⑥
ルックたちに急いで席を立つことを告げたのは、クロックの頭に母からの呼び声が届いたからだった。
クロックは宿を出て、通りを少し適当に歩いた。夜のアルキューンは人通りが少ない。その中でもほとんど人のいない通りに差し掛かると、クロックを呼ぶ声が耳に直接聞こえた。
「クロック。こっちを向いてちょうだい」
クロックの身に緊張が走った。しかし半年ほどぶりに聞く母の声は、禁忌に触れた自分を咎めるようではなかった。
振り返る。
そこに立っていたのは二人だった。
背の低い、眉間に深い皺を寄せた母と、逆に非常に背の高い壮年の男、クラムだ。
まずは母だけが来ると思っていたクロックは、ほとんど絶望的とも言える感情を抱いた。
母ディフィカが口を開いた。
「クロック、調子はどうなの?」
人間の中で最も恐ろしい力を持つ二人を前にして、クロックは少し口ごもる。母の言う調子とはテスのメスを打ち合わせる役目のことだろうか。それならば順調だと言える。これまでのところ全員に協力を取り付けられているのだ。
しかしクロック自身の体調を気づかう言葉なら、左腕の動かなくなった自分は、決して順調とは言えない。一応かなり練習を重ねて、マナを使った体術で指は動かせるようになったのだが、それが限界だった。これ以上ディフィカの気に障る事態は増やしたくなかった。
「何か言いなさい。そろそろ二十一にもなろうというのに、まともな受け答えもできないというの?」
苛立ちの混じり始めた母の言葉に、クロックは覚悟を決めて正直に話した。
「ティナの南部にいたのは予想通り魔学者クォートだったよ。彼は俺を見た瞬間に闇の信者だって見抜いたんだ。けどたぶん協力してくれると思うよ。はっきりとは言わなかったけど、気に入られたみたいだったから。
森人の森はリージアだったんだけど、俺は直接会わなかった。けど今一緒に行動している仲間がちゃんと伝えて、協力してくれることになった。
二股の木のあたりはテツっていうじいさんで、問題なく協力してくれるって」
クロックの説明の途中で、ディフィカが限界いっぱいまで目を見開いた。何に驚いたのかは分からなかったが、クロックはそのまま続けた。
「ダルダンダの黒の翼竜にも、仲間が協力を取り付けた。今のところは以上だけど、順調だと思うよ」
いつもの癖で肩をすくめそうになったが、クロックはそれをこらえた。肩をすくめれば左の肩が上がらないことを指摘されるだろう。クロックはなるべく左腕のことは触れないようにすると決めた。
「そう。まあ順調のようだね。それであなた自身の調子はどうなの?」
クロックはまた肩をすくめそうになるのをこらえた。
「順調だよ」
下手なごまかしだっただろうか。ディフィカが疑うような目で見てくる。
「ふーん。まあいいわ。それでクロック。私たちがなんでここに来たのかは分かるね?」
「ああ、アルテスに向かう途中でちょっと問題があってね。闇の口の中に乗っていた船ごと入れたんだ」
クロックの説明に、今まで黙って聞いていたクラムが反応した。
「そうか。海の上でのことならやむを得ずということでしょう」
クラムの理解を得たクロックは、ほっと胸をなで下ろした。ディフィカも安心したような顔をしている。
このまま仲間が進化を止める儀式をかいくぐったことは、何も聞かれないで済むのではないか。クロックは期待したが、そうはならなかった。
「クロック。あなたが闇の口に信者以外の者を通した数日後、急激な時の動きを感じました。そのことについては何かご存知ですか?」
クラムは尋ねる口調だったが、クロックが何か知っていると確信しているようだ。黒いクラムの瞳に見下ろされ、クロックは身をこわばらせた。
クラムはこの大陸にいる存在の中で、おそらく最も力を持つ人間だ。ディフィカよりも闇に強く染まり、それでいて正気を失っていない。
いや、大陸中の人間の心を制御する儀式を行うなど、もうすでに発狂をしているのかもしれない。
どちらにせよクロックには、とても恐ろしく絶対的な人間だった。
だからクラムに対しては、クロックは非常に丁寧な言葉を選んだ。
「それも報告したいと思っておりました。先ほど申し上げた海上で起きた問題なのですが、実は妖魔界の大海蛇に襲われたのです。それから逃走するため、やむを得ず闇の口を開いた訳なのですが、逃げ続けた船は大陸から一日以上の沖合いにたどり着きました。
その沖合いではあなたの時を止める力が及んでおりませんでした。私が気付いたときには、仲間が何か重大な秘技を伝えてしまっていたようです」
クラムはじっとクロックを見つめてくる。黒い瞳の考えは読めず、クロックは目もそらせずに体中から汗を吹き出した。口の中が乾き、腹が縮んでしまったようだった。
「クラム。そんなことをしなくても、この子が嘘をついていないことは私が保証するわ」
何か魔法をかけられていたのだろうか。ディフィカが制止すると、ふつとクロックの体が軽くなる。
「ああ、そのようですね。沖合いとは私も気付きませんでした。クロック。あなたの情報には感謝をいたします」
「いえ……」
最大の闇の言葉はごく丁寧だったが、クロックにはそれが余計に恐ろしかった。
しかしそんなクロックの態度に気付いたためか、クラムが少し寂しげに苦笑した。
クロックは短衣の袖で額の汗を拭う。そしてここ最近の癖になっていた、右手で左腕を揉む動作をつい無意識に行った。
それを見たディフィカがはっとした表情になり、クロックの左腕を取って持ち上げた。
「クロック、あなたこの腕はどうしたっていうのかい!」
ものすごい剣幕でディフィカが言う。
「あなたの役割はただ各地の術者に、日取りの打ち合わせに行くだけのはずだよ。なぜこんなことになるっていうんだい」
今まで生きてきて一度も見たことがないほど、ディフィカが動揺をしていた。そしてクロックの体を抱きしめる。
子供の頃は大きいと思っていた母は、とても小柄だった。
クロックは予想外の反応に戸惑い、慌てて言い訳をした。
「これはたまたまヒッリ教の信者と戦いになって、ほとんど動かなくなったんだ。だけど母さん、それほど不便はしていないんだ。闇の洗礼が強くなったみたいで、以前より体が軽いくらいなんだよ」
クロックが言うと、母はクロックの体からパッと顔を上げた。そしてクロックの体を軽く押し、暖かなぬくもりが離れた。ディフィカは悲痛な面持ちでクロックを見つめる。なぜかクラムも同じ表情をしていた。
「気付いて然るべきでした。クロックは船ほどの大きさの闇の口を作ったのです。私は今ここであなたが神官となったことを認めます。ディフィカ、よろしいですね?」
「仕方ないじゃないの。私とあなたが認めずして誰が認めるんだい」
「そう投げやりにはならずとも良いでしょう。洗礼を受けなければクロックはもうすぐ死んでいたのですから」
クロックはクラムの言葉に驚いた。しかしよくよく考えてみると、クラムは三千年以上を生きている人間だ。彼の言うもうすぐは、クロックの感覚とは違うのだろう。
闇の信者は神官になれば、永遠とも思える時を生きることができる。現在最も年長の者は、六千年も前から生きているという。
神官になるには儀式などは必要なく、ヒッリ教のように自ら進んで行うものでもない。そもそも揺らぎの神の祝福と違い、闇の洗礼は明確な段階などはない。ただ闇の洗礼の度合いを、神官以上の信者二人が確認し、認めるだけのことだった。
「ありがとうございます。これからも一層信心して参ります」
クロックは二人の認めを受けてそう言った。それにはまたディフィカもクラムも複雑そうな表情をした。
母とクラムは去り、クロックは宿に戻った。一階の食堂を覗いてみたが、そこにはルックたちの姿はもうなかった。
三階に上がって部屋の入り口に掛けられた毛皮を押し開けると、中でルックが二本の剣の点検をしていた。
「あ、おかえり。どこに行ってたの?」
クロックに気付いたルックが声をかけてきた。クロックは右肩をすくめる。我慢していた動作を解禁したので、少し大げさな仕草になってしまった。
「ちょっと母さんに会っていたんだ」
ルックが嫌そうな顔をした。ルックにとってもやはりディフィカは恐ろしい相手なのだろう。クロックにとってルックは、いつもどこか余裕を感じさせる少年だったが、あの母とクラムよりは明らかに自分に近い感覚を持っている。
もちろんひさびさに母に会ったのは寂しさが埋まる思いだったが、近い感覚の仲間がいるのもありがたかった。
「船で言ってたことだけど、闇の大神官が僕たちを殺しに来る事態は避けられたんだよね?」
「ああ。たぶんだけどね」
クロックがからかって曖昧に返答すると、ルックは呆れたように目を閉じ眉を上げた。それから何も言わずに剣の点検に意識を戻した。
クロックはそんなルックを見ると、楽しくてしょうがなくなって声を上げて笑った。




