⑦
ルックの夢に、再び彼女は現れた。ライトとルーンとも楽しげに話をしている。けれど、彼らの会話は曖昧で、どこかが決定的に噛み合っていなかった。ただその軽やかな声と、風にたなびく黒い髪から優しく流れる甘い香りが、ルックの心を惹き付けた。
「ありがとう」
ルックは言った。この間、夢で彼女が忠告をしていなかったのなら、ルックはもうここにはいられなかったかもしれない。自分が見ている夢だというのに、ルックは律儀に礼を言わなくてはと思った。
「……」
ルックの礼に誰でもない少女は優しく笑んで何かを言った。
何かを言った。
「……」
まるで、存在しない騒音に掻き乱されたかのように、彼女の声はルックの耳に届かない。
朝が来た。外には雨が降っていて、そのために雨の気配以外には何も感じられない朝だ。ルックはベットの中で体を起こす。隣でルーンとライトはまだ眠っていた。ルックは二人を起こさないよう静かに部屋を抜け出した。
居間には誰もいなかった。しかし台所から何やら音がしているので、たぶんドーモンが起きているのだろう。ルックは他にやることもなかったので、ドーモンと話すため台所へ向かった。ドーモンは皆の朝食の準備をしていた。体に似合わず繊細な盛り付けをしているところだった。
「おはよう、ドーモン」
ドーモンは垂れた黒目がちな目が印象的な大男だ。ルックが彼を初めて見た六歳のときは、こんなに大きな男が存在することに驚いた。同時に彼に対して恐怖心を持った。
十三になった今でも、彼の胸の位置まで背が届かない。そして横幅も尋常ではなく大きい。六歳の子供から見れば怪物のようなものだったのだ。
最初のうちはドーモンがルックの子守りをするとなると、ルックはひどく不安に思った。しかしドーモンは子供が好きだ。どんなに敵対心を持たれようとも、ライトがどんなに泣いていても、いつも笑顔で根気強く接してくれた。そのためルックはすぐにドーモンになついた。
今でもドーモンが大きいことは変わらない。ルックはドーモンの前だといまだに少し甘えてしまう。繊細な盛り付けの邪魔になるかもしれないとも思ったのに、ついつい話しかけてしまった。
「おはよう。早いな」
ドーモンの藍色の髪は魔法を持たない色だ。中には例外者と呼ばれる、火や水などの魔法を使う者もいるのだが、ドーモンはそうではない。巨大な体躯にふさわしいパワー重視の戦士だった。けれど、普段の彼はそんな体躯とは裏腹に柔和な人だった。このときもルックが声をかけても、少しも疎ましがりはしなかった。
「みたいだね。昨日は寝るのも遅かったんだけど、なんでか目が覚めちゃった」
「そうか。飯、まだだ。なにか話ししよう」
ドーモンは気をつかってか、そう提案してくれた。
「ありがとう。邪魔じゃない?」
「おう、俺、ルック、邪魔じゃない」
ルックはドーモンの言葉に笑みを見せる。ドーモンは恐らく四十前後の歳だろう。けれど彼の年齢をルックは知らない。ドーモン自身自分の年齢を覚えていないのだ。どこで生まれ育ったのかも同じ理由で分からない。彼はドゥールと一緒に旅をしていて、十年前の戦争の後ドゥールの故郷であるこのアーティスに落ち着いた。
ドゥールも彼と出会ったのは成人に近い歳だというから、それ以前のことはドゥールすらも知らない。ドーモンは言葉が不自由なため、その名前すら最初はドーンだと思ったとドゥールは言っていた。彼はシャルグのことをシャーグと言うように、自分の名前もうまく言えないのだ。
「ドーモンは多分この国の人じゃないんだよね。それなのに戦争に参加するの?」
ルックには迷いがあった。戦争になれば平和がなくなる。しかし戦争は来る。その中で、彼は自分の覚悟がなかなか決まらないことを意識していた。
「俺、この国好き。だから戦う」
単純明快な答えだ。しかし、こんなしゃべり方をするため誤解されがちだが、ドーモンは決して愚かではない。その戦うという意味も分かっているはずだ。ただ彼は、一度決めたことを迷わない。ルックはドーモンが途中で匙を投げたのを見たことがない。悪く言えば頑固で、よく言えば初志貫徹をする人なのだ。
「そのために、ドーモンもたくさんの人を殺すことになるんだよ。それでもいいの?」
ドーモンがあまりにあっさりと言うので、ルックはそんな疑問を投げ掛けてみた。ドーモンが分かっていないはずはない。ただ、ルック自身の持つ迷いを、ドーモンがどう思っているのか、聞いてみたかったのだ。ドーモンは盛り付けをしていたサラダから目を離し、ルックの方を見た。
「良くない。戦争は、怖い。けど、俺、みんな死ぬ、と、もっとやだ」
その天秤だ。アーティスはカンのように権力で自由を縛られたりはしない。徴兵がかかったとしても、必ずしもそれに応じる必要はない。人を殺すのが、また戦争で命を落とすのが怖いなら、逃げてもいいのだ。しかしそうすることによって、大切な誰かを見殺しにすることになるかもしれない。それも怖い。
どちらの恐怖を選ぶか、どちらがより恐ろしいのか。戦争はただ恐怖の選択でしかない。
「そっか」
選べる分だけ、アーティスはまだカンより幸福だ。しかし自由であるがため、決して誰のせいにもできない。
ルックは皆が皆背負う責任の存在を感じた。
「ドーモンはもう迷わないんだね」
ドーモンは寂しげな表情で笑んだ。彼は言葉が不自由なので自分の気持ちをうまく伝えられない。けれどその表情で、ルックはドーモンもたくさん迷ったのだと悟った。
このときのルックは、どんなに大人びていてもまだ十三の少年だった。頭がいいため、戦争ということについて分かってはいた。覚悟を決めなければいけないとも思っていた。しかし、実際に彼は戦争というものを知らなかった。たくさんの人が死ぬことは分かっていたが、どうしてもそれに自分が関わっていくということが実感できないでいる。
……この朝のルックとドーモンの会話は、ゆっくりとだがルックの心に覚悟というものを芽生えさせた。
それはこの戦争の間だけではなく、これからのルックの人生の中で、とても大きな財産になる。
このときの何気ない会話がなければ、ルックが後の世に名を残すことはなかったのかもしれない。




