②
ルックたちの二度目の船出は、そんなどたばたとしたものだった。
リリアンはまた船酔いになり、かいがいしく世話を焼いてくれるルーンに、文句を言うことはできなくなった。
ルックはブリッジで、ガラス窓の向こうを見ていた。ガラス窓は水しぶきがかかり、視界は全く良くない。ナームペクタス号は他の船との衝突を避けるため、大陸からはかなり離れた位置を航海していた。そのためガラス窓に映るのは一面海ばかりだった。
ルックはそんな海をただただ眺め続ける。そうしていると少しは、この理不尽な話への怒りを鎮めることができたのだ。
「そんでよ、みんなして大海蛇がどうやっておっちんだのか聞きたがるわけよ。だから俺とナームはできるだけ正確に話をしたわけだ。
だがな、あんだけ苦しめられてた海蛇の最期だ。みんな何回も何回も聞きたがってな。俺はそれでもなるべく正確に話そうとしたぜ。だがナームは性格上、誰かに期待されたらそれに応えたくなるんだな。一度目より二度目、二度目より三度目って、どんどん話が大げさになってくんだよ」
「それで、君はそんな様子を、ただ黙って見てたわけだ」
「おお、まあそういうわけだな」
ジェイヴァーとクロックがそこで大笑いをする。彼らがルックの前でこの話をするのは、すでに今回で三度目だった。二人ともルックが英雄と持ち上げられるのを面白がっているのだ。二人が常に手に持つジョッキも、二人の悪ふざけを助長しているのだろう。
ルックはいつか怒鳴りつけてやりたいと思いながら、そうできないだろう自分にため息をついた。ルックは苛烈に怒るのではなく、静かに怒りを内包してしまうのだ。
だからクロックたちはふざけるのをやめない。
そうは分かっていても、十五年で染み付いた性格は、そう簡単には変わらなかった。
唯一の慰めは、困ったように笑うロロの存在だった。
「ルック。悪いこと、違う。気に病むな」
舌っ足らずな異端者の言葉が、ルックの胸に優しく響いた。
ルックは食事時にナームに文句を言おうかとも思ったが、常に魔法に集中力を費やしているナームは、いつ見ても憔悴している。さすがにそんな彼は責められなかった。
二度目の航海は、その二人の悪ふざけ以外には特に問題はなく過ぎる。
航海の途中ルーンが十五の誕生日を迎えた。ルック以外の面々はそれを祝おうとしたが、アーティスには十五からの誕生日を祝福する習慣はなく、ルーンがそれを断った。
「考えてみたら、ライトももう十五になってるんだよね。ライト元気かな?」
デッキで二人になったときルーンがそう言った。ルックにはそう言った彼女が、少し大人びた表情をして見えた。
問題が起こったのは、目的地だったアルテスの北部に着いたときだった。
問題が起こったというよりは、何も起こらなかったと言うべきだろうか。
クロックの指定する目的地には何もなかったのだ。リリアンの予想していた海賊の町も、クロックが予想していた忘れ去られた漁村もない。ただただアルテス大山脈の裏側、果てしない絶壁が延々と続いていた。
目的地に到着したのは夜だった。船は停止し、仲間五人で船の食堂に集まった。
「まず考えられるのは、黒の翼竜みたいに相手が人間じゃない可能性ね」
船酔いで辛そうなリリアンが、いつもよりは弱々しい声で言った。
「それからクロックの情報が古くて、すでにここで世界の歪みに力を加えている存在がいないか、クロックが間違えた情報を持っていたか」
クロックが心外そうな顔で反論する。
「間違いってことはない。闇の大神官だけじゃなくて、魔学者クォートもここの存在は感知していたんだ。なぁルック、リージアもそうだったんだろ?」
クロックが必死で同意を求めてきたので、ルックもなんとかかばってやりたかった。しかしリージアとの会話を良く思い出したが、リージアはアルテスの北部について何も言っていなかった。
「うーん。リージアは場所までは特定してなかったし、特に全部で何人とかは言ってなかったよ」
ルックの回答にクロックが眉をしかめながら言う。
「そうなのか? だけどな、俺はほんの十数日前に母に会ってるんだ。その時点で何かあったなら俺に言ってたはずだよ」
クロックの言葉は間違えているようにも思えなかった。ルックには理解できないことだが、ディフィカの母親たちは歪みに力を加えている存在がいる場所を、正確に把握しているそうなのだ。もしそれが移動するようなことがあれば、クロックに伝えない理由はない。
「ならやっぱり、人間じゃないってことかしら」
リリアンの疑問に全員が頭を悩ませたが、結論が出そうではなかった。結論を出すも何も、明らかに情報が不足していたのだ。新たに情報を仕入れる伝手もない。悩むだけ無駄に思えた。
「人間じゃ、ないとして、ここにいるの、なんだ?」
常識外のことをよく知るクロックも、世界に詳しいリリアンも、ロロの言葉に答えられない。
人間ではない生物で、歪みに手を加えられる力と知恵を持つ生物。そんなものがこのアルテスにいるとは聞いたこともなかったのだ。
そこでルックは考え方を少し変えてみた。
「アルテスに限らないで、世界の歪みを抑えられそうな生物って何がいるかな?」
「私が思い付くのは、黒の翼竜とルードゥーリくらいかしらね」
リリアンがルックの発言にそう答える。
ルードゥーリは伝説上の生命体だ。不可能がないとも言われる、絶対的な存在だった。
「はは。ルードゥーリならありえるかもね。だけどここにいるのは今回訪ねる七つの力で、二番目に力が弱いんだ。テツやリージアがルードゥーリよりすごいってことになるからな。それもないだろ。
俺は神々とか精霊とかも思い付くけど、どっちもこの世界の住人じゃない。あとあるとしたら、貴族クラスのルーメスかな? まあだとしたら歪みを抑えるんじゃなくて、広げていそうだけどね」
リリアンとクロックの話を聞いて、ロロが尋ねた。
「アルテス山脈に、巨人いないか? 俺、前こっち来たとき、ビルが言ってた」
「ああ、いるね。だけどアルテス山脈の巨人はただ大きいってだけで普通の人間なんだ。しかももっと東の方に住んでたはずだ」
「そうか」
クロックが否定をすると、ロロはすぐに納得をした。彼はこの世界のことをまだよく知らないのだ。他に案もないようだった。
続いてルーンが言った。
「ねー、それならドゥーリはどうなの?」
ルックは一瞬だけ以前の仲間、筋骨たくましいドゥールを思い浮かべた。しかしもちろんルーンが言うのは彼のことではない。ルーメスと共にルードゥーリの名の由来になった、実在する最強の生命体のことを言っているのだ。
「ドゥーリのことは闇の宗教でもそんなに知らないんだ。だけどただ死なない生物ってだけじゃないのか?」
「ドゥーリは実在するとは言われているけど、実際に見たって人は聞かないわ」
クロックとリリアンが続けてルーンに説明する。ルーンもただ思い付きで言っただけなので、それにすぐ納得をして引き下がった。
結論として、ドゥーリの可能性は捨てきれないが、確認する手立てはないということでまとまった。
まさかここまで来て無駄足になるのは笑えない話だが、どうすることもできない。
アルテス山脈の北側は、切り立った崖になっているのだ。上陸することはとてもできない。
「クロックの情報がとても正確なのにはいつも驚かされるわ」
リリアンがそんな嫌みを言った。彼女は船酔いに苦しみながらここまで来たのだ。徒労感はひとしおだろう。
「おいおい、仕方ないだろ? 俺たちだって大陸中に目があるわけじゃないんだ。ただここで世界の境界が歪むのに手を加えている者がいるって、それだけしか分かってないんだよ」
クロックは真面目に言い訳をする。少し険悪な雰囲気になったが、リリアンも本気でクロックを責めていたわけではないだろう。それ以上は追求しなかった。
しかしリリアンはクロックの発言に、何か黙って考え込んだ。仲間たちは突然黙ったリリアンに、疑問の目を向けて待った。
リリアンが静かな声で口を開く。
「ねえクロック。私前から思ってたことがあるの。今の発言で確信を持てたわ。あなたの母親たちが感じているのって、歪みを抑えようとする力じゃないのよね?」




