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アーティーズトンネルを抜けた先の別れ道を右に行くと、テスクルスという大きな宿がある。大きいと言ってもティスクルスに比べればずいぶん小さな宿だ。小さいという意味のティスに対して、大きいという意味のテスを用いているのは、単なる宿の主人の遊び心らしい。国営のティスクルスに対し、このテスクルスは民営だった。ティナには国というものが存在しないので当然だ。
二人はそこへ食事をとるため立ち寄った。トンネルを歩き通した疲れは食べただけでは癒えないが、トップの屋敷は麓を降りてすぐなのだ。わざわざ眠りをとっていく必要もない。
「おかしいわね、トンネルを抜けたところが疲れも出てて一番狙いやすいのに、刺客が来そうな気配がないわ」
木々の合間に作られた、洒落た宿のオープンテラスが食堂となっていて、彼らは丸一日ぶりの暖かい食事を平らげた。二人は優しく注ぐ木漏れ日の中、食休みをしている。
「そうかな? 食事のあとで気が緩んだときの方が狙いやすいと思ってるのかもしれないよ?」
「それもそうね。じゃあ油断しないで行こうかしら」
二人はそんな会話をした後に席を立ち、会計をして歩き出す。テスクルスは麓へ続く道から少し離れた所にあった。林間の道を元の道へと向けて二人は歩く。道の脇には手入れのあまり必要としないリュース花の花壇が並んでいる。色とりどりの細かい石のタイルで舗装をされたこの道は、宿の主人の自慢だった。
すれ違う人は見えなかったが、彼らの後ろではちょうど宿をたったところなのか、数人のアレーチームが談笑しながら歩いていた。
「ねえリリアン、もしかして付けられてる?」
ルックがそれを警戒したのは、後ろの集団が怪しく思えたからではなく、単なる用心からだった。
「さあ、どうかしら。普通に偶然同じときにテスクルスを出ただけに思えるけど。……試してみる?」
リリアンはルックに確認をする。付けられていると警戒しながら歩くのは神経を使う。それならいっそしっかり確認した方がいい。そう思いルックは軽く頷いた。
「でもどうするの? まさか直接聞くわけにもいかないよね?」
「林の中に入ってみて相手がついてくるか確かめるっていうのはどう? 私は木々の間の方が戦いやすいわ」
ルックは彼女の言葉に頷いた。特に否定をする理由もなかった。
「それじゃあ行きましょう」
言って彼女は花壇を乗り越え林の中へと入っていった。
森人の森よりは幾分木と木の間隔が広く、明るい林だ。下生えも少なく、歩きやすいところだった。
「あら、どうも当たりみたいね」
林の奥へしばらく歩みを進めた後で、リリアンは余裕の見える口調で言った。彼らの後を追うように、アレーチームが付いてくるのだ。向こうとしても標的が人目に付かない場所へと進んで行ったのを好機と見たのだ。
「八人いたよね。逃げた方がいいかもね」
「ええ。けどまた金貨の話を打ち明けて引いてもらうっていう手もあるわ」
さしものリリアンであっても、その人数は厄介だ。青の書で召喚できる五十人のためには驚くほどの大人数だ。つまりそれは、戦争とは無関係な旅のアレーの可能性が高いということだった。そうなら彼らもカンに騙されているだろう。けれどここでルックはあることに気が付いた。
「ねえ、リリアンのチームってみんなヨーテスの人?」
「まさか。ヨーテス人で旅をしようなんて考える人は滅多にいないわ。故郷はみんなバラバラよ。どうして?」
ルックはリリアンの答えを聞いてほとんど確信を持った。後ろを付けているものは旅のアレーではない。彼らは全員リリアンのように足音を立てていないのだ。下生えのわずかに揺れる音すらしない。元暗殺者のシャルグ以上に木々の中で気配がなかった。それは森で生まれ育ったからだとしか考えられない。彼らは恐らくヨーテス人だ。ヨーテス国はカンと同盟を組んだ可能性があり、敵国だと思われる。この間のメラクでの一件からもまず間違いないだろう。この時分ルックたちの後を付ける森の民など、彼ら以外に考えられない。
「もう一つ聞くけど、ヨーテス人がここに八人いたとして、それから逃げ切れる可能性はどのくらいある?」
「まさか! 後ろのが全員ヨーテス人なの?」
声を潜めてルックは問い、リリアンも驚愕しつつも声は低めた。
「まず無理よ。ヨーテス人は狩人でもあるの。アレーともなれば素早い獣でも逃がさないわ。失敗したわ。林での戦闘は有利だと思ったのに、敵がヨーテス人なら逆にまずかったわ。しかもヨーテス人の団体なら旅のアレーじゃないわね。八対二だと、さすがにきついかもしれないわ」
ルックは背中から鞘を下ろし、剣を抜く。そして空になった鞘を再び背負う。
「どうするつもり?」
それを見てリリアンは問う。戦闘になるなら大きな鞘は邪魔なだけだ。
「この剣の良いところは走りながらでもマナを溜めていけることなんだ。マナを溜めながら時間稼ぎのために逃げるふりをするつもり」
「そう、分かったわ。それならトンネルで話した、マナを集める範囲を意識してみて。すぐにはできないでしょうけど、やらないよりはましだと思うわ」
話はそこまでだった。二人は同時に地を蹴って走り出す。後ろのアレーたちもそれを見て地を蹴った。ルックは後ろを見はしなかったが、彼らのごくごく薄い気配が次第に近くなるのを感じた。
ルックの剣にマナが溜まる。しかしまだ宝石一つだ。このペースで追いすがられたら、三つが限界だ。リリアンのアドバイスも体感できるほどには効果がなかった。ルックは走る。リリアンも隣で剣を抜いていた。二つ目にマナが溜まった。そして三つ目。そろそろ限界だ。リリアンと目が合う。軽く目線で合図する。二人は後ろを振り替える。
「隆地よっ!」
それと同時にルックは剣を突き立てた。そして大音声で魔法を放つ。その攻撃をはったりだと思った者と、一応は用心をした者とで明暗は分かれた。彼らのうち二人の男と、それに挟まれていた一人の女が逃げ遅れ、突如現れた地の壁にぶつかった。宝石のマナを使い果たす隆地だ。木々をなぎ倒し、彼らの間に大きな壁を作った。
敵の姿は見えなくなったが、彼らが足を止めたのは間違いがない。その間を利用して、リリアンもマナを溜め始める。壁の向こうから最初に飛び出してきた男は不幸だった。男を視界に捉えた瞬間、リリアンの無情な水魔が繰り出される。ジジドの木を削り取るほどの水魔だ。男は悲鳴を上げる間もなく吹き飛んだ。
マナで生まれた現象はしばらくすると形を失う。ルックの放った隆地が消える。隆地の壁の向こうでは半分になったアレーたちが立っていた。隆地にぶつかった三人は気を失っているのか、それともすでにこと切れたのか、地面に伏して動かない。
四人になった敵は赤と灰色と紫色と黄緑色の髪をしていた。赤は魔法を使えない。灰色は火の魔法だ。攻撃力はあるが木々の中では使い勝手が悪い。紫色は鉄の魔法だ。補助魔法が多く、攻撃力は乏しい。問題なのは黄緑色の木の魔法だ。林の中で有利なのもあるが、何より警戒するべきは毒霧の魔法だ。放射状に神経毒を発射する、水魔と並ぶ最も殺傷能力のある魔法の一つだ。
「水砲」
リリアンは得意の早打ちで黄緑色の髪の女に水砲を放つ。しかしそれを赤髪の男が立ちはだかって身に纏ったマントを翻し、消してしまった。触れたマナを自然に返す呪詛の魔法が掛けられた魔法具だ。
リリアンは軽く舌打ちをし、黄緑色の髪に迫った。
灰色の髪の男はルックのもとに駆けてきた。
ルックは苦手な剣で男の剣を受け止める。幸い男も剣の苦手な魔法師だった。細身の剣で何度かルックに打ち付けてきたが、ルックの剣でもなんとか防げるレベルだった。何よりルックはその剣戟の最中でも剣にマナを溜められるのだ。もちろん、動きに集中しなければならなくなるほどそれは困難になる。それでもルックの方が圧倒的に有利だ。むしろ毒霧の恐れがあるから、こうして近くに敵がいることはありがたかった。
リリアンは紫色の髪の男と赤髪の男二人を相手にしていた。案の定黄緑色の髪の女はひたすらマナをかき集めている。何度かリリアンが隙をつき、水砲を打ちマナが溜まりきるのを防いでいたが、それを警戒しながら二人のアレーを相手にするのは難しかった。何より紫色の髪の男は強敵だった。リリアンの攻撃をことごとく鉄皮で防ぎ、またそれで固めた鉄の拳でリリアンに目まぐるしい攻撃を浴びせていた。
そしてその男の攻撃の合間あいまに、赤髪の男の剣が繰り出されてくる。なかなか連携の取れた動きだ。
さしものリリアンも打開策を見つけられずにいた。しかし業を煮やしたリリアンは、膠着しそうなこの状況に驚くべき方法で終止符を打った。
一体どこに目があるのか、リリアンはちらりとも見なかったルックと対峙する男に、自分の剣を投げつけたのだ。その剣は木々の間を通り抜け、一直線に飛んでいく。突如として飛来してきたその剣に、灰色の髪の男は背中から胸を貫かれ息絶えた。
「水剣」
リリアンは投げた剣の代わりに、水の剣を作り出す。紫色の髪の男の拳をかわし、赤髪の男の剣をそれで受ける。そして何事もなかったかのように戦闘を続けた。
ルックは即座にリリアンの行動の意図を理解し、剣に溜めたマナを一つ使って石投を放つ。黄緑色の髪の女に向けてだ。女はもちろんそれを避けるが、そうする度に溜めていたマナを手放さなければならないのだ。
そして、自分の行動の意図をルックが理解してくれたのを見留めると、リリアンは前の二人に集中し出した。
男二人は突然のリリアンの行動に面食らったが、それでも攻撃をする手を緩めなかった。しかし、ひと度集中し出した彼女の前では、それはもう獅子とネズミの戦いのようなものだった。赤髪が繰り出す剣をリリアンはすさまじい力で押し返す。
「くっ」
赤髪はあまりの力に三歩ほど後ずさる。リリアンはその剣をそのまま返し、涼しい顔で鉄の男に切りつけた。男はもちろん今まで通り鉄皮の魔法で防ごうとしたが、今度のリリアンの剣は男の魔法で止まらなかった。
透明で高密度な水の刃が男の腕に深々と刺さった。
赤髪の男が助けを入れようと体勢を立て直し攻めてきたが、リリアンの前では致命的に遅い。今や男を見もせずに、リリアンはその剣を軽く受け流し、前のめりになる男の腹に膝を入れた。
紫色の髪の男はその間マナを集めていた。しかしあまりにも早く勝負がついたため、結局何もできなかった。鉄皮を使う間もないほどあっという間にリリアンの拳に襲われ気を失った。
ルックの石投を避け続ける女も、この事態に歯噛みしていた。業を煮やした彼女は中途半端に溜めたマナでルックに向かって縛蔦の魔法を放つ。太い蔦が、ルックを締め付けようと伸びてくる。
ルックは冷静にその蔦を避ける。横目でリリアンが男二人を倒したことを確認し、勝利を確信する。
そこでふと、ルックは実験してみようと思い至った。黄緑色の髪の女は執拗にマナを溜めようとしていた。体術がからきしなのだろう。それならもうリリアンがいるこちら側に負ける心配はない。ルックは自分の手を中心とした球を思い浮かべた。そこに大地のマナをかき集める。
思った通りだった。先ほど剣にマナを溜めていたときには効果がなかったのに、今自分から直接放った石投は、小石程度の大きさではなく、牛の頭ほどの大きな塊となって飛んでいった。剣の宝石にマナを溜めるというのは、すでに範囲を意識している。だからリリアンの予想に反し先ほどは何も効果が得られなかったのだ。
大きな石の固まりは女に向かって飛んでいく。しかしもちろん大きくなっても石投は石投だ。アレー相手に面と向かって打って、そうそう当たるものではない。敵の女はあまりの大きさに驚きはしたが、難なくそれをかわす。しかしそこまでだ。いつの間に後ろへ回ったのか、リリアンが女を当て落とす。
「結構余裕だったわね。最初の隆地のおかげで大分楽だったわ」
何事もなかったかのようにリリアンは言う。彼女は落ちた女を優しく地面に横たえて、自分の剣で串刺しにした灰色の髪の男の方へ歩み寄る。
「ごめんなさい」
静かに彼女はそう言って、男の背から剣を抜く。魔法で水を生み、その剣に着いた血を丁寧に流す。
ルックは隆地の魔法で倒れた三人に近付いて様子を窺う。三人の内、真ん中にいた女は痛みのために呻いていたが、男二人は動きがなかった。
ルックはしゃがみこみ、息を確認する。幸い彼らも息をしていた。この戦時ではきっと、ここで彼らにとどめを刺しておくべきだ。けれどルックはそれをしなかった。綺麗事など言えるほど、自分を穢れない人間だと思いはしないが、それでもそれをしてしまうことはルックにはできなかった。もし戦争が本格化したら、今のような状況でとどめを刺すことに迷いはない。だが今はまだそれを考えたくはなかった。
「行きましょう」
ルックの気持ちを察するようにリリアンは言い、ルックもそれに頷いた。




