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青の物語 ~その大陸で最も平凡な伝説~  作者: 広越 遼
第五章 ~砂漠の旅人~
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幕間 ~牛飼いと王子~

   幕間 ~牛飼いと王子~





良い牛やこ(オーランサァ)っちに来ないか!(・ネイエホー!)


 アルテス最南のオアシスの街、カエサ。そこはフィーン帝国南部とアルテス王国とを結ぶ国境の街だ。アルテスでは珍しい畜産業が発達した街で、牛飼いの少年の家畜を呼ぶ声が響いている。

 アルテスの街の大抵がそうなように、カエサ街も防壁を持つ街だ。しかしカエサはアルテス砂漠の南端にあるため、防壁は街の北側にしかない。南側は砂混じりの草原地帯で、舞い上がる砂から街を守るための防壁は必要ないのだ。北側の防壁も他のオアシスよりは背が低いらしい。


「ネイエホー!」


 家畜の牛は少年の誘導に従い、南の草原をはみながら少しずつ移動している。十二頭の茶色い巨体と、三頭の仔牛の集団だ。砂の混じらない牧草は街より半日の距離にある。少年は牛の背に乗りここに来て、この牧草地帯で暮らす一家から五日分の飼料を買う。それから一家にひと晩泊めてもらい、次の日にまた牛の背に乗り街へ帰る。そしてまた五日後にここに飼料を買いに来る。

 ダントの住むオアシスは水の豊富なオアシスで、街でも牧草がある。しかし砂漠の草は牛を不味くすると言われていて、ダントの家ではわざわざこうして牛に南の草を食べさせに来るのだ。

 それが牛飼いの少年、ダントの日常だった。


「おぉ、ダント坊や。今日は浮かない顔だねえ」


 ゆっくりと進んで半日、草原の中に佇む一軒の家が見えて来る。二階建てで、古びた赤い屋根の家だ。ダントがその家に着いて大きな声で到着を告げると、中からくたびれた老婆が出てきた。

 草原の一家はフィーン人だが、キーン時代からこの土地に住んでいる。キーン時代にはここはまだフィーン帝国の領土ではなかった。だから一家で使う言葉はフィーン語ではなく公用語だ。


「浮かないってほどじゃないけど、この前街にイーク王子が来てたんだ」

「ほー。イーク王子ってのはあれかい? ダント坊やがよく話してた」

「うん、そうだよ。国のルーメスを討伐して回ってて、俺より少し年上なだけなのに、めちゃくちゃかっけえんだ。目つきが鋭くて鷹みたいでさ、王子なのに雰囲気も偉ぶってないし」


 少年ダントは自身の憧れを熱のこもった言葉で語った。


「あとはミクも凛々しい人だし、妹のユキは少し儚げな美人で、ヒールは落ち着いてて理知的で、そんでな」


 老婆は興奮して話すダントに微笑みを向け、うんうんと頷いた。少年はひと通りイークたちを褒めちぎったあと、ふとまた暗い顔をした。


「なんかさ、なんだかさあ。上手く言えないけど、俺ってつまんないなって思ったんだ」


 ダントはキーネだ。マナを感じ取れないダントには、イークたちのようになることはできない。しかし少年は、穏やかな日常を暮らすより、イークたちのような冒険をしたいと思った。


「なんだね。贅沢な悩みじゃないかい。つまんないのが一番の幸せさね」


 老婆は少年の憧れを笑い飛ばし、少年は憮然とした表情を見せた。




 数日前、カエサの街に五人の旅人を連れて、イークのチームが訪れた。滞在期間は半日だけだったが、街の少年たちは大騒ぎになった。

 カエサは人口の少ない街だ。フィーンとの国交も二つ西のオアシスの方が盛んで、北東のオアシスまではラバで走れば数時間で着く。だから訪れる人は通りすがりに寄る程度だ。カエサを飛ばして直接東西のオアシスが商路を結んでもいる。そのためカエサの街には宿屋もない。

 イークたちはたまたま日程の都合でカエサを訪れたらしい。そしてなんと、ダントの家に泊まっていったのだ。ダントの家は元々は男爵家で、今も両親は上流階級の礼儀を知っている。王国で貴族制度が廃止されたのはダントが生まれる前の年だ。だからダントは自分の家が元男爵家だと聞いても、それになんの価値も感じていなかった。そもそも男爵家と言っても、領地もないし、昔から牛飼いをしていたのだ。ありがたみなど持つはずがない。

 しかしこのときばかりは、家が元男爵家で、両親が薄ら寒い礼儀作法をこなせる人で、心の底から感謝した。

 イークたちは睡眠を取っただけで、ほとんど会話はしなかった。それでも家を出る前に一緒に食事をする時間があった。


「うめぇ! なんだこれ、王宮の料理よりよっぽどじゃんか」


 イークは元奴隷のメイド長が腕によりを振るったステーキを大絶賛した。王子に自分の育てた牛が褒められて、ダントは泣きそうなくらい誇らしかった。


「へえ、カンの料理も美味しかったけど、こんないい肉は食べたことがないね」


 前髪を左右非対称に切りそろえたアレーがそう言った。詳しい身分は聞かなかったが、きっとカンの貴族だ。いい匂いがしたし、しゃべり方にも気品が溢れ、仕草の一つ一つが上品だった。時々ダントには面白さが理解できない冗談を言ったが、たぶん上流階級独特のユーモアなのだろう。


「そうね。あまりこういう家庭料理をいただいたことはないけれど、大陸一美味しいお肉と言われても信じそうよ」

「うん、おいしーね」


 女性二人もそう言って牛の肉を褒めた。丁寧な話口調の女性は歌声のようになめらかな声だ。こちらも上品な香りを身に付けていた。それにたまに黒髪の貴族戦士に細かな指摘を行っていたので、やはり高貴な身分なのだろう。


 ダントと同じ歳くらいに見える大きな瞳の女の子は、何かの病気らしい。舌がうまく回らず、食事中は簡単な言葉しか話さなかった。しかし最初に父と母に会ったとき、ダントが聞いたこともない流暢で格式高い言葉で挨拶をした。なのでたぶんこのアレーたちの中で一番身分の高い人だ。

 白いローブは赤とピンクの模様が絡み合う、他の仲間よりも一段高級なものだ。頭に乗せる銀色の鳥型の帽子も、高名な彫刻家の作品だろう。

 最初は変な被り物だと思ったが、考えてみたらアルキューンにいる女王陛下も公式の場では金の冠を被る。それと同じようなものではないかと思った。


 ダントは彼らを、お姫様を護衛する男女の貴族なのだと想像した。

 他の二人は小姓と小間使いだろう。


 ちなみに彼らが食べる肉は、本来だったら売りに出す、一番高級な部位だ。ダントもめったに食べられる肉ではない。

 食事が済むと、ダントは両親と一緒に、彼らを街の北門まで見送った。別れ際、女貴族が青髪の小姓に何かを指示した。小姓はすぐに三台目の丸馬車に走り、キーン金貨を十枚も持ってきた。そして遠慮する両親に気前よくそれを差し出した。


「丸馬車を軽くしたいのさ」


 男貴族が爽やかな笑顔を両親に向け、右肩をすくめて見せた。ともすれば気障に聞こえる言葉なのに、全く嫌みに感じなかった。父と母は何度も感謝の言葉を述べて、そのキーン金貨を頂いた。


「重たい荷物でほんと申し訳ないよ」


 聞き間違えかもしれないが、丸馬車に乗り込みながら小姓が男貴族にそんな嫌みを言った気がした。

 ダントは自分とは住む世界の違う人たちを見て、せめて自分がアレーだったら良かったのにと思った。




 草原の家からの帰り道、一頭の牛が突然座り込んだ。そしてひと声野太く鳴くと、よろよろと立ち上がってまた歩き始めた。

 彼女は仔牛の頃からダントが手塩を掛けて育てていた雌牛だ。もう十歳とかなりの歳だが、彼女はいまだに仔牛を産む優秀な働き手だ。今も五頭目の仔牛を妊娠している。


「大丈夫かぁ? 次のときは留守番かなぁ」


 ダントはまたがっていた牛から降り、雌牛を撫でつつ声をかけた。もちろん牛には人間の言葉は分からない。ダントのいたわりなど聞こえていないかのように、雌牛はそのまま群れの流れに従って歩き出す。


「ま、元気ならいいけどさ」


 ダントはそれでも気にせず、雌牛が聞いているかのように話しかける。ダントにしてみればそれは当たり前のことだ。牛は愛情を返してはこないけれど、ダントは牛を愛している。ダントの父と母も、街にいる他の畜産家たちも同じだ。彼らは自分を生かしてくれる家畜たちに、常に感謝をしている。

 ダントは小走りで先頭の牛に追いつき、鞍もない背に飛び乗った。


 自分とは違う存在に憧れる少年だったが、ダントはこの日々が嫌いではない。老婆に言われなくても、つまらない日々が毎日続いていくのが幸せなのだと分かっていた。

 しかしもう少しくらい何かあってもいいとも思う。

 ダントはそんなことを考えながら、よく通る声で歌を歌い、ゆったりとしたペースで家路を辿った。




 そんなダントに事件が起こったのは、それから十日後のことだった。最近建て替えたまだ木の臭いが濃い牛舎の中だ。

 牛舎の奥、柵で覆われた広めの砂場で、雌牛が五度目の出産を無事終わらせた。ダントと父親で二頭の仔牛を引っ張り出したのだ。珍しいことに仔牛は双子だった。父が双子の牛の出産は二十年振りだと言った。


「偉いぞ。双子も珍しいが、六頭も子供を産む雌牛なんて父さんが生まれてから初めてだ」


 父は汗を拭いながらそう言った。

 高齢の雌牛は出産の疲れで汗だくになってへたり込んでいた。その雌牛にハグをして、ダントは心の底から雌牛を褒めた。ダントも二頭の仔牛を引っ張り出したので疲れていた。とてもすぐには体を動かせそうにない。雌牛と気持ちが通じ合った気がして、ダントは可笑しくなって笑い声をあげた。

 しかし雌牛はすぐに立ち上がり、地面に転がり砂にまみれている仔牛二頭を、ぺろぺろと舐め始めた。仔牛は母に促されるようにもがき出して立ち上がろうとしている。


「お、頑張れよ」


 ダントは二頭の仔牛に声援を送り、がたつく足に気合いを入れて、雌牛のために水を用意する事にした。

 つまらないと言っても、雌牛が子を産めば感動するし、育てた牛が美味しいと言ってもらえたら嬉しい。体を酷使する仕事でもないし、畜産業には危険なこともそうそうない。

 ダントの人生は充分に満たされたものだった。


 だからイークや男貴族に憧れはしたが、自分はこのままでいいと思った。何事もなく、父や母、草原の一家や愛しい牛たちと暮らすこの生活が、自分の性に合う生き方なのだ。

 草原への行き帰りで思っていたこととは反対の考えだ。しかしダントはそれを疑問にも思わず水を取りに歩いた。水はこの間の大雨で溜めておいたものがあるので、わざわざオアシスの湖まで取りに行かなくていい。鉄製の水瓶は重たかったが、ダントは雌牛のために弱音を漏らさず運んだ。


 ダントが雌牛から離れていたのは三クランほどの時間だった。たったそれだけ目を離した隙に、仔牛の内一頭はすでに立ち上がっていた。

 ダントは持ってきた水を母牛に飲ませながら、懸命に立ち上がろうともがくもう一頭へ声をかける。


「なあ父さん、あっちって弟かな?」

「いや、先に引っ張り出した方だと思うぞ」

「なら兄ちゃんだな。弟に負けんなよー」


 ここまではよくある日常の光景だった。父親は「ダントが立ち上がったのは一歳だった」とからかってきて、ダントは「父さんは違ったのかよ」とやり返す。立ち上がった弟牛は兄のことなど興味はなさそうだ。初めて見る世界を不思議そうに眺めている。


 そこで突然牛舎の牛たちが全員でいっせいに鳴き声を上げた。

 水を飲んでいた母牛も頭を高く上げ、牛舎の天井にブボーブボーと何度も吼えた。そして牛舎中に重たい衝突音が響き渡った。


「なんだ?」


 ダントも父親も突然のことに困惑した。手分けして牛たちをなだめようと、他の牛たちのいる囲いへ向かった。囲いは三頭ずつが入れられた部屋で、片面が開閉できる柵になっている。衝突音はその柵に牛が体当たりをしている音だった。牛たちはひどく興奮していて、なだめようにも、とても二人が近付ける様子ではない。以前出産した仔牛三頭も、まだ育ちきらない体を柵にぶつけていた。


「どうしたお前たち。地震でも来るのか?」


 動物はたまに、人より先に災害を予知することがあるという。牛もそうかは知らないが、ダントはそんな話を思い出して牛たちに問いかける。しかし当然牛たちからの回答はない。


「ダント! すぐジェズ爺さんを連れてこい!」


 父が壊れそうな柵を抑えながらそう叫んだ。ジェズ爺さんというのは近くに住むアレーの老人だ。父はアレーが必要な事態だと言っているのだ。ジェズは小柄な老人だが、アレーならば若い男の父より強い。ダントはまだ何が起きているのか分からなかったが、すぐに牛舎を飛び出した。

 ジェズの住む家までは駆けて三クランだ。出産の大仕事でまだ疲れの溜まる足を叱咤し、ダントはがむしゃらに走った。

 しかし不運なことに、ジェズは家にいなかった。ジェズの家は留守で、扉を叩いても返事がない。ジェズの豚小屋も覗いてみたが誰もいなかった。

 近所と言っても家人がどこにいるかなど分かるはずがない。ダントはすぐにジェズを諦め、父のいる牛舎に駆け戻った。


 柵は破られていないようだ。牛舎の外に牛が逃げ出している様子はなかった。牛舎の中からはまだ牛の鳴き声が聞こえたが、柵に牛がぶつかる音は聞こえない。

 ダントは少しほっとしてそのまま牛舎の中に入った。父がなんとか牛を静めたのだろう。

 しかし柵が破られていないという考えは間違いだった。父は牛を静められてはいなかったのだ。


 牛舎の地面には壊れた柵の残骸と、藁と、頭から血を流して倒れる父がいた。


「父さんっ?」


 ダントは慌てて父に駆け寄った。父は息はしていたが、ぐったりと力なく気絶していた。柵を破った牛に倒されて頭を打ったのだろう。

 牛たちは雌牛と二頭の仔牛の周りに集まり、野太い鳴き声を上げていた。まるで祭事で神に祈る司祭のようだ。輪になり、ただ頭を突き上げて雄叫びを発している。


 輪の中心で緑色の巨体が立ち上がった。どうしてここに紛れ込んだのか、ダントが見たことのない雄牛だ。てらてらと光る体には力強い筋肉のうねりが見える。

 緑の雄牛は苦しんでいた。ダントはすぐになぜか分かった。その雄牛は急激な体の変化に耐えられなくて苦しんでいるのだ。緑色の巨体は他の牛より二回りは大きい。見ている間に、さらにもう一回りも大きくなった。額からは目に見える速度で二本の角が伸びていく。


 奇形だ。母牛の血に塗られて毛並みの色が分からなかったのだろう。双子の内、おそらくは兄の方だ。なかなか起き上がれなかった兄牛が奇形だったのだ。

 これは例えジェズがいたとしても手に負えなさそうだ。牛の体は普通滑らかな流線型だが、緑の雄牛は固くゴツゴツとした岩石のような体躯になった。


 ダントはすぐに、西のアルキューンで産まれたという赤ラバの話を思い出した。アルキューンを見たことはないが、このオアシスの数十倍は大きい大都市だという。そのアルキューンが、一匹の奇形のラバに崩壊させられそうになったというのだ。

 これは畜産家の子供なら、小さい頃から何度も何度も聞かされる話だ。話が伝わる内に大げさになっているかもしれない。しかしもし本当の話なら、こんな小さなオアシスはとても持ち堪えられない。


 ダントは今が危機的状況なのだと理解した。奇形は凶暴で好戦的なのだ。なんとかしなければ大変なことになる。かと言って、キーネの自分には何もできない。

 畜産業には危険はそうそうないと思っていたが、それは大間違いだった。めったにないことかもしれないが、動物を扱う仕事には常に魔獣の危険が付きまとうのだ。

 ダントは父を運び出そうとしたが、十三歳のダントの力では無理だった。


「父さん、父さん! 起きてくれよ!」


 なんとか父に起きてもらわなければ、このままではきっと緑の雄牛に踏み潰されてしまう。立て膝をついて父の頬を叩く。父は軽いうめき声を漏らした。そして薄く目を開け、すぐに状況を理解したようだ。


「ダント、逃げろ」


 ダントの呼びかけに目を覚ました父だが、まだ体を動かせないらしい。ダントだけ逃げろと無理な命令をしてきた。


 緑の雄牛は急激な成長が終わり、ゼーゼーと荒い息で呼吸をしていた。最終的に体は牛四頭分ほどの大きさになった。頭の左右から天に向かってそそり立つ角は、木の幹のように太い。角の重みのせいか、両目が奇妙な垂れ型になっている。もしも雄牛がダントにその角を突き立てたら、この体が二つに分離しそうに思えた。


 今すぐ逃げ出したいほど怖かった。しかし父をこのままにしてはおけない。体がガタガタと震えた。他の牛たちも興奮したままで、今にも全頭で暴れ出しそうだ。

 息が整ったのか、緑の雄牛は静かに辺りを見回し始めた。垂れた目は生まれてすぐに激痛を味わわせた世界を恨んでいるかのようだ。暗く胡乱な輝きで周囲を睥睨している。そしてその目がダントに向けられた。震えるダントの目が雄牛と交差する。その瞬間に、雄牛が地響きのような怒鳴り声で吼えた。呼応するように周りの牛たちも声を上げる。

 それは千の軍勢が上げたときの声のようだった。それだけでダントの体は押し潰されてしまいそうな気がした。


「おい、やめろよ、やめてくれ」


 愛情を込めて育てた牛たちが、殺気立った目でダントを睨む。特に可愛がっていた高齢の雌牛も、冷酷な眼差しでダントを見ていた。

 それはダントの恐怖がそう思わせただけだったのかもしれない。家畜たちにそんな感情はなかったかもしれない。しかし、父を失うのではないかという恐怖と、自分の体が引き裂かれる想像が、ダントの思考をかき乱す。

 ときの声が止み、牛たちを押し分け緑の雄牛が前進を始めた。一歩一歩、太い足が地面を踏みつけて近寄ってくる。輪を抜けたところで雄牛は立ち止まり、頭を低く下げ、鋭い角をこちらに向けた。

 逃げ出すことも、助けを呼ぶことも、当然立ち向かうこともできず、ただダントは自分の死を待った。


「あ、あっ」


 言葉も上手く紡げない。よく通る自慢の声は、震える自分の歯の音にかき消される。もう今から逃げ出したとしても間に合わないだろう。腰が抜けて動くことすらできない。死の一瞬は目前だった。


 しかしそんなダントの前にヒーローが現れた。


 緑の雄牛が左後ろ足を二回地面に打ち付けた。その瞬間が来る。だがそう思ったとき甲高いの音が響いた。それはラバの飼育者がよくやる鋭く飛ぶ指笛の音だ。ひと息だけの短い音が耳をかすめる。緑の雄牛はその音に気を取られ、ダントから目をそらした。

 緑の雄牛が目をやる方へダントも視線を向ける。牛舎の入り口、逆光を背にしてそのヒーローは立っていた。


「こっちだ!」


 若い声が緑の雄牛に呼びかけた。奇形の仔牛は再び地面を二度蹴った。

 牛とは思えない俊敏な動きで緑の雄牛が駆けた。入り口の人影へ向かう一直線の突進だ。鋭い角が人影を突き刺そうと襲いかかる。しかし人影は「装剣」と魔法の名を声に出し、両腕を交差して真っ向から雄牛の角を受け止めた。


「おー、ルーメス並みの力だな。ウェスのルーメスほどじゃないけど、デスくらいはあるかな」


 恐ろしい奇形が怖くないのか、少しのんきな発言だ。突進を止められてからも緑の雄牛は首を振って角を打ち付けているが、どれもあっさり防がれている。


「時間を稼いで下さい! ユキが衝撃球で一気に決めます」


 人影の後ろから女性の声が聞こえた。幼さの残る、しかし理知的な声だ。ダントは産まれたばかりの仔牛を哀れにも思ったが、人が生きるための家畜だ。こうなってしまったなら仕方ない。


「いや、ヒール。心配しすぎだ。衝撃球だとこの牛は一片も残らず押し潰される」


 しかしさらにまた別の女性の声がそれに反論した。凛々しく迷いのない真っ直ぐな口調だ。何が問題なのか、緑の雄牛をかばうような発言だった。


「お、それは良くねえな。ここの牛はうまいかんな。それに奇形の牛なんてめったに食べられないよな」

「ああ。だからここはユキの魔法ではなく、私の剣で一撃で仕留めよう」

「ちょっと、真面目にやって下さい!」

「ん? ミク、真面目な話だよな?」

「ああイーク。私たちはいたって真面目だ」


 理知的な声の主、ヒールをからかっているのだろう。イーク王子と細剣士ミクは楽しそうに笑っている。奇形の動物など、彼らにとっては敵ではないのだろう。じゃれつく子供をあしらいながら談笑する大人のように、彼らは緑の雄牛を問題にしていなかった。


「早く討伐しないと、オアシス中の牛が集まって来るかもしれないです。ここじゃ私は何もできないんだから、気をもませないで下さい!」

「はは。牛は食べたいが、牛の餌にはなりたくないな。イーク、少し抑えておけるか?」

了解(フーデイ)どんだけでも(フーデラメント)やり続けよう(フォルデア)


 詩を歌うように頭韻を揃えてイークが請け合う。

 終始ふざけているような彼らだった。しかしダントの目に映る戦闘は、決して遊び半分ではなかった。


 イーク王子が鉄の壁を生み出す。壁は牛の二本の角に貫かれる。鉄を貫くとはとんでもない角だと思ったが、それは違うようだった。元々イーク王子は貫かれやすい柔らかな金属で壁を作っていたのだ。雄牛の角は鉄の魔法に絡め取られ、壁から引き抜けなくなる。緑の雄牛は動きを止めて、必死で頭を引き戻そうとしていた。


「器用なこった」


 呆れたようにミクが言い、雄牛の横からひと突き、細剣が繰り出された。頭蓋骨など存在しないかのように、細剣はあっさりと牛の頭を貫く。そして脳に穴を開けられた奇形は即死した。

 響き渡っていた他の牛たちの雄叫びがふと途絶えた。鉄壁が消え、そこに緑の雄牛の体が倒れるずしんという音が響く。あれほど恐ろしく思えた牛の魔獣が、いともあっさり死んだのだ。

 緑の雄牛はまだ仮初めの体しか持っていなかったのだろう。地面に倒れると、次第にマナが体から抜け、萎むように体が小さくなっていく。そして最後には小さな緑の仔牛の死体が残った。母親の雌牛がその仔牛に近寄っていき、起き上がらない体を舐め始める。もう狂乱した様子はない。落ち着いた雰囲気で我が子が起き上がるのを促していた。


「これは食えなくなったな」


 ミクがそんな母牛の様子を見て肩をすくめる。仔牛の体が萎んだせいと、母仔の様子に情が移ってしまったための発言だろう。


「おーい、お前ダントだったか? 無事かぁ?」


 戦闘が終わると、イークがダントの元に駆け寄ってきた。鋭い鷹のような目つきが、ダントを安心させるように笑顔になった。


「怖かったよな。もう大丈夫だかんな」


 腰が抜けたダントの前にしゃがみこみ、優しい兄のようにイークが頭をなでてくれた。


「イーク第一王子。このような地に伏した状態での言葉お許し下さい。私とダントにお慈悲下さり、」

「あぁ、そんなのいいって。親子揃って無事なら、そんで充分だ。

 ヒール! 男爵の頭血出てる。治療してくれ」


 照れ隠しをするようにイークは父の言葉を遮った。英雄譚の気障ったらしい主人公よりずいぶん庶民的な振る舞いだ。ダントにとってはそんなイークこそが絶対的なヒーローに見えた。




 それからヒールが父を家まで運んで行き、その間、なんとイーク王子とミクとユキが自ら柵の修理をし始めた。簡単に倒れた杭を地面に突き刺したりしただけだが、それでもキーネではかなり時間がかかる作業だ。それをイークたちは刺繍針を刺すようにみるみる終わらせた。


「イーク王子、すんごいかっこよかったです。俺、イーク王子をずっと尊敬します」


 父のようにたくさん難しい言葉でこの想いを伝えたかった。しかしダントは貴族としての教育も受けてなく、簡単な言葉しか思い浮かばない。大事件の衝撃と、それが解決したこと、そしてヒーローを目の前にしたことで、ダントの頭は興奮状態になっている。とてもじっくり言葉を選ぶことはできなかった。


「王子は最強です!」


 自分でも少し子供っぽい褒め方だと思ったが、それでもとにかくこの感動をイーク王子に伝えたかった。

 しかしイークはそんなダントの褒め言葉を笑い飛ばしてしまった。


「俺は全然最強じゃないって。ユキのが強いし、ミクになんてまるで勝てないかんな。あとこないだ一緒に来たリリアンには、俺たち四人がかりで一回も勝てたことないんだ」


 イークは王子でもヒーローでもない普通の友達のように、気安い口調でダントに話した。

 俺があまりに子供っぽいから、合わせてくれてるんだ。

 ダントはそれにそんなことを考えた。

 イークが言うリリアンというのは、あのクリーム色の髪の女貴族のことだろう。四人がかりで勝てないというのは大げさに言っているだけだと思うが、かなりの実力者なのだろう。


「あとルックも俺なんかよりずっと強いはずだ。試合したことはないけどな。ミクは試合したんだよな?」

「ああ。お互い本気でやりあったわけじゃないが、相当深く考えながら戦ってる感じだったぞ。それにウェスのチームと戦ったときは、まるでユキみたいな足さばきで敵を翻弄してた。一度も見せたことはないはずなんだけどな。たぶん本気でやりあったら、私でも相手にならないよ」


 ルックはきっとあの黒髪の優しい男貴族だ。イークとミクがこうまで言うのだから、やはり見た目通りの英雄なのだ。


「見るからに頭が良さそうでしたもんね。俺、あの人たちもかっこいいと思います。けど、イーク王子はやっぱり一番です!」


 ダントが言うと、ミクがおどけたようにからかってきた。


「残念ながら私はかっこよくはないみたいだな」


 ダントはそれに慌てて首を振る。まさかそんなはずはないのだ。ミクだってダントの憧れだ。


「違います! ミクもすごいかっこよかったです。凛々しくてきれいです!」


 ダントの明け透けな絶讃に、ミクは呆れたように頬を掻いた。まだ言い足りないくらいなのに、言い過ぎてしまったようだ。

 少し赤らんだミクの耳に、ユキがそっと口を寄せた。そして何かを小声で囁いた。


「はは。ユキがそのうちこのオアシスにもルックの歌が届いて、イークのことなんて思い出さなくなるってさ」


 悪く言われたはずのイーク王子も、それを聞いて大笑いをした。そしてダントのために、王宮で聴いたというルックの英雄歌を歌ってくれた。決して上手な歌ではなかったが、それは確かに英雄歌と呼ぶに相応しい、とてもとてもかっこいい歌だった。

 それでもダントには、あの貴族よりもイーク王子の方が強いような気がした。

 ダントにとっては、見たことのない黒の翼竜や南部猿の魔獣より、あの緑の雄牛の方が脅威的に思えたのだ。


 だからやっぱりイーク王子の方がかっこいいのだ。自分にとって、イーク王子こそが一番の英雄なのだ。


 彼らはこれからフィーン帝国の帝都に向かうらしい。大事なお役目があるのだそうだ。歌い終わったあと、二つ西のオアシスの方がフィーンへは行きやすいが、ここで食べた肉の味が忘れられなかったのだという話をしてくれた。


「だから感謝すんなら美味しい牛を育てた自分自身に感謝してくれな」


 イークは冗談のつもりでそう言ったのだろう。ふとした思い付きをただ口に出しただけのように見えた。しかしダントにはその言葉は今まで生きてきた十三年間で最も衝撃的なものだった。


 確かに自分の人生は、イークやルックたちに比べたらつまらない生き方なのだろう。五日おきに同じことを繰り返すだけの、木訥とした人生だ。奇形の牛が歪む体に死なず凶暴化することなど、畜産家の人生で一度でもあれば珍しいことだという。だからこれからもきっと平凡で退屈な毎日が続くのだろう。

 しかしそのダントの毎日が、イーク王子にまた来たいと思ってもらえるようなものを生んだのだ。


 イークたちは南に去った。きっと彼らはこれから、ダントの平和な暮らしからは想像もつかない旅をするのだろう。そしていつかきっと、またダントの牛を食べたいと顔を出してくれるのだ。


「オーランサァ・ネイエホー!」


 少年は今日も歌うような声で愛しい牛たちを呼ぶ。


「ネイエホー!」


 よく通る自慢の声を張り上げる。その呼び声には、以前よりも誇り高い響きが混ざっていた。

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