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青の物語 ~その大陸で最も平凡な伝説~  作者: 広越 遼
第一章 ~伝説の始まり~
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 ルックの耳に、良く手入れされた滑車を擦るシュルシュルという音が聞こえ始めた。アーティーズトンネルが近いのだ。音に少し遅れて、乱立をする木々の向こうに整備をされた広い公道が見えてくる。

 ここまで来ると、いろんな理由で森の中を通らざるを得なかった人の気配が木々の奥から感じられた。広大な森の中では行きかうこともまれだが、みな目指すのはこの場所だ。いかなる人もティナへと向かうのならばここに集まる。

 ティナ開拓以来、ティナへと続く唯一の道アーティーズトンネル。カスカテイドダストの様な狂人でもない限り、ここを迂回し断崖絶壁を渡ろうという者はない。


 ティナからアーティスへ、またアーティスからティナへ、物資を輸送するためや、物見遊山に、または人には言えない様な事情で。多くの人が集まるここには、アーティスで一番大きな宿がある。

 国営のティスクルスという名の宿だ。

 最も大きな宿なのに、名に「小さい」を意味するティスという言葉が付くのは、その隣に佇む壮大な一つ山、アーティーズがあるためだ。アーティス国の名の由来でもあり、首都の名前もここから直接拝借している。アーティーズ山はアーティス人にとって、とても重要な意味を持つ山なのだ。


「軽く食事して先に行く? それとも一泊して明日行く?」


 リリアンは疲れた様子を一切見せずルックに問いかけた。


「急いだ方がいいのは確かだけど、今から丸一日歩き続けられる自信はないな」


 アーティーズトンネルは一切明かりがない。前後の人にぶつからないよう、規則正しく歩いていくため、よっぽど重い理由がないと立ち止まることは許されないのだ。トンネルは長く、ほとんど一日掛かりの道程だ。ほとんどの者はこの宿で一泊してから進む。正直ルックはリリアンの発言にやや面食らいながらそう言った。


「よかった。殿方の誇りに賭けてすぐ行くって言ったらどうしようかと思ったわ」


 リリアンはいたずらっぽく微笑んでいた。なんのことはない、からかわれたのだ。彼女の言葉にルックも笑んだ。


「こっちこそ冗談で良かったよ。気が触れた連れがいると何かと大変なんだ」


 ルックはルーンともこんなやり取りをよくすると思いながら、すぐさま彼女に切り返す。


「ふふ。お互いついてたわね」


 大人しくやり込められない年下の少年に対して、リリアンは余裕の笑みでそう言った。子供扱いされたと分かったが、ルックは別に気を悪くもせず同じく余裕を持って笑った。


 それから彼らはティスクルスに入り、食堂で軽食を食べ、宿泊の手続きをした。外はまだ暗くなってはいなかったが、リリアンは食事のあとに湯浴みを済まし、眠りについた。ルックはその間、見張りの役で眠らなかった。森と違ってここでは明かりがあったのだ。この宿場での人傷沙汰は御法度だったが、それでも用心するに越したことはない。交代で眠ることにしたのだ。


 そのため彼らは一つの部屋しか取ってなかった。寝泊まりだけが目的の、殺風景な小さな部屋だ。四角い間取りの部屋の中には、シングルベッドと壁に直接備え付けられたとても小さな机が一つ。その申し訳なさそうに壁から生える机の上には窓がある。窓と言っても、四角い穴に木戸をあつらえただけの愛想のない窓だ。本当にそれだけしかない部屋だった。そのため宿泊料は格別安い。ルックはベッドに寄りかかり、床に直接座っていた。


 三階建ての一階部分にある部屋で、窓の向こうで盛大に焚かれる篝火がルックの体を赤く照らしている。彼が凭れるベッドからはクリーム色のショートヘアーがたてる心地良さげな寝息が聞こえる。


 ルックは鞘から剣を抜き取って、刃こぼれなどがないかを調べる。地面に刺した程度で、特には何も切っていないが、それでもこれを怠ることはありえなかった。

 しばらく彼は丁寧にその剣を見て、研ぐ必要はないと判断し、剣を鞘へと納める。

 するべきことも特になくなり、ルックは今日一日の出来事を思い返した。意外なところで見つかったジジドの木のこと。そこで敵として現れたリリアンのこと。そのリリアンにシャルグが刺されてしまったこと。ライトとの別れを惜しんだこと。リリアンの話したまだ見ぬ世界のこと。……


 そこでルックは今朝見た夢を思い出した。ルックの最も大事な人たちの中にいた、長い黒髪に赤とピンクのリボンを巻いた少女。そのコントラストはとても綺麗で、まるで少女の髪が黒だけでなく赤とピンクも称えるようで、ルックはそれを愛しく思った。勝ち気でいて、とても深く優しい瞳はひたとルックを見つめる。その瞳はまるで夢の中ではないかのように、少女の心を細かく表現していた。ルックを見つめるその目には、彼女の眩しいくらいに澄んだ心が見て取れた。綺麗な赤い唇はしとやかな潤いがあり、そこからひらひらと零れ落つ声は、ルックの名前を愛惜しげに呼ぶ。その声は鈴もかくやというほどに美しく鳴った。


 彼女は一体誰なんだろうとルックは思った。歳はルックとそう変わらないように見えた。

 彼らのチームは七人組だ。最後にルーンが加わってから一度たりとも増えても減ってもいなかった。ルックは自分の他にも、フォルキスギルドで育った身寄りを持たない子供たちを知っていた。十数人の子供らがそこでは暮らしていたが、そこの中にも彼女はいない。鮮明に思い出せるのに、そもそもルックは彼女の名前が分からない。いやたぶん、彼女はもともと名などないのだ。そういうふうにルックは苦笑し考えた。


 本当を言うと、ルックには最初から彼女が一体何なのか分かっていた。彼が彼女に対する想いも、彼女の声も、ふとした仕草も、全てを子細に思い出せるのに、そう、彼女は彼の夢だったのだ。そんなことは夢の中にいるときから分かっていった。


 だから彼女は「誰でもない少女」だ。


 得心したような、それでもやはり解せないような、ルックはとても不思議な気分になりながら彼女を想った。


 そうこうするうち、外の篝火も弱まって次第に辺りは暗くなる。そろそろ一般客も眠りに入る様な時間だ。ここでは基本的に夜に完全に火を絶やすことはない。森人の森を切り拓いた公道にあるため、ティスクルスでは燃やすものには欠かないのだ。しかし眠るときにはやはり明るいままでは具合が悪い。それなので旅客が眠りにつきやすいよう、灯す火を減らし調節するのだ。完全な闇にしないのは防犯上の理由だった。

 しかしそれでも辺りは大分暗くなる。もしも今日敵がルックを狙うなら、この時間帯が一番適当だった。ルックは思案するのをやめて、辺りの気配に集中する。幼い頃から孤児院に教育を受け、その後もアーティス一のアレーチームで育った彼だ。その気になればこの状態で夜が明けるまで集中していられた。


 どれほどそうしていただろう。それはそれほど長い時間ではない気がした。


「替わるわ」


 いつの間に起きたのだろうか。気を詰めていたルックにも全く気取られないで、リリアンはベッドの上でルックを見ていた。


「もういいの?」

「ええ、何もなかった?」


 リリアンは小さな声でルックに問う。今さっきまで眠っていたとは思えないほど、落ち着き払った様子だ。


「うん、今日はもう何もないのかな?」

「私ならあまり期待はしないでおくけど」

「そっか。それもそうだね」


 ルックもそんな彼女に合わせ、囁き声で頷いた。

 リリアンは起き上がり、ベッドの脇の剣を手に取ってルックのとなりへ腰を下ろした。


「替わるわ」


 再び彼女は繰り返す。ルックも頷き、剣をベッドの脇に置き布団をかぶった。リリアンが起き出たばかりのベッドの中は温かかった。


「リリアンってどうしてそんなに強いの?」


 ルックは尋ねる。だが慣れない森歩きに疲れていたのだろう。彼女の答えを待たずして、すとんと眠りに落ちてしまった。




 その日ルックは再び彼女の夢を見た。今より大分幼いときに、二人で遊び、ずっと一緒にいようと約束をする。そんな夢だった。

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