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一度意を決してからのヒリビリアの行動は迅速だった。目の技法を教えると言ったリージアの言葉に目を丸くしはしたが、かしこまりましたと一言発し、シーシャを伴いすぐに部屋を出ていった。
「あの、リージア、よろしいでしょうか? 今おっしゃいました目の技法というのはもしや、私たちの家系に伝わる秘技のことでしょうか?」
ヒリビリアとシーシャが部屋を辞したあと、ビースは戸惑いがちにリージアへ問いかけた。
「あら、当然じゃない。それ以外に何があるって言うの?」
「左様でございますか。失礼ですがあなたたちはそれをどこでお知りになったのですか? 私たちの家からも、まして王家からなど漏れようはずもございません。まさかとは思うのですが、私が何かの拍子にヒリビリアへと漏らしてしまったのでしょうか?」
「あぁ、それなら心配しなくて結構よ。もともと開国の三勇士に目の技法を教えたのは私たち森人の民なのよ。本来は門外不出の技法なんだけど、緊急時には解放もするわ。あ、ちなみに目の技法に関してはそこまで絶大な効果をもたらすものではないわ。動体視力や反射神経を引き伸ばすってだけだから。アラレルみたいな圧倒的な力を得る技法は私たちも知らないわ」
リージアの言葉にビースは得心したようだった。またシャルグは、リージアの言う目の技法というものに心当たりがあった。シャルグがリリアンと対峙した際、リリアンがとてつもない動きに目をついて行かせる方法があるようなことを匂わせていたのだ。
シャルグは体術に使えるマナの量が通常のアレーよりもかなり多い。それは彼の才能だった。しかし、もしそれほど速く動いたとして、それについていけるほどの視力が彼にはないのだ。
シャルグはその技法を教えてもらえれば、自分がより強くなれるという確信があった。そのため彼にしては珍しく気持ちを逸らせた。
「もしその技法を聞けるのならばありがたい」
シャルグは言った。リージアはそんなシャルグに目線を合わせ、にこりと笑んだ。幼い頃の花のような笑顔は、老いてなお健在だった。リージアは立ち上がり、椅子に立てかけてあった杖で円を描く。床は下生えを綺麗に抜き取ったむき出しの地面だ。リージアは円の中に複雑な模様を書き込み、魔法陣を描いた。
「ふん、こんなものね」
突然のリージアの行動は、特にビースに疑問を持たせた。シャルグはその技法について知らなかったので、そんなものなのかと思っていたのだが、口頭で伝えるだけで良いことを知っていたビースには、リージアの行動は謎だったのだ。
「何をされているのですか?」
「これはね、その技法を教えるために必要なことなのよ。黙って見ていらっしゃい」
それは魔法に詳しい私にも知らない魔法だった。気持ちを逸らすシャルグがじれるほど長い間、リージアは目を閉じていた。そしてかっと目を見開いたかと思うと、その魔法陣に何かの魔法をかけた。ほぼ間違いなく、進化を止める力を遮るための魔法だろう。そんな魔法が存在するとは思ってもみていなかった。
リージアは自ら描いた陣の上に立つ。
「じゃあ今から説明するわ。一度しか言わないから聞き漏らしたりはしないでちょうだいね。とてもとても簡単なことよ。体を動かすのに使っているマナを少しだけ目に集中させて。それだけであなたの目は活性化されるわ。もちろん細かいこつはあるけど、これさえ知っていれば、あとはマナで体を動かすのと同じ。すぐに馴れるわ」
シャルグにとってはとても拍子抜けする説明だった。前置きに対して、要した時間はほんのわずかだ。クラムという闇が進化を止めていることなど、普通に暮らしている人はまず知り得ない。なので、リージアのしていたことの意図がシャルグには分からなかったのだ。
「恩に着る」
しかし、シャルグは分からないからといってそこに拘泥する気はなく、静かに礼を言った。愛想の欠片もないシャルグの礼に、しかしリージアは満足そうに笑む。
「リージア、もしよろしければ森人の森にどれほどのアレーがいらっしゃるのかを教えていただけますか?」
事が済んだことを見届けると、ビースは言った。リージアは目を閉じ少し考えてから口を開いた。
「そうね、大体五十人って所かしら。数は大したことはないけれど、みんな目の技法を知っているわ。そしてヒリビリアとシーシャと私は、まああなたたちの息子ほどではないにしろ、かなり強いわ。控えめに言ってもね」
「左様ですか。それは結構なお話です」
ビースはリージアの答えを聞いて、丁寧に相づちを打つ。しかし、リージアの発言を深く吟味し直して、また口を開いた。
「……あの、リージア、その口振りから察するに、あなたもこの戦争に参加なさるおつもりですか?」
リージアは心配そうに問うビースにぴたりと目を合わせる。
「当然じゃない」
彼女は少女時代と少しも変わらない、いたずらな笑みを浮かべてそう言った。
悋気持ちで、ヒステリックで、茶目っ気があり、行動的なリージアは、私が気に入っていたあの頃のままだった。幼い頃からの性質というものは百を越えても変わることのないものなのだろう。
世界の壁の向こうで私は少し嬉しくなって、どこにあるかも分からない口許を密かに弛めた。
「それとビース、この機会に、あなたにはこの大陸の大事な事実を話しておくわ。闇の大神官、クラムというのはご存知かしら?……」
ダットムの農園を後にしたルックとルーンは、再びマナを使った走法で西へと駆けていた。
農園でダットムが語った話は、何としてでもみなに伝える必要がある。けれどルーンを置いて一人で行くわけにもいかない。ルックは煮え切らない、やきもきとした気持ちで歩を進めていた。
空が暗くなり始めた頃から走り始めて、曇った空が急激に視界を悪くし始めた頃、二人は休息をとるため立ち止まった。しばらくは暗い中、二人は雑談をしながらマナの回復を待った。もっともルックにはまだ休息は必要ではなかったので、ルーンの回復を待っているだけだ。ルックは何とか逸る気持ちを鎮めようと努めた。
「真っ暗になっちゃったね。ルックはなんか明かりになるもの持ってきた?」
ルーンはルックの焦りには気付いていない様子で、のんびりと問う。ルックの荷物は、相変わらず背中に回した剣と、その鞘にくくった袋くらいで、特に明かりになるようなものは持っていなかった。そのためルックはルーンにその剣を渡した。
「宝石のマナ三つ分くらいに呪詛の魔法を入れて貰っていい? 光籠の魔法にしたいんだ」
ルックは控えめにそう申し出る。光籠とは呪詛の魔法で、物体に光を与える魔法だ。時間は調節次第で少なくとも一夜は灯し続けられるが、それは移動中の足下を照らすには充分な明かりとは言えない。しかしルックの剣にマナを集めることによって、呪詛の魔法は重ね掛けしたときのように、数倍の威力をもたらすことができる。
「えー、三つも? すごい疲れるんだよ? まあ、なんても言ってられない状況なのね」
ルーンはそう言った後ルックの剣を受け取って、意識を集中し出す。
呪詛の魔法というのは、他の魔法に比べて発動するまでの時間が非常に長い。ルックが宝石三つ分のマナを溜めるよりも大分長い時間がかかる。ルックはその間手持ちぶさたになった。そしてなんとなくライトのことを思い出した。
ライトとは仕事が別々になれば、長いとひと月ほども会わないこともある。しかし今回の戦争が長引けば、数月単位で会えなくなるだろう。
暗くなった太陽を覆う重たい雲は、今にも雨を落としそうだった。まだ暖かい季節なので、雪を降らしはしないのだろうが、その天候がこの戦争にどんな影響をもたらすのか、ルックは少し不安に思った。
ルックはそれから、ルーンのことを考えた。ルーンは戦争の恐ろしさをまだよく理解してはいない。ライトと違い、命のやりとりをする場面には何度も遭遇したことのあるルーンだが、彼女のそばには常に大人の誰かが付いていた。ルックのチームの大人が付いていれば、人数で大きく引けを取りでもしない限り、そうそう危険に晒されることはない。それはルックにしても言えることなのだが、フォルの資格も得ていない彼女は、より戦いというものにしっかりとした理解を持ってはいなかった。
そしてルーンは体術で通常のアレーよりも数段劣る。それに付け加え、魔法ではルックの知る限り、呪詛の魔法師一と言っても過言ではない。既知の魔法はほぼ全て網羅し、オリジナルの魔法も多くある。敵にそれを知られてしまえば、真っ先に命を狙われないとも限らない。
次にルックは夢に出てきたあの少女のことを思い出した。彼女は間違いなく現実に存在する人ではないが、よくよく思い返してみると、もっと幼かったときにも彼女の夢を見ていた気がする。定かではない記憶だったが、今になって思い返すとそれが間違いないようにも思えた。
そこでルックは、自分が集中力を恐ろしく欠いていることに気付いた。考えが一つの所にとどまらず、四方八方に飛び火している。
意外にも彼は戦争が起こっている国の状況に興奮しているようだった。ルックはそれに気付き、自分の不謹慎さに軽い絶望を覚えた。自分にこんなそぞろな気があるとは今まで知らなかった。
やがてルーンが剣にマナを溜め終える。
ルックはルーンから剣を受け取ると、光籠の魔法を放った。剣の刃が明るく光り出し、二人の周りを照らし出した。




