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青の物語 ~その大陸で最も平凡な伝説~  作者: 広越 遼
第三章 ~陸の旅人~
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 リリアンの使う体術は瞬間的な力を生むもので、継続的な力には効果がない。継続的な力、例えばルックを背負うというのはそれにあたる。ロロたち二人と合流し森を出るころには、リリアンも疲れて息が荒くなってきていた。


「俺、ルック背負う。代わるぞ」


 ロロがそう申し出てくれたが、リリアンはそれを断った。効率が悪いのは分かっていたが、今はルックを人に任せたくはなかった。


「ならビーア。お前、こっち来い」


 ロロはルックの肩に止まるビーアを手招いた。ビーアは素直にロロの肩に飛び移る。


「ごめんなさい。ルックが気を失ったのは私のせいだから、私が責任を持って運んであげたいの」


 リリアンはルードゥーリ化のことは特に話していなかった。大事なのは過程ではなく、結果依頼がうまく行ったことなのだ。

 過程はどうあれ、これでこの領内で人が猿に襲われることはなくなった。船出のための資金も手に入る。誰一人重大な損傷はない。

 結果は全て良かった。だが、リリアンの胸に安堵はかけらもなかった。ただ胸中を支配するのは重たい不安だけだった。


 ウィンに目の前で死なれたとき、リリアンは途方もない、とても言葉では説明できない感情を抱いた。間違いなく言えるのは、もう二度とあの感情は抱きたくないということだ。


 最善策だったことは間違いないと思う。そしてルックに覚悟を持っておいてもらうことも無理だった。

 ただリリアンは策に溺れるあまり、ルックの気持ちを全く思いやっていなかったのだ。どうしようもないことでも、それがとにかく悔やまれた。

 そして不安というのは、自分がルックに嫌われてしまうかもしれない、という想像から来るものだった。


 身勝手な話ね。


 リリアンは憎々しげに自嘲した。自分という人間はルックの心中よりも、自分の評価が気になるらしい。


 数時間して着いたララニアは、また止むことのない騒音に包まれていた。

 領主への報告は明日にすると決め、一行はそのまま宿に向かう。宿ではルーンが何かの魔法を研究していたのか、小さなアニーをいじっていた。

 暗い顔のリリアンとぐったりして動かないルックに、出迎えたルーンは不吉な誤解を持ったらしい。リリアンが横たえたルックに慌てて近付いてくる。


「あ、あのアニーを割ったのよ」


 ルーンはそれだけの説明で全て理解してくれた。


「ずいぶんと顔色は悪いようですが、マナを使い果たしたあとの症状と、同じものだと思います」


 カイルが補足をするようにそう言った。続けて好奇心を露わにルーンに尋ねる。


「あのアニーとはどういったものだったんですか?」

「うーんとね、簡単に言うとルックのルードゥーリ化を発動させるための魔法が入ってたの」


 驚くカイルと何も知らないロロに、ルーンは詳しい説明を始めた。

 リリアンは彼らにルックを任せ、宿に湯を注文しに部屋を出た。


 リリアンの生まれたヨーテスでは、樹上に家を造る村もあったため、階段を登りやすくする技術が発達していた。対してカンは一階建ての建物が多く、この宿のように階段があるのは珍しい。カンの階段はとても急で、疲れたリリアンの足は自ずと慎重になった。

 一階には宿の受付がある。椅子を使う習慣のないカンでは、受付も床に直接絨毯を敷いただけのものだった。カーペットの上には若い宿の主人が座っていて、だらしなく足を伸ばして本を読んでいる。

 一階は外の騒音を防ぎきれてなく、リリアンは少し声を張り上げて言った。


「また湯を頼みたいのだけど」

「またですか? お好きなんですね」


 主人は本から顔を上げた。それから立てた膝に手を突き立ち上がると、左足を引きずりながら水を用意しに行った。

 たらいにいっぱいの水を沸かすのには時間がかかる。リリアンは一度部屋へ戻り、湯浴みの準備をする事にした。

 急な階段を上がるにつれ、外の喧騒は遠ざかって行く。部屋の前では微かに聞こえるだけになり、扉を開けて中に入り、再び扉を閉めるともう完全に聞こえなくなる。


 リリアンが部屋へ戻ったとき、ルーンたち三人は何も話していなかった。というよりも、リリアンが来たことで会話を中断させたのだろうか。


「おかえりー」


 少し違和感のある間を開けてルーンが言う。

 リリアンはすぐに三人がカイルの話をしていたのだと悟った。小太刀が得意な武器だと隠していたり、ザッツの従者には何か秘密があるのだろう。そしてそれをルーンとロロは知っているのだ。


「またすぐ出るわよ」


 リリアンはふと思い至った。カイルの武器はシャルグが使っていたものとほぼ同じ形の剣だ。大陸中を巡ったリリアンもあまり見たことのない武器だった。つまりカイルはアーティスの生まれなのだろう。


 そんなことを考えながら、リリアンは旅の袋の中から綿のタオルを一枚取り出した。それと匂いを付けるクリナ花を漬けた油の小瓶を一つ、替えの服を一式、細々した意匠を施された鉄の櫛を一つ出す。

 櫛はリリアンの趣味ではなかった。町の女性が好むような可愛げのあるデザインで、髪をとかすのには少し小さい。リリアンの髪は短いので、その櫛でもそれほど困ることはないが、実用的とは少し言い難かった。


 その櫛はもっと幼かったころ、かつての仲間ダーミヤから贈られたものだった。ダーミヤは無骨で思いやりのある大人だった。剣の腕を研くのに明け暮れていたリリアンを見て、彼は別の道もあるのだと教えるために、これを渡して来たのだろう。

 少女だったリリアンはその櫛の可愛らしさに胸をときめかせた。しかしダーミヤの思いには、そのときは全く気付けなかった。


 リリアンは小瓶と櫛をタオルに包み、その上に替えの服を置いて再び部屋を出た。

 一階では足の悪い主人が、柱に寄りかかりながらまた本を開いていた。リリアンが近付くと彼は本から目を離す。


「今日は調子よく火がかけられましてね。じきに湯が沸くから、湯浴み場で待っていて下さい。下働きの者に運ばせますので」


 湯浴み場は一階にある。フエタラで取った宿は各部屋に湯浴み場があったが、この宿では共同のものが一つだけだ。この宿の方が高級だが、あの階段では各部屋へたらいに入れた暑いお湯を運ぶことはできないのだろう。


 湯浴み場は背の高い敷居で男女に区切られている。湯浴み場へ入る扉の前は待合所になっていて、縦長のカーペットが一枚敷かれていた。人が十人ほど余裕を持って座れる大きさがある。しかし今そこには二人の男性が座っているだけだった。二人は商人らしく、商品の仕入れについてぼそぼそと話をしていた。


 しばらく待つと背の高いたくましい下働きが、一抱えのたらいを持ってやってきた。

 リリアンは下働きに湯浴み場までたらいを運んでもらい、お礼に銅貨を数枚と湯の代金を渡した。


 湯浴み場の中には誰もいなかった。手前に脱いだ服を置く棚があり、リリアンはそこに櫛と着替えを置いて服を脱いだ。金色の籠手だけを付けた格好になると、たらいを置いてもらった湯浴み場の奥へ進んだ。

 湯気の立つたらいにタオルを浸し、体を一通りこする。備え付けの手酌でタオルをゆすぎ、今度はタオルにクリナ花の匂油をたらす。それで再び全身を磨いて、また手酌でタオルを丁寧にゆすぐ。

 そのあとリリアンは着ていた服を棚から取り出し、手酌で湯をかけ洗い始めた。猿の血がいたるところにこびりついていたが、丁寧に揉むうちに目立たなくなった。

 そうしているうちにたらいのお湯はぬるくなり、リリアンはそのぬるま湯で髪を洗った。

 短いクリーム色の髪は濡れると少し赤みがかって見えた。


 リリアンは立ち上がってタオルを絞り、全身の水気を拭き取った。一般的な女性よりも一回り小柄なリリアンの体は、町娘のように傷一つ付いていない。とてもこの姿からは大陸でも指折りの戦士だとは想像が付かない。


 リリアンはタオルを再び絞り、今度は髪を拭く。最後にもう一度タオルを絞ると、リリアンはたらいのお湯を捨てた。湯浴み場はわずかに傾斜が付けられていて、流した水は湯浴み場の外へ流れていった。

 替えの服を身に纏い、リリアンは髪が乾くまで外の絨毯に腰をおろして商人たちの話に耳を傾けた。


「全くな。最近は税も高くなっているっていうのに」

「アーティスの平野さえ手には入れば、税も安くなるだろ? それまでの辛抱さ」

「いつになりゃ手に入るんだかな。俺はそんな先の話より、猿と蛇をなんとかしてほしいね」

「猿はもうじき討伐隊が出るだろ?」

「あん? お前知らないのか。猿退治で集めたアレーがみんな町を出て行ってるんだよ。なんでもイラカに聞いたところ、猿どもがサニアサキヤの軍団を壊滅させただとか」

「イラカって誰だ? 宝石商の息子か?」

「ああ、そいつだ。あれが討伐に来てた旅のアレーに聞いたんだとさ」


 領内は景気が悪いらしく、商人たちは暗い口調でため息を吐き合っていた。

 猿というのは南部猿のことだろう。蛇というのがなんのことかは分からなかったが、少なくとも商人たちの不安の半分は取り除かれていた。リリアンは結果と過程のことをまた考え始め、先ほどよりも実感を持って、結果が良かったことだと考えられた。そのためリリアンの心も多少は軽くなった。

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