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ダンバースがいなくなってしばらくすると、ダンバースに殴られたのだろう男も意識を取り戻した。
男はキーネで、見たところ歳はダンバースと同年代だ。しかしダンバースのような荒々しさはなく、明らかに体を使う職業ではないだろう。枝を組み立てたような細い男だ。
ルーンが治水を張るほどの怪我はなく、簡単に事情を話してくれた。
「迷惑かけたみたいだな。俺はジョイス。あいつの幼なじみみたいなもんだ。
ダンバースは狂っちまってるんだ。あいつ、昔は正義感に溢れる男だったんだが、今じゃ善悪の区別も付かない大馬鹿やろうになっちまった。俺はそれがどうしても納得できなくて、あいつを説得しようとして、まあ、この様だ」
ジョイスと名乗った男は、殴られた腹を押さえながら目を伏せた。
ルックは切なげに語る彼を哀れに思った。どんな事情があったのかなどもちろん知らない。しかし自分がもしルーンとこんな仲違いをしたら、心が割れたように痛むだろう。
「ルック、ジェイヴァーを待たせたら悪いわ。話はこのくらいにして行きましょう」
ルックはジョイスに何かしてやれないか考えていた。それをリリアンが見抜いたのだろう。ルックの思考を制止するように言う。気付けば馬車も応急処置がされていた。
ルックが振り返って見たリリアンの目は、深入りするべきではないと、静かに語りかけていた。
ジョイスを置き去りにして立ち去ると、リリアンが諭すように語る。
「旅人なんていうのは無責任なものなの。彼に何かしてあげたとしても、その結果を見届けられはしないわ。そうしたら結局、私たちがしたことが、本当に良かったことなのかなんて分からない。そんな人間だから、私たちは個人的な問題には立ち入らないわ」
リリアンはここ最近見なかった、遠くを見るような目をしていた。
ルックは、出会ったときに強く心を惹かれたこの眼差しの、本当の意味を初めて知った。
ジェイヴァーが言うには、理由はどうであれリリアンの判断は正しかったのだという。
「ダンバースとジョイスってな、この街じゃ知れた悪たれなんだよ。最近死んだらしいが、もう一人と三人で、ほんのガキの頃から火付けや殺しもやってやがった。どうして仲違いしたかは知らねえが、ダンバースはまあ見ての通りのやつだし、ジョイスの方も相当危ない考えの人間だ。関わらなくて正解だったよ」
そこまでその二人に詳しいのだから、ジェイヴァーもまともな人間ではないのだろうが、そのことには誰も触れなかった。
ジェイヴァーの宿に着くと、彼から一人のアレーを紹介された。
緑色の髪の、線の細いアレーだ。目が悪いのか、厚く重たそうな眼鏡をかけた男性だ。歳はジェイヴァーと同じだと言った。しかし顔立ちは幼く、ぱっと見ただけだと二十前にも見える。その彼と同い年だというなら、ジェイヴァーもやはり見た目よりはだいぶ若いのだろう。二人が並ぶと二十は年齢に開きがあるように思えるから、同じ歳と言われると少し笑えた。眼鏡の男はジェイヴァーのような不真面目な雰囲気はなく、身なりも整っていた。
アレーだけれど戦士ではなさそうだとルックは思った。武器も携帯していないし、身のこなしがどこか固く、戦士どころか、体を使う仕事をしているようにも見えない。
「こいつはナーム。俺の船の船員だ」
しかしジェイヴァーは意外にも、彼を船員だと紹介した。船乗りも体を使う仕事だという。ナームの体つきでは酷なように思えた。
「本当に大丈夫なの? 結構長い航海になるのよね。帆を張るのにも錨を降ろすのにも、結構な体力が必要と聞いたことがあるけれど」
リリアンもルックと同じ思いを持ったようで、不信げに尋ねる。
「あぁ。ナームは確かにケンカとなりゃ俺より弱っちぃ奴だがな、こいつなしでは航海はできねぇよ」
それにジェイヴァーはそう答えた。茶色の髪のジェイヴァーよりケンカが弱いというのが本当なら、ナームはアレーの中では最弱だと言えるだろう。
ジェイヴァーが今度は、ナームにルックたちのことを紹介した。
「そう。君たちが今回のお客さんなんだね。僕たちは船で人を運ぶのが専門なんだ。不安には思わなくていいよ。ジェイヴァーの臭いにも三日もあれば慣れるだろうしね」
ナームは明るい性格のようで、そんな冗談を言ってきた。リリアンはナームには好感を持ったようで、軽口を返す。
「そんな専門の船乗りもいるのね。まあ、前半の方は信じることにするわ」
リリアンの物言いにはルックは思わず笑ってしまった。リリアンの言うとおり、ジェイヴァーの臭いに三日で慣れるとは信じられない。
「俺の臭いはな、船を降りた客が三日ほどすると恋しくなってくるって評判なんだが」
ジェイヴァーは自分の腕を鼻に近付けて嗅ぎ、そんなことを言う。それに珍しくロロが手放しで笑い、場が和んだ。
「な、いい奴だろ?」
クロックはどこか安心した顔でそう確認を取った。リリアンたちの評価が悪くなさそうで、自分の見立てに狂いがなかったとほっとしたのだろう。
「じゃあクロック。本題に入らせてもらうが、俺に会いに来たってことは、仕事を頼んでくれるってことでいいんだな?」
「ああ、もちろんそのつもりだよ」
クロックは右肩をすくめて言う。そんなクロックにジェイヴァーは訝しげな顔を向けた。
「なんだ? お前、左手をどうかしたのか?」
「ちょっとね。それでジェイヴァー、いつ頃出航できそうなんだ?」
「ちょっと準備は必要だからな。まあ三日後ってとこか? あ、お前らの食糧はそっちで用意してくれよ」
ジェイヴァーはそれ以上深くは触れず、話題を変えた。
しばらくジェイヴァー、ナームと打ち合わせを続けたが、ルックも彼ら二人には好感を持った。どうやら本当にそう悪い人間ではないようだ。
出航は四日後と決まり、それまでにルックたちは食糧などの準備をすることになった。船での旅は片道でひと月、戻りと現地での時間を加味すると二月半ほどと予想されたが、直接アルテス北部まで向かうわけではないらしい。
とりあえず半月分ほどの食糧が用意できれば足りる。とはいえ全く余裕がないのも不安なので、市場でひと月分の食糧を買うことにした。
その日はジェイヴァーと別れてからすぐ宿に戻り、次の日に彼らは全員で、荷車を引いて街へと繰り出した。
ひと月は二十日間だ。日に三回食べるとして、五人で三百食分と、かなりの量になる。
「手分けをして集める方がいいかしらね」
ルックは確かに一ヶ所で買える量の食糧ではないと考え、リリアンの言葉にうなずいた。
「普通船乗りっていうのは、どこで食糧を仕入れるものなんだ? まさか俺たちみたいに買って回るってわけじゃないだろうね」
「フィーンでは専門の商人がいたわね。カンでも変わらないんじゃないかしら? なんのつてもない私たちには、売ってくれないでしょうけどね」
クロックは食糧集めを面倒に感じていたのだろう。リリアンの答えに肩を落とした。
「手分け、別にいいが、荷車は一つだ。どうする?」
「その問題はあったわね」
ロロの質問にリリアンは考え込んだ。その様子を見ながら、ルーンがにやにや笑う。
「荷車が万全じゃないのもあるし、積み荷がたくさん増えちゃったもんねー」
荷車はダンバースに壊されてしまってから、簡単に応急処置をしただけだ。ルーンもビーアも荷車には乗らず、ルーンはルックの隣を歩き、ビーアはルーンの頭の上で羽を休めていた。
「そんなに迷惑だったなら、捨てて来ようか?」
憮然としてルックは言った。ルーンが言った積み荷は、ルックが仕入れた金貨のことだ。さすがに金貨を捨てるのはもったいない。ルーンはルックの言葉を笑って流し、話題を変えた。
「ビーアって魚とかもとれたりするのかな?」
「どうかな? 海鳥は魚を食べるらしいけど、ビーアは金属だし、海水には弱そうな気がするな」
「えー、ビーアならぱっと取ってこられるから、海水なんてほとんど気にならないよ」
ルーンの反論に、ルックは魚を捕らえるビーアを想像してみた。確かにビーアの俊敏さなら問題がないように思える。
「ビーアがいるんだから、そこまでたくさん買い込まなくってもいいんじゃない?」
ルーンはアーティス人らしく、節約を考えて言ったのだろう。けれどルックはそれの問題点に気付いて、少しおかしくなった。
「そうだね。それならルーンの分の食糧は三日分くらいにしよっか」
意地の悪い笑みでルックが言うと、ルーンははっとしたように目を見開いた。
もしもビーアが狩りをできなかった場合、さぞひもじい思いをすることだろう。
ルックの意地悪い笑みにそれを気付かされたルーンは、ふくれっ面で睨んできた。
ルックたちは馬車の後ろ側で話していた。前方でもリリアンとクロックとロロが二手に別れるかを相談している。
「おい、てめぇら。ちょっと止まれ」
そんなとき、ルックたちに横柄な口調で声がかかった。しかしルックたちは誰も、それが自分たちに向けられたものだと気付かず、反応が遅れてしまった。横柄な声が口調を荒げ、ようやくルックたちは足を止めた。




