に刺さった残りのバッタを一つあーくんに食わせれば、ある程度の情報は得られるのである。
――蝗醤塗り焼きバッタ 1匹 売却額……500ポイント。
(ふむふむ。蝗醤とは何だ?)
――蝗醤(レア度☆) イナゴを使った発酵調味料。
なるほど。イナゴで作った醤油だったのか。
味噌や醤油の作り方は曖昧だが多少はわかる。ひょっとしたらイナゴ醤油は自家製できるかもしれない。だが、それには麹菌が必要だったはずで、今はまだ無理だ。
さすがにレアな調味料を使っているだけあって、売却額もなかなかだ。
以前バッタの死骸を大量に売ったことがある。そのときに実験したのだが、ただの死骸は1匹平均10ポイントくらいだった。しかし焼く工程を加えて焼きバッタにすると売値は30ポイントに上がった。さらにミンチにしてハンバーグのようにして焼くと、80ポイントまで上昇した。(10匹使用のバッタハンバーグで800ポイント)
このことから手間暇をかけるほど売値が上がることがわかった。おそらく何ヶ月も発酵させたであろう醤油なら500ポイントの値が付いてもおかしくない。
それはそうと、ニイトはもう一つ気になるものを見つけた。
それはイナゴ醤油を保存しておいた壺だ。おそらく土器だとは思われるが中々に丈夫だ。聞けば東の草原や沼地から採取してきた粘土使っているそうだ。
それを聞いてニイトはすぐさま草原に繰り出した。
ちょうどそろそろ器が欲しいと思っていたところだったのだ。土器があるだけで水を運んだり煮込み料理を作ったりと、できることの幅がぐっと広がる。
この街にあるのは虫の殻をひっくり返したような皿が多くて、強度も耐熱性もいまいちだったので後回しにしていたが、土器が作れるのなら話は変わる。
というわけでさっそくニイトは草原にやって来た。
腰高の草をかき分けていたとき、突然前方の草の中から緑色の敵が襲い掛かってきた。
「うぉっ!」
ニイトは腕を回して自分と敵の間に武器を滑り込ませる。
前足を伸ばしてきた敵の攻撃をすんでのところで防いだ。
敵は、どでかいカマキリだった。そして防がれた片方の腕をニイトの武器に絡ませて、もう片方のカマを振り上げる。
「ニイトさま!」
マーシャが横合いに回りこんで《魔法の矢》を射る。
振り下ろされる直前だった前足の関節を正確に射抜き、ちぎれ飛んだカマが宙を舞う。
その間にニイトは絡みつかれた長槌の柄をカマの隙間に通して、体重を乗せて捻じる。
テコの原理で敵の腕関節は破壊された。
蹴り飛ばして距離を取ると、両腕を失ったカマきりは羽を広げて飛んで逃げる。
「させません!」
マーシャが追撃の矢を放つが、僅かに外れる。カマキリはそのまま攻撃圏外へと逃げおおせた。
「申し訳ありません、逃がしました。そもそもわたしの索敵が不十分だったせいで、ニイトさまに危険が及びました。いかような罰をもお与えください」
「いや、マーシャは良くやってくれた。片腕を無力化してくれたおかげで俺も攻撃に専念できた。むしろお礼を言わないと」
「ですが――」
「とり逃がしたことは問題ない。カマキリは不味いから誰も食べないらしいし、価値のあるカマは二本とも手に入れたんだ。ドニャーフ族にいいお土産ができたし、最良の結果だよ」
それでも渋い顔をするマーシャに、ニイトはやむを得ずおしおきすることにする。
「よし、わかった。なら罰を与えよう。はむっ!」
「ひゃっ!」
マーシャの猫耳を甘噛みした。
「はむはむ。全く敵の存在を見逃すダメな猫耳め。あむあむ」
「ひゃぅぅ、ぁぅあ、ぁうぅ!」
柔らかい猫耳はくすぐったそうによじれる。
「ふぅ~。ひとまずここまでだ。おしおきの続きは安全なキューブに戻ってからするぞ」
「……はぃ」
潤んだ半眼で見上げてくるマーシャが途轍もなく妖艶だった。
脅威が去ったところで、ニイトはあーくんで土壌を削っていく。
ここで新たに取得したスキルが効果を発揮する。それは【査定】スキル。使用するたびに10ポイントほど消費するが、これによって今までは全て自動で売却されていたものが、途中で売却キャンセルできるようになったのだ。
土や草や小石などに分類されて査定額が表示されていく中に、粘土という項目が現れる。そこで粘土だけを売却キャンセルしてキューブに【転送】するのだ。
こうすることで楽に粘土だけが入手できる。
沼地に近い場所を採掘すると面白いように粘土が取れた。とくにカタツムリが多く生息している場所が狙い目らしい。何故かはわからないが街の人がそう口を揃えて言う。
ニイトはたっぷりと粘土を集めた。




