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数時間眠り、小さな物音がしたことでルックは目覚めた。隣を見るとリリアンの大きい緑の瞳と目があった。リリアンは自分の耳たぶを軽く摘まみ、ルックに静かにするよう指示をした。
リリアンにならいルックも辺りの音に気を配る。敵が近くにいるかもしれない。先程の物音は、剣が鞘走る音に良く似ていたのだ。
リリアンは気配を消すのは苦手なようで、ルックがひやひやするほどに普通の音で息をしている。
ベッドに寄りかかった彼女には左手にドアがあることになる。リリアンはほとんど微動だにせずそちらの方をじっと見ていた。
そこでルックはふと、リリアンの息遣いに違和感を覚えた。身じろぎもほとんどなく、近くにいたルックですらも気付かないうちに、彼女は剣の柄に手を置いている。そんな彼女がこれほど息を殺す術を知らないはずはなかった。
(そっか、誘ってるんだ)
あえて彼らが寝入っていると思わせて、油断を招く作戦だ。そもそもカンはかなりの使い手ばかりを差し向けている。その中で剣を抜く音を響かせる未熟者が現れるとは考えづらい。先程の剣を抜く音も、彼らの様子を見るためにわざと鳴らしたものかもしれない。リリアンもそう考えて、その行動を利用しようと考えたのだろう。
敵は奇襲をしようとしている。ルックが起きてしまったことを悟らせまいと、彼の代わりに息をして敵の行動を誘ったのだ。剣を抜く音を響かせて彼らの様子をうかがうほどに敵は用心深い。しかしそうしてうまく誘えたのなら、敵が仕掛けてきたときに、逆に奇襲を張れるのだ。
そこまでルックが考えていると、ドアが引かれて、向こうから男が飛び出してきた。彼らが跳ね起きる間もなく刺し殺そうとしたのだろう。しかし男の思惑は外れる。
リリアンが剣を抜く。飛び寄る男に体当たりを食らわせ、男の体を弾き飛ばす。油断をしていた男には防ぐ術はない。そこでリリアンは男に追いすがろうと床を蹴る。リリアンは倒れた男へ剣を突き刺す。男は死を覚悟したはずだ。だがリリアンの剣は男の頭からわずかに逸れ、すぐ横の床へと突き立てられた。
あっと言う間の出来事だった。
男はリリアンが命を絶たなかったことを疑問に思ったためか、抵抗をやめる。どの道この体勢からではリリアンの方が圧倒的に有利だ。男に抵抗がないことを確認すると、リリアンは口を開いた。
「あなたもカンにアルテス金貨で雇われた口でしょ? いいことを教えて上げるわ。あの金貨は偽物よ」
「本当ですか?」
男は目を見張り、意外にも丁寧な口調で聞き返す。リリアンは黙って頷き、男の頭の隣から剣を離した。大胆にも剣を鞘へと納めてしまい、リリアンは皮肉な笑みを浮かべた。
男はそれを見るや立ち上がり、踵を返す。男はあっという間に姿を消した。彼女の言葉を確認するため引いたのだろう。彼女の言葉が本当ならば、戦う理由はないためだ。
「大したことなかったわね」
リリアンは落ち着いた声でそう言った。しかし、実際は男も大した技量の持ち主だった。リリアンは見てすぐわかることだが、体重は軽い。対して男は一般的な体型で、リリアンよりは二回りほど大きかった。そんな男をそんなリリアンが弾き飛ばしたということは、それほど速い速度での体当たりだったのだ。もしリリアンではなくルックだったら、きっとこうまで早く男を引かせられはしなかった。そもそも予期できていたとはいえ、ルックにはあの男の動きについていける自信はなかった。
「リリアンに大したことある相手なんているの?」
ルックは改めて、自分が腕利きのアレーたちとおそろしい差があることを認識した。その手練れをこともなげにあしらうリリアンに軽い尊敬の念を覚えつつ、だけど歳が近いせいもあって、少しおどけたように言う。
「いるわよ? そうね、二人は知ってる。アラレルなんかには一瞬で負けてしまったわ」
予想をしていなかったリリアンの言葉に、ルックは目を見張る。
「リリアンってアラレルとやりあったことあるの?」
ルックの言葉にリリアンは目を閉じて眉を上げる。
「あまり思い出したくない惨敗だったわ。去年のティナ・ファースフォルギルドのトーナメントで試合をしたの」
リリアンは苦笑しながらそう言った。
「リリアンあれに出てたの?」
彼女の言葉にルックは再び目をむいた。
ティナ・ファースフォルギルドとは、アーティスでいうフォルキスギルドのことだ。そこで四年に一度、大陸各地のアレーが集い、トーナメント方式で武芸大会を行っている。
少し余談になるが、キーン帝国の魔法武具の精製技術は、デラという魔法師の手によって闇に葬られている。深淵の魔法師と呼ばれることになるデラ。彼女は口伝によって伝えられていたその技術を受け継ぐものを皆殺しにした。それはトーナメントで使われている風の衣が完成してからすぐだった。そのため、風の衣はこの世にたった五つしかない。
もしもそれが大量に生産されていたなら、その後の歴史は大きく塗り替えられていただろう。マナを使った体術を使えるアレーでも、風の衣を装備したものには傷一つ付けられないのだ。
どうしてティナのギルドが風の衣を所持しているかは不明だが、五つのうちの四つもが彼らのもとに存在している。
話しを戻すと、ティナ・ファースフォルギルドのトーナメントでは、一対一で試合を行う。試合は審判をするギルド員か、その試合の敗者となる人間が決定打だと認めると勝負が着く。
千人近くのアレーが集う大会だ。
それで目覚ましい結果を残せば、アラレルやシャルグやシュールの様に名が売れて、飛び込んでくる依頼の量も増えるのだ。そのためルックたちのように依頼を受けて生活をする者にとって、その大会に出場することはとても重要なことだった。
そして世間でもその大会は非常に注目を集める。もしリリアンほどのアレーがその大会に参加していたなら、まず間違いなくルックの耳にもその名は届いていたはずだ。しかしルックは彼女のことを知らなかった。だから彼女がその大会に出場していたことが意外だったのだ。
「トーナメントなんてひどいものよ。私は二回戦でアラレルと戦って、一回戦を見られていたのでしょうね。アラレルも私の力を分かっていたのよ。信じられない速度で突進されて、何もできないままティナを去ったの」
もちろん、最強とまで謳われるアラレルだ。その大会で彼は優勝をした。ティナはアーティスに傾倒しており、アーティス人とティナの人には贔屓目もあると言われる大会だったが、それを差し引いても申し分なく、アラレルはその大会に参加したアレーの中で最も強かった。そのアラレルと二回戦で戦ったのなら、彼女の名が世界に轟いていないのも頷けた。トーナメントは決して公平ではないのだ。
「まあアラレルが優勝したからまだ面目も保てたけれど、あれで一気に名を上げて大金持ちになる予定だったのに。ふふ、今回の事といい、つくづくお金には縁がないわ」
彼女の言葉にルックは少し笑みをこぼした。彼女のような旅のアレーは依頼を受けることも少なく、お金には決して少なくはない執着があるはずだ。それなのに彼女はまるで他人事のようにそれを語った。彼女の感覚は普通とは少しずれているのだろう。
「リリアンの腕ならそう遠くないうち有名になれるでしょ?」
ルックは言った。それはルックの掛け値なしの本音だったが、世の中というのはそう甘くはない。リリアンがどれだけ依頼をこなそうと、例えシャルグに圧倒的な実力差を見せつけようと、強いと言われる人間は各地にたくさん存在するのだ。その一人一人と直接戦い打ち負かすわけにもいかない。ティナ・ファースフォルギルドのトーナメントの様なところで実績をあげるでもない限り、噂で強いと言われるものより、近くにいて実際強いと知られているものの方が頼りにされてしまうのだ。
それが身に染みて分かっているリリアンは、軽く肩をすくめた。
「さぁ、そろそろ行きましょ。刺客にこの部屋を見つけられたということは、宿に内通者がいないとも限らないし」
「え、まさか。まあ、用心するに越したことはないけど」
まだ外は明るみ始めたばかりだったが、二人は手早く身支度をしてティスクルスの宿を後にした。