⑦
進化を止める魔法。闇の信者たちは時を止める儀式と呼ぶそれは、人の心を操る秘儀だった。
闇の大神官クラムがディフィカの協力を得て完成させたものだ。
ヨーテス西部の廃坑の一角に、ディフィカの書き込んだ魔法文字が床の全面を覆う、大陸を縮小したような形の部屋が作られている。その部屋にクラムがマナを籠める。そうすると数日間この大陸中の人々の心から、変革を求める思いが消える。
もともとクラムは人の心を操る魔法を知っていた。彼は呪詛の魔法師だが、心を操る魔法は呪詛の魔法ではない。この大陸で彼しか知らない、心の魔法によるものだった。彼は二つのマナを操れる例外者だったのだ。
ディフィカの魔法文字はクラムの力を増幅させるためのものだ。
増幅された心の魔法は、大陸全土を覆い、人々の心から進化を求める心を消し去る。
この大陸でここまで正確に事実を把握している人間はほとんどいない。
かつての闇の大神官、闇を負う者・ロータスから話を聞いていたリージアも、クラムが時を止める秘儀を行っている、ということしか知らない。さらにはそれを過大解釈している。
ロータスが彼女たちにそのことを語ったときは、リージアはまだ幼く、正しく理解できたわけではなかったのだ。
だからリージアは、クラムが時代そのものを止めていると考えて、そのようなニュアンスでアーティス国首相ビースに語った。ビースはそれでクラムが時を止めていれば、アーティスが滅ぶような歴史的な事件は起こらないのだと考えていた。
しかしそれは間違いで、実際にはクラムの魔法は戦争の結果などは支配していない。ただ拮抗する七大国の力関係が崩れないよう、新たな発見を止めているだけなのだ。
細かい話になるが、ロータスは闇の大神官でも抜きん出た強さを持っていた。人の心は支配できないが、必要とあれば山をかき消す魔法も放てただろう。
そのためリージアは、闇の大神官の強さを勘違いしていた。だからクラムが歴史を固定するほどの力を持っていると、疑いもしなかったのだ。
クラムが時を止め始めたのは、ディフィカが大神官になった二百五十年ほど前のことだ。それ以前から秘匿されていた森人の目の技法や、開国の三勇士が子孫にのみ口伝していた体術などは、その特定の集団の中でしか広まらなくなった。ミクの一族に伝わる資料にもそれに当たる項目がある。
推測だが、リリアンが目の技法を知っているのは、彼女が一時期森人の森の民に受け入れられたためだと思っている。
時を止め始めた以後編み出されたルーンの爆石や、ナームの船の機関などは、その一代のみで消えていく技術となった。ヒールの使うという大地の魔法も、これに当たるだろう。
しかしテツやユキの理の魔法は、広く知られていないというだけで、秘匿されていたわけではない。そして最近にできた新しい魔法というわけでもない。
そうでなければ、ユキから理の魔法を教えてもらうという発想自体、ルックは持てなかったはずだ。
次の日、ルックは目覚めるとすぐ食堂に向かい、イークたちが来るのを待った。
ルックが席を取ってすぐ、クロックが下りてくる。
「おはよう。今日はどうする予定だい?」
「うーん、僕は少しイークたちに教わりたいことがあるんだ。クロックは先に第二ギルドに報告してから、港区に戻ってもらっていいかな?」
「了解。じゃあ俺はもう行くよ。彼らによろしく伝えておいてくれ」
そう言ってクロックはすぐに立ち去った。
それからしばらくして、イークたちが揃って下りてきた。
彼らにクロックがもう去ったことを伝えると、少し残念がった。彼らにとっても自分たちは同志なのだろう。
それから軽い食事を済ませ、ルックたちは丸馬車に乗り第一ギルドに向かった。今日もイークがラバに乗り、座席はミクとユキが前で、ルックとヒールが後ろに座った。
「ユキは生まれつき喉が弱くて、大きな声ではしゃべれないんだ。だから第一ギルドの地下で理の魔法を教えることにした」
ミクが道中そんな説明をしてくれた。
第一ギルドの地下にはとても静かな部屋があるらしい。
「一応言っとくが、理の魔法はそんなに数はないんだ。私たちの一族に伝わっていたんだが、たったの四つだけだった」
「そうなんだ。ミクの一族っていうのはルーメスを討つ一族なんだよね? 気になってたんだけど、むかし子爵クラスのルーメスが現れたってときは、どう対処したの?」
「そのときは鉄壁の魔法でルーメスを覆って、飢え死にするまで魔法を維持し続けたらしい。三十人もの鉄の魔法師が行ったそうだ」
ルーメスが飢え死にするとなると、かなりの日数が必要だっただろう。しかしその方法ならば、絶望的な強さを持つ子爵クラスにも、確かになすすべはない。
ルックはもう一つ気になっていたことを聞くことにした。
「ミクって名前はその一族特有のものなの?」
昨日は失礼になるかもしれないと思ったが、もう聞いても大丈夫なくらいには親しくなっていると思えた。ミクは気にした素振りは見せずに答える。
「ああ、まあそんなものだな。私たちの一族は古い戦士の一族だからな。男が望まれるんだ。この時代にアレーなら男も女もないんだから、男性名なんて付けられて迷惑してるよ」
マナで行う体術に男女差はないので、男性名をつけるのは古い習わしのようなものなのだろう。ミクの説明は端的だった。しかしルックは曖昧ながら理解した。
「しゃべり方も小さい頃からこんな感じで教えられてな、今じゃすっかり身に付いてしまった。まあルックには男に間違われはしなかったけどな」
「あはは。間違われることなんてあるの?」
ルックが笑って問い返すと、ヒールが会話に割って入ってきた。ゆっくりとした話し方なのは変わらないが、どこか焦っているような不自然さを感じた。
「ねえ、ルックの仲間の方たちは他にどんな方がいるの? 会ってみたいです」
もしかしたらヒールがミクを男と間違えた本人のだろうか。ヒールは明らかに話題を変えようとしていた。
「良かったら僕たちは半月はここにいるし、会いに来て。港区の恵みの庭亭って宿なんだ」
第一ギルドに着いたのは昼過ぎだった。ルックたちはギルドの建物の隣にある酒屋で食事をした。
アルキューンではほとんどが魚と海藻と芋の料理で、味はあまりよくなかった。しかも値段はかなり高い。最近は漁業に問題があって、魚の値段が跳ね上がっているのだそうだ。
ルックは漁業の問題については心当たりがあったが、意識して何も言わないでいた。
第一ギルドでイークたちが地下室の予約をしてくれた。幸い今日はすいていたようで、地下室にはほどなく入れた。
地下室は宿の食堂ほどの広さがあり、厚い扉と壁に阻まれ、外部の音が一切聞こえなくなった。壁にも床にも天井にも帰空の魔法がかけられているらしい。壁は光籠の魔法もかけられていて、部屋の中は明るかった。
ルックは試しに石投を放った。小石が飛んで行き、壁に当たった途端にかき消えた。
「ま、そんな感じだかんな、魔法の練習には打ってつけなんだ。おいユキ、大丈夫そうか?」
イークの言葉にこくんとユキはうなずく。そしてか細く声を発した。そよ風にもかき消されそうな、本当に小さな声だった。
「じゃあ行くね」
ユキは四つの魔法を見せてくれた。
ユキの魔法には、テツが使ったような無常の魔法や、空中の水を集める魔法はなかった。しかしその効果は絶大だった。
一つは加重という魔法だ。ユキがルックにこの魔法をかけると、立っているのがやっとなほどに体が重くなった。
一つは風を生む魔法だった。閉ざされた部屋の中で空気が動き、ユキの長髪をはためかせる程の風が起こった。
一つは衝撃を放つ魔法だった。ルックがユキに指示され、石斧を作って放る。それにユキが魔法をかけると、石斧が弾き飛ばされ、壁に当たって消えた。
そして最後の一つがその衝撃を玉にして放つ魔法だった。再びルックが石斧を放ると、ユキが透明な玉を作ってその石斧にぶつけた。玉は透明だったが、玉を通した光景がいびつに歪んで見えた。そのためそこに玉があるのははっきりと理解できた。しかしルックには、その玉がなぜそれをもたらしたのかは理解できなかった。
石斧は玉がぶつかった瞬間に、歪んで圧縮された。どれほどの力が加わればそうなるのか、手斧サイズの石斧は、掌に包めるほどの大きさに縮められ、床へと落ちてマナに帰った。
ユキは小さな声でルックに耳打ちをし、マナの組み方を説明してくれた。どれもルックの剣のマナで使えるほどの魔法だった。
ルックはすぐにマナの組み方を理解し、ユキを真似てそれぞれの魔法を使ってみた。どれもユキには少し及ばないくらいの効力で、すぐに実戦に使えそうだった。
地下室を借りたのは一時間だけで、ルックが一通りの魔法を試すとすぐに時間がきた。
ルックはユキに礼を言う。ユキは小首をかしげて微笑んだ。
ルックは機嫌良く地下室から出た。しかしルックの上機嫌は長続きはしなかった。
地下室から出るなり、イークが知り合いのアレーに声をかけられた。
「お、イーク。お前聞いたか? あの話題になってた蛇だが、討ち取られたらしいぞ。カンのフエタラから来たっていうルックって少年が、石投の一発で伸しちまったって話だ」
早口で話すそのアレーは、ルックが止める間もなく言い切った。
イークたちの視線が一気にルックに集まる。
ルックは言い訳を考えたが、無駄を悟ってため息をついた。せめて噂に尾ひれが付かないように、アレーの言葉を否定した。
「とどめが石投だったってだけで、一発で倒したわけじゃないよ」
しかしルックの抵抗は無駄だったようだ。その日の内にアルキューンでは、船を飲み込むほど巨大な奇形の海蛇を、石投の一撃であっさりと、しかも無傷で討ち取ったというルックの噂が広まった。
海蛇の大きさにしろ、ルックの石投の破壊力にしろ、誰かが悪意を持って大げさに語ったのではないかと思うくらい、壮絶な有り様になっていた。




