③
「どうしたの?」
ルックが見つめる先を軽く見やったあと、ルーンが不思議そうに問いかけてくる。これは見て見ぬふりをしているわけではない。確実に見えていないのだ。
「ルーン、木の下に何か見えない?」
ルックは少し言葉を選んでそう問いかけた。
「木の下? 二股の木のこと?」
ルーンはなおも不思議そうに首をかしげる。森人の森にあるジジドの木がそうだったように、二股の木の周りにも木は一本も生えていない。この場で木と言ったら二股の木しかない。しかしルーンは、まるでなんのことか分かっていないようだ。
ルックはこの事態を訝しみながらも、軍の流れには逆らおうとせず歩き去ろうとする。しかしルックはそこで前に立っていたアラレルが、やはり二股の木の方を眺めていることに気が付いた。
「アラレル。アラレルには見えるの?」
ルックは少し前にいたアラレルに呼び掛ける。ルックの言葉にアラレルは目線をルックに向ける。その目は意外そうに見開かれていた。
「驚いた。ルックにも彼が見えるの? そうか、そういえばルックは僕とルーメスの戦闘もちゃんと見切ってたんだよね。相当目が良くなったんだね」
アラレルの言葉にルックは多少苦笑した。アラレルはもちろんルックの教わった視力強化のことを知らないのだ。
「ルーザー、先に皆を連れて支部まで行っていてくれないかい?」
「あぁ、分かった」
ルーザーと呼ばれたのは先程のルックの知らないアレーだ。もっともこの軍にルックの知った顔などアラレルとルーンぐらいだが。
彼、ルーザーはビースがアラレルに付けたと言っていた副官だ。少し訝しげに頷いたが、それ以上はなにも聞かず、素直に軍を従えてフォルキスギルドの支部へ向かった。
「私はいていいの?」
ルーンはよく状況が分かってはいないのか、アラレルに向かってそう聞いた。
「うん、別に隠し事でもないしね。ルーンは見えないだろうけど別にいてくれて構わないよ」
「ふーん?」
ルーンはなおも不思議そうに首をかしげる。アラレルはそんなルーンに曖昧に笑むと、二股の木の方へと歩み寄る。白髪の老人はどこを見ているかも分からないほど、くたびれ果てた細い目でアラレルを見上げる。
「アラレルか。久しぶりじゃの」
落ち着いた、理知的なしゃがれた声だ。真っ白な髪は肩まで無造作に伸ばされていて、顔にはやはり真っ白な髭が余すところなく生えていた。
「久しぶりだね、テツ」
アラレルは気さくに声を掛ける。その声やしぐさから、ルックはその老人に対しての警戒を解く。
「随分と物々しいようじゃが、また戦争があるのかね?」
「ああ、知らなかったんだね」
アラレルは今度の戦争のことをかなり噛み砕いてテツと呼んだ老人に話す。
「そうかい。カンも懲りないねぇ。所でそちらの坊やは儂のことが見えているようじゃな。その子が例のアルの子孫かい?」
テツは戦争のことにはあまり興味を示さず、ルックの方を見てそう聞いてきた。
「ああ、いや、彼はライトじゃないよ。シュールは覚えてる? 彼の教え子みたいなものかな」
「こんにちは、テツ。僕はルック。こっちはルーン。シュールのことは知ってるの? 僕らはシュールのチームのフォルなんだ」
「ほう。森人とやつらの血筋以外のもので儂を見るとは。しかもお主はシュールと違って随分とはっきり儂が見えておるようじゃのぉ」
ルックの好奇心は彼のその言葉で最大限に広がった。やはり彼は他の人には見えていないのだ。ルックは今視力強化に早く慣れるため、常にそれをしている。見ることにかけてはシュール以上ということだ。
「テツは、こんな言い方をして失礼かもしれないけど、何者なの? どうしてアラレルと僕以外には見えていないの?」
「ほっほっほ。なに、なんということはない。お主の知らぬ魔法じゃよ」
テツは非常にゆっくりと笑いそう言った。しかしルックはその発言には半信半疑だった。普通マナ使いでなければ魔法は使えない。この常識を打ち破ったとされるものは未だかつて聞いたことがない。マナ使いは全てその髪を茶色ではない何色かに染める。それはマナに染まるため、いくら歳を重ねようとも白髪になることはない。歳と共に髪が白くなるのはマナを使えないものだけなのだ。
テツは見事なまでの白髪だ。とてもマナが扱えるようには見えない。だとすれば魔法というのが、マナを使ったものではないのかもしれないが、そんなものが存在するとも思えなかった。
「姿が見えなくなるってことは水鏡の魔法とか? だけどそれなら僕にも見えないはずだよね。そんな説明じゃますます分からないよ。それにテツの髪じゃ魔法が使えないんじゃないの?」
「ほっほっほ。そうじゃのぉ」
ルックの言葉に老人は楽しげに笑うが、それ以上はなにも語ろうとはしない。
「テツはね」
それを見かねたアラレルがテツの代わりに補足を入れる。
「元々髪が白いんだ。白は僕もよく知らないけど、誰も知らないマナを宿しているんだって。ルックが知らない魔法っていうのはそういうことかな」
アレーの髪は全部で十二色。灰、黄、青、黄緑、紫、ピンク、黒、緑。これが一般的に知られている魔法を使える色で、赤、藍、金。これが魔法を使えないがマナを操れる髪色だ。しかしこれの他にも白い髪の者というのが実は存在する。
例えば夢の旅人・ザラックなどは白い髪だった。もっとも彼はその事を生涯帽子の下に隠し、人には知らせなかったが、彼の数十年を見てきた私はそれを知っている。彼は自分に魔法が使えるということを知らなかったが、白い髪ながらアレーだったことは間違いがない。数百年に一人ほど、白い髪の者はこの世に生を受けるのだ。
「そっか。マナのことなんてまだ分かんないことの方が多いんだもんね。テツはじゃあアレーなんだ」
ルックはアラレルの説明にようやく得心がいった。しかしテツの姿すら見えていないルーンは、まだなんのことかよく分かっていなかったようだ。しきりに首をかしげていたけれど、話の腰を折るのも悪いと感じていたのだろう。一応は黙って聞いていた。
「ねえテツ。今度の戦争で僕たちと一緒に来てもらうことはできないかな。テツがいればとても心強いよ」
アラレルは意外にもテツを勧誘しようとしてこの場に残ったようだ。確かにアレーにはそこまで年齢は関係ないが、さすがにテツほどの歳になると、目が急激な動きに耐えられなくなる。どんなに速く動けても動体視力や反射神経といったものが歳と共に衰えていくため、戦闘には向かなくなるのだ。
もちろん老兵とはいえ十人力を発揮する者も多いが、テツはそういった者より数回りは齢を重ねているように見える。それは激しい戦闘には向かないということだ。
もっともルックには、白い髪の魔法というのがどういったものなのかは分からなかったので、なんとも言えない。しかしさすがにこれほどの老人には戦争は無体な気がした。
「ほっほっほ。儂はのぉ、ここで人を待っておるのじゃよ。運命の人をの」
「そうか。ふふ、テツは僕が十三のときからそう言ってるよね。もう何年待ってるの?」
「さて、何年かの。いつか誰かに同じことを聞かれたのじゃが、あのときで確か五十年ほど待っておった。あれを尋ねてきたのはアルだったかのぉ。アルがのうなってからどれくらいが経ったのじゃ?」
ルックは一瞬テツが何を言っているのかが分からなかった。アルが、もしそれが開国の三勇士のアルだとしたら、彼女が亡くなってからもう二百年は過ぎているはずだ。アラレルは少し肩をすくめた。
「二百年くらいかな。つまりテツは二百五十年は待ち続けているんだね」
「そうか、もうそんなになるのかのぉ」
テツはふざけるでもなく悲しげな目でそう言った。人の寿命などというものはせいぜい良くて百年だ。二百五十年も待ち続けているなんて考えられない。けれどテツの細い目は、決してそれが偽りとは思えない光が宿っていた。
アラレルはテツを誘うのをすんなりとあきらめた。駄目で元々のつもりだったのだろう。
「じゃあテツ。せめて僕たちの無事を祈ってて」
「ああそうじゃ、きっと無事で戻れる。お主の進む道に敗北はない」
なにか確信めいた語調でテツは言う。ルックには、そして恐らくアラレルにも、それが気休めなのか予言なのかは分からなかったが、それでも彼らはその言葉には勇気を貰った。
彼らは丁寧にテツへ別れを告げると、ギルドの支部へ歩き出した。
「なんか不思議だったぁ。私には全然見えないのに声だけは聞こえてくるのね。どんな人だったの?」
「白髪のお爺さんだったよ。変わった杖を持ってたな。あと顔中髭でモジャモジャだった」
「へぇ、幽霊とかじゃないんだよね。何百年も生きてるっていうのは本当だったの?」
「ははは、どうだろうね。少なくとも僕が初めて会ったときから少しも変わらないように見えるけど。僕たちがもう百年生きればどうなのか分かるんじゃないかな」
ルーンの質問にアラレルは茶化すように答える。アラレルはあまりテツの言葉を信じてはいないのかもしれない。
「アラレルはいつテツと出会ったの?」
ルックはもう別段興味もなかったが、話の種にアラレルに尋ねた。ルックは分からないことについてそこまでこだわる質ではないのだ。
「驚くよ。いまだに僕も信じられないんだ。十年前の戦争のとき、シェンダーを取り戻しに行く前にそこのギルドの支部に僕とシュールで援軍を要請しに走って行ってたんだ。そこで敵の軍の百人に囲まれてしまってね。あれはもう終わったと思ったよ。二対百だからね」
ルックとルーンはアラレルの言葉に驚いた。そんな話は今までシュールから聞いたことがない。
「後は軍を任せてきたシャルグの負担を少しでも少なくできるように、一人でも多く敵軍を減らそうと思った。僕とシュールは意を決して挑もうと思ったんだ。そこでテツが現れてね。一発の魔法でその百人のほとんどを吹き飛ばしたんだ」
ルックもルーンもその話にはさらに目を剥いた。
「まさかそんな。ルーンが呪詛の魔法を溜めきっててもそんなの無理だよね」
「そうだよ。光矢だって水魔だって無理。十人がかりの呪詛の爆空だってそう上手くいかないよ。あ、もしかして冗談のつもり? アラレルは冗談つまらないんだからやめてよね」
「え、それはひどいな」
頭ごなしに否定をしたルーンに、アラレルは少し傷ついたような顔をする。ルックは思わず吹き出してしまい、アラレルはさらに傷ついた顔になる。
「あはは、ルーン、ちょっとさすがにひどいよ。アラレルはもともとそんな冗談を言う方じゃないんだから、推測で言ってるでしょ。けど姿を見えなくする魔法だってとんでもない魔法なんだし、多少大袈裟だったとしても本当のことなんでしょ?」
ルックは少しアラレルへ気をつかいながら話を戻す。しかしそこで三人はギルドの支部にたどり着き、会話を止めた。




