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「おい! 何か来る!」
突然クロックが叫んだ。クロックのそうした直感を聞くのは久しぶりだった。しかしルックは、すぐに背中の大剣を鞘から抜いた。
クロックはルーメスの気配を感じ取れる。二千のアレーに歪められた場所だ。ルックはすぐにこの環境にルーメスが迷い込む危険を察した。しかもクロックは以前、ロロの近くでは男爵クラスのルーメスを感じ取れないと言っていた。その彼が確信を持って「来る」と言ったのだ。
他の仲間も険しい顔でそれぞれの戦闘態勢を取った。
「おい、突然なんだ?」
ガルガが突如武器を手にしたルックたちに、警戒の声を発した。イークたちも困惑した表情をしている。そんな彼らに警告するように、ビーアがひと声高く鳴く。
「これは子爵クラス以上だ」
ルックの予想していた通り、クロックがルーメスの階級を告げる。
「子爵? フィーン人が来るのか?」
ガルガは、今のアルテスにはない貴族制度の話だと思ったのだろう。そんなことを言った。しかしイークたちにはそれの意味するものが伝わった。
「嘘だろっ? 子爵クラスってことは、ネスか!」
イークたちもすぐに気を引きしめた。全員の顔付きが変わる。
そして意外にも、イークの言葉でガルガも理解をしたようだった。
「まさかネスかそれ以上の妖魔が来るってことか?」
言ってガルガはラクダから飛び降りる。彼に従う三十の小隊もそれにならってラクダを降りた。
「あっちだ」
クロックはレジスタンスの大軍を爪で指した。
「そうか、大勢のアレーが集まってる場所だから、大きく世界が歪んだんだね。おい、君はレジスタンスのリーダーなんだろ? すぐにあの中にルーメスが現れるから、避難させた方がいい」
「ちっ、なんのことか知らんが、もし嘘だったら体を十九等分させてもらうぞ。おい、お前らすぐにあいつらに散会するよう伝えろ!」
アルテス特有の脅し文句を口にして、ガルガが砂漠に手を突いた。彼の手下はすぐに行動を開始し、レジスタンス軍全体に情報が行き渡る。
ガルガの命に逆らわず、レジスタンス軍が散会を始めようとしたとき、その中央から甲高い雄叫びが響いた。
レジスタンス軍の中央、ここから千歩ほどの距離に、頭二つ抜けた灰黒い人影が立ち上がった。
レジスタンス軍はまだ逃げる体勢が完成してない。このままでは多くの死者が出るだろう。戦う必要がなくなりそうだった彼らを殺させるわけにはいかない。しかし千歩の距離はルックたちにもすぐに埋められる距離ではない。
「ロロ!」
ルックはそこで名案が浮かんだ。
「ルーメスの声を模写して時間を稼げない?」
ルックの提案にロロは少し目を丸くした。模写もなにも、ロロにそれができないはずはない。しかしこう言うことで、ロロがルーメスだと隠したまま危機を回避できると考えたのだ。
ロロもすぐにルックの思惑を理解したようで、軽く頷く。
「おう、試してみる」
そう言って、喉に手を当てる演技を入れてルーメスの言葉を高く発した。
遠くの灰黒い人影はロロの声を聞いて動きを止める。その隙にレジスタンス軍はルーメスから充分な距離を置いた。ルーメスはロロの方を見た。かなり距離があるが、ルーメスの目ならロロの肌の色を正確に識別しただろう。
騙されたことで憤慨したのか、灰黒いルーメスが天に向かって怒声を発した。そしてわずかに腰を落とし、ロロを睨み付けたまま駆け出した。千歩の距離を半クランもせずに埋める速度だ。だが以前見た伯爵クラスほどの速度ではない。なのでルックはこのルーメスを子爵クラスだと判断した。視界の隅ではリリアンの左目の前に、透明な水のレンズが浮かんだのが見えた。
油断はしないが、こうなれば負けることはないだろうと思った。ルックは隆地で子爵クラスの足を止めるだけでいい。あとは子爵クラスを凌ぐ速さのリリアンが、瞬く間にルーメスの喉に剣を突き立てるだろう。
ルックは戦闘の終わりまでの絵を思い描いた。
しかしルックの予想は大きく外れることになった。
隆地を放とうと手を地に付けたルックは、同じように手を突くガルガがにんまりと不敵に笑うのを見た。
そして突然ずぼりとルーメスの体が消えた。まるで薄氷を張った湖が無知な動物を飲み込むように、ルックたちが足を踏みしめているアルテス砂漠の広大な砂の中に、子爵クラスが落下したのだ。
最初は掘穴の魔法に落ちたのかと思った。しかし穴を作れば、その分の盛り上がった砂ができるはずだ。アルテス砂漠はなだらかで平坦なままだった。
「終わったお?」
ルーンも状況が飲み込めなかったのだろう。ルックにそんなことを聞いてきた。ルーンの顔は緊張感を残していたが、舌が回らないためどこかのんきに聞こえる。そんなルーンの問いにはガルガが答えた。鋭い顔付きの男だが、ルーンの口調には毒気を抜かれたようだ。
「ああ。終わったぜ。俺の魔法は地味だが、自慢じゃねえがこの砂の上では無敵なんだよ。あの妖魔は足元の砂に落として、砂ん中で握り潰してやった。
ああ、ヒールの魔法とはちょっと違うぜ。あれは俺の魔法から着想を得ただけで、全く仕組みが違う。ヒールはただ砂を操るだけで、俺のは砂の性質をいじっちまうんだよ。水みたいにすることもできりゃ、中に取り込んだ奴を圧縮することもできる。まあ仕組みまでは教えてやれんがな」
ルーンには人を饒舌にさせる才能がある。
例えばアーティーズの無愛想な鍛冶職人ヘイベイも、ルーンの前でだけは意外なユーモアを見せる。
ルーンの前で無口を貫くことは、名の知れた黒影にすら困難だ。これはシュールのチームでよく冗談にしていた格言だ。
ルックはその才能が、彼女の明るいおしゃべりのせいだと考えていた。しかしガルガ舌は、ルーンがひと声も発しないのに滑らかに回った。その様子を見たルックは、ころころ変わるルーンの表情が、彼女の良く回る舌よりずっと雄弁なのに気が付いた。
「はは、砂上で俺に勝てんのは嬢ちゃんくらいだな」
ルーンの頭に乗るビーアに視線を向けて、ガルガは最後にそんな冗談を言って締めくくった。




