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青の物語 ~その大陸で最も平凡な伝説~  作者: 広越 遼
第四章 ~海の旅人~
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 ルックたちに急いで席を立つことを告げたのは、クロックの頭に母からの呼び声が届いたからだった。


 クロックは宿を出て、通りを少し適当に歩いた。夜のアルキューンは人通りが少ない。その中でもほとんど人のいない通りに差し掛かると、クロックを呼ぶ声が耳に直接聞こえた。


「クロック。こっちを向いてちょうだい」


 クロックの身に緊張が走った。しかし半年ほどぶりに聞く母の声は、禁忌に触れた自分を咎めるようではなかった。


 振り返る。

 そこに立っていたのは二人だった。

 背の低い、眉間に深い皺を寄せた母と、逆に非常に背の高い壮年の男、クラムだ。

 まずは母だけが来ると思っていたクロックは、ほとんど絶望的とも言える感情を抱いた。

 母ディフィカが口を開いた。


「クロック、調子はどうなの?」


 人間の中で最も恐ろしい力を持つ二人を前にして、クロックは少し口ごもる。母の言う調子とはテスのメスを打ち合わせる役目のことだろうか。それならば順調だと言える。これまでのところ全員に協力を取り付けられているのだ。

 しかしクロック自身の体調を気づかう言葉なら、左腕の動かなくなった自分は、決して順調とは言えない。一応かなり練習を重ねて、マナを使った体術で指は動かせるようになったのだが、それが限界だった。これ以上ディフィカの気に障る事態は増やしたくなかった。


「何か言いなさい。そろそろ二十一にもなろうというのに、まともな受け答えもできないというの?」


 苛立ちの混じり始めた母の言葉に、クロックは覚悟を決めて正直に話した。


「ティナの南部にいたのは予想通り魔学者クォートだったよ。彼は俺を見た瞬間に闇の信者だって見抜いたんだ。けどたぶん協力してくれると思うよ。はっきりとは言わなかったけど、気に入られたみたいだったから。

 森人の森はリージアだったんだけど、俺は直接会わなかった。けど今一緒に行動している仲間がちゃんと伝えて、協力してくれることになった。

 二股の木のあたりはテツっていうじいさんで、問題なく協力してくれるって」


 クロックの説明の途中で、ディフィカが限界いっぱいまで目を見開いた。何に驚いたのかは分からなかったが、クロックはそのまま続けた。


「ダルダンダの黒の翼竜にも、仲間が協力を取り付けた。今のところは以上だけど、順調だと思うよ」


 いつもの癖で肩をすくめそうになったが、クロックはそれをこらえた。肩をすくめれば左の肩が上がらないことを指摘されるだろう。クロックはなるべく左腕のことは触れないようにすると決めた。


「そう。まあ順調のようだね。それであなた自身の調子はどうなの?」


 クロックはまた肩をすくめそうになるのをこらえた。


「順調だよ」


 下手なごまかしだっただろうか。ディフィカが疑うような目で見てくる。


「ふーん。まあいいわ。それでクロック。私たちがなんでここに来たのかは分かるね?」

「ああ、アルテスに向かう途中でちょっと問題があってね。闇の口の中に乗っていた船ごと入れたんだ」


 クロックの説明に、今まで黙って聞いていたクラムが反応した。


「そうか。海の上でのことならやむを得ずということでしょう」


 クラムの理解を得たクロックは、ほっと胸をなで下ろした。ディフィカも安心したような顔をしている。

 このまま仲間が進化を止める儀式をかいくぐったことは、何も聞かれないで済むのではないか。クロックは期待したが、そうはならなかった。


「クロック。あなたが闇の口に信者以外の者を通した数日後、急激な時の動きを感じました。そのことについては何かご存知ですか?」


 クラムは尋ねる口調だったが、クロックが何か知っていると確信しているようだ。黒いクラムの瞳に見下ろされ、クロックは身をこわばらせた。


 クラムはこの大陸にいる存在の中で、おそらく最も力を持つ人間だ。ディフィカよりも闇に強く染まり、それでいて正気を失っていない。

 いや、大陸中の人間の心を制御する儀式を行うなど、もうすでに発狂をしているのかもしれない。

 どちらにせよクロックには、とても恐ろしく絶対的な人間だった。

 だからクラムに対しては、クロックは非常に丁寧な言葉を選んだ。


「それも報告したいと思っておりました。先ほど申し上げた海上で起きた問題なのですが、実は妖魔界の大海蛇に襲われたのです。それから逃走するため、やむを得ず闇の口を開いた訳なのですが、逃げ続けた船は大陸から一日以上の沖合いにたどり着きました。

 その沖合いではあなたの時を止める力が及んでおりませんでした。私が気付いたときには、仲間が何か重大な秘技を伝えてしまっていたようです」


 クラムはじっとクロックを見つめてくる。黒い瞳の考えは読めず、クロックは目もそらせずに体中から汗を吹き出した。口の中が乾き、腹が縮んでしまったようだった。


「クラム。そんなことをしなくても、この子が嘘をついていないことは私が保証するわ」


 何か魔法をかけられていたのだろうか。ディフィカが制止すると、ふつとクロックの体が軽くなる。


「ああ、そのようですね。沖合いとは私も気付きませんでした。クロック。あなたの情報には感謝をいたします」

「いえ……」


 最大の闇の言葉はごく丁寧だったが、クロックにはそれが余計に恐ろしかった。

 しかしそんなクロックの態度に気付いたためか、クラムが少し寂しげに苦笑した。

 クロックは短衣の袖で額の汗を拭う。そしてここ最近の癖になっていた、右手で左腕を揉む動作をつい無意識に行った。

 それを見たディフィカがはっとした表情になり、クロックの左腕を取って持ち上げた。


「クロック、あなたこの腕はどうしたっていうのかい!」


 ものすごい剣幕でディフィカが言う。


「あなたの役割はただ各地の術者に、日取りの打ち合わせに行くだけのはずだよ。なぜこんなことになるっていうんだい」


 今まで生きてきて一度も見たことがないほど、ディフィカが動揺をしていた。そしてクロックの体を抱きしめる。

 子供の頃は大きいと思っていた母は、とても小柄だった。

 クロックは予想外の反応に戸惑い、慌てて言い訳をした。


「これはたまたまヒッリ教の信者と戦いになって、ほとんど動かなくなったんだ。だけど母さん、それほど不便はしていないんだ。闇の洗礼が強くなったみたいで、以前より体が軽いくらいなんだよ」


 クロックが言うと、母はクロックの体からパッと顔を上げた。そしてクロックの体を軽く押し、暖かなぬくもりが離れた。ディフィカは悲痛な面持ちでクロックを見つめる。なぜかクラムも同じ表情をしていた。


「気付いて然るべきでした。クロックは船ほどの大きさの闇の口を作ったのです。私は今ここであなたが神官となったことを認めます。ディフィカ、よろしいですね?」

「仕方ないじゃないの。私とあなたが認めずして誰が認めるんだい」

「そう投げやりにはならずとも良いでしょう。洗礼を受けなければクロックはもうすぐ死んでいたのですから」


 クロックはクラムの言葉に驚いた。しかしよくよく考えてみると、クラムは三千年以上を生きている人間だ。彼の言うもうすぐは、クロックの感覚とは違うのだろう。

 闇の信者は神官になれば、永遠とも思える時を生きることができる。現在最も年長の者は、六千年も前から生きているという。

 神官になるには儀式などは必要なく、ヒッリ教のように自ら進んで行うものでもない。そもそも揺らぎの神の祝福と違い、闇の洗礼は明確な段階などはない。ただ闇の洗礼の度合いを、神官以上の信者二人が確認し、認めるだけのことだった。


「ありがとうございます。これからも一層信心して参ります」


 クロックは二人の認めを受けてそう言った。それにはまたディフィカもクラムも複雑そうな表情をした。


 母とクラムは去り、クロックは宿に戻った。一階の食堂を覗いてみたが、そこにはルックたちの姿はもうなかった。

 三階に上がって部屋の入り口に掛けられた毛皮を押し開けると、中でルックが二本の剣の点検をしていた。


「あ、おかえり。どこに行ってたの?」


 クロックに気付いたルックが声をかけてきた。クロックは右肩をすくめる。我慢していた動作を解禁したので、少し大げさな仕草になってしまった。


「ちょっと母さんに会っていたんだ」


 ルックが嫌そうな顔をした。ルックにとってもやはりディフィカは恐ろしい相手なのだろう。クロックにとってルックは、いつもどこか余裕を感じさせる少年だったが、あの母とクラムよりは明らかに自分に近い感覚を持っている。

 もちろんひさびさに母に会ったのは寂しさが埋まる思いだったが、近い感覚の仲間がいるのもありがたかった。


「船で言ってたことだけど、闇の大神官が僕たちを殺しに来る事態は避けられたんだよね?」

「ああ。たぶんだけどね」


 クロックがからかって曖昧に返答すると、ルックは呆れたように目を閉じ眉を上げた。それから何も言わずに剣の点検に意識を戻した。

 クロックはそんなルックを見ると、楽しくてしょうがなくなって声を上げて笑った。

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