②
自分の利き手がもう動かない。その事実は理解できていた。実際にいくら左腕に力を込めようとしても、ぴくりとも反応が返ってこないのだ。
だがそれを割り切れたかどうかとなると、そう簡単には済まない。
目が覚めてからは眠りすぎによるだるさはあったが、体調は普段通りになっていた。
だからこそ、自分の陥った状況について思いを巡らせないわけにはいかなかった。
隣の部屋にいたザッツに遅い昼食をもらい、クロックは隠れ家の外に出てみた。
無計画に広がったフエタラの城下町は、薄暗い袋小路を作った。そこに忘れ去られた一軒の廃屋。
クロックは久しぶりに外の空気を堪能しようと思っていたが、この場所で外の開放感を感じることはできなかった。
クロックを追うようにしてリリアンが出てきた。なぜか剣を抜いている。
「クロック。昨日あなたが寝る前に話していたこと、決心に変わりはないかしら?」
クロックは問われ、自分の心に確認を取った。
彼はまっすぐリリアンを向いて頷く。
「そう。それならあなたは右腕で戦えるようにするべきよ」
リリアンは真摯な目を返してそんなことを告げてきた。
まだ考えてもなかったことだが、それには全面的に同意できた。
「なるほどね。それで俺と手合わせをしてくれようって言うわけか。でもいいのかい? 仲間内での手合わせは厳禁なんだろ?」
「手合わせというほどのことはしないつもりよ。私は受けに徹するから、あなたは好きなだけ打ち込むといいわ」
クロックはほんの一瞬だがためらった。リリアンに手合わせを禁じられたルックとの試合では、クロックもルックの肩を負傷させた。クロックはそのことに少しトラウマを持っていたのだ。
だがリリアンの強さは、ルックと渡り合うクロックから見ても一線を画す。もちろん母のディフィカほどではないが、右腕しか使えない今の自分が遠慮すべき相手ではないだろう。
「そうだね。そうさせてもらうよ」
クロックは背中に手を回し、今までとは逆の角度で固定していた爪を取り出す。
もともと右手が使えないわけではない。しかし右手は左手ほど器用には動かせない。斬りつけるとき、刺し貫くとき、力を込めるのが数瞬遅れる。力のこもっていない攻撃など、簡単に振り払われてしまう。だから今まで以上に反応を早くしなければならない。
クロックはリリアンが剣を構えると同時に間合いを詰めた。
どういうわけか思っていたよりも体が軽い。
「!」
驚いたのはクロックもリリアンも同じだった。そしてクロックは肝を潰される思いだった。
相手がもしリリアンではなかったら、もしルックだったら、この手で仲間の命を奪っていたかもしれない。
クロックの爪はクロックが思い描いた軌道を、クロックが思い描いた速度よりもはるかに速く振り払われたのだ。
「あなた本当は右利きだったなんてことはない?」
その後一時間ほど打ち込みを続け、ザッツの住処に戻るなりリリアンが言った。確実にボルトに敗れるまでの自分より、速く、力強くなっていたのだ。
「おいおい。俺が二十年間それに気付かないで生きてきたっていうのかい?」
「あなたならあり得そうな話ね」
そんな話をしながら戻ってきた二人に、ザッツが不思議そうな顔を向けてきた。
「なにかあったのか?」
「それほどの事じゃないんだけどね。俺は右腕でも一流の戦士だったらしい」
クロックは右肩をすくめて言った。
実際にはクロック自身が自分の速さについていけず、むちゃくちゃに振り回していたのに近かったので、一流にはほど遠い。
「まあ光明が差したのは事実でしょうね」
ザッツが疑わしそうな目をリリアンに向け、リリアンが苦笑いをしつつ答えた。
「まったく。もう数日早くこの力が手に入っていれば、利き腕を失わずにすんだのにな」
ぼやくようにクロックは言った。冗談めかして言うつもりが、思っていたよりおどけられなかった。
「だけどどうしてそんな力が強くなったの?」
「ああ、この間話していた闇の洗礼のせいだろうね。どういうわけか洗礼が強くなったんだと思う」
これにはリリアンは疑わしげに首をひねっている。信者の自分ですら良く分かっていないのだ。リリアンに分かるとは、最初から期待していない。
「まあとりあえずしばらく休んだらまた練習をしましょう。北山の猿退治には間に合わなくても、船出までには使えるようになるかもしれないわ」
リリアンの提案に異存はなかった。早く元のように戦えるようになれば……
そこまで考えたクロックは、自嘲の笑みを浮かべた。
母が崩壊させかけてしまった世界を救いたい。それは間違いのない本音だ。しかしできれば、ルックたちとそれをしたいのだ。
その想いが、昨日の強い決意表明に少しも影響がなかったと言えば嘘になる。
クロックは今、それに気が付いたのだ。
闇である自分を受け入れてくれた大切な仲間たち。
クロックにはこのときまでに、確かな強い仲間意識が芽生えていたのだった。
次の日の夜、仕事を終えたルーンはヒルドウとの約束通り、ザッツの住処へ訪れた。
蔦の絡まる廃墟の前では、クロックとリリアンが試合をしていた。
戦闘に不慣れなルーンから見ても、非常に激しい打ち合いだった。しかしリリアンの表情はとても涼しげで、余裕がうかがえた。
リリアンはクロックの攻撃をことごとく受けきりながら、ルーンが近付いて来たことにまで気付いてくれたようだ。
ふとリリアンが真剣な目つきになり、クロックの爪を弾き飛ばした。
クロックはたたらを踏むように数歩後ろへ後退する。
「止まって」
リリアンが言うと、ようやくクロックもルーンに気付いた。
「ルーン! 久しぶりだな」
丸二日会っていないだけなのに、久しぶりとは大げさだ。しかしクロックがやけに嬉しそうだったので、それは言わないでおいた。
「クロック、もうそんなに動いて平気なの?」
「ああ。調子はすこぶるいいようだね」
クロックは右肩だけを軽くすくめる。
左腕が動かないことが気にならないわけではなかった。しかしクロックの口調がいつもの気取った感じだったので、ルーンは少し安心した。
「ちょっとクロックだけに話したいことがあるんだけど、いいかな?」
「クロックだけに? 別に構わないわよ」
ルーンの言葉にそう請け合ったあと、リリアンは少し思案して隠れ家の中に戻って行った。
リリアンがいなくなると、問いかけの視線でクロックが見てくる。
「大したことじゃないんだけど、ちょっとこっちにいい?」
ルーンは念のため隠れ家から少し離れた位置まで移動した。
「クロック、カイルにはまだ会ってないんだよね?」
「ああ、ザッツの従者のか? 昨日から金策に出かけてるらしいからね。彼がどうかしたのか?」
「実はそのカイルって、クロックの知ってる人みたいなの」
クロックは驚いたように目を丸くする。心当たりを考えたのだろう。少し間を空け聞いてくる。
「俺は自慢じゃないが、あまり顔は広くないんだ。ザッツの従者だったら知ってはいないと思うけど」
「うんうん。それは私も思った。けどね、カイルはほんとはザッツの従者じゃないんだって」
「なんだって?」
「あ、けど悪だくみをしてるとかじゃないから安心してね。詳しい事情は知らないけど、実はカイルって青の暗殺者なの」
クロックはルーンの予想以上に唖然としたまま固まった。ルーンはクロックの大げさな反応が少し面白くなり、そのまま黙って様子を見た。
クロックは時間が止まってしまったかのように大口を開けて何も言わない。じっと見つめていると、左右非対称の前髪が滑稽に見えてきた。そこまでが限界だった。ルーンは思わず声を立てて笑ってしまった。
「あはは、クロック、馬鹿みたいな顔してるよ! そんなに大げさに驚くほどだった?」
クロックはクロックで、あまりのことに頭が回らなくなり、無意識のうちに固まってしまっていたのだろう。ルーンにそう指摘されると途端に恥ずかしくなったようだ。不思議なもので、そうするとクロックの頭に血が巡り始めたらしい。
「青の暗殺者がザッツを狙ってるわけじゃないんだよな? それならあれがどこで何をしようと構わないんだけど、でも青の暗殺者だって?」
「うんうん。私を育ててくれた一人に、そのお兄さんがいるんだよ」
「そうなのか? 俺とあいつが知り合いだっていうのは、当然あいつから聞いたんだよな。ていうことは君にとって彼は味方なんだね。それで見て見ぬふりをすればいいのか?」
ルーンはクロックの飲み込みの良さに満足して頷いた。
クロックにしてみても、ヒルドウは一度殺されかけた相手だったが、見逃してもらった相手でもある。そして見逃されたときにヒルドウは、命令を受けていなければ殺さないのだと言っていた。ある意味で非常に信用できる人間だった。それにあれほどの戦士がザッツの味方をしてくれるというなら、理由はどうあれ心強い。
ルーンは話が終わると再びミッツ家の宿に戻っていった。そしてそれと入れ替わるように、青の暗殺者が現れた。
いや、ヒルドウは最初からそこにいたのかもしれない。気配を消すことに関してはただの戦士には想像もできない域に達しているのだろう。物陰からすっと姿を現したヒルドウは、クロックに向かって軽く礼をしてきた。
「確かに君だね」
クロックがからかうように言うと、ヒルドウはにこりと優しげな笑みを見せた。
「お加減は良さそうですね。安心しました」
カイルとしての発言なのだろう。従者らしい控えめで弱々しげな言い方だった。もしヒルドウのことを知らなかったら、クロックは微塵も疑わなかったはずだ。
クロックはいたずらな笑みを浮かべた。
「君がザッツの忠信と聞いたカイルか。俺のことも手当てしてくれたらしいね。君のおかげかすこぶる調子がいいよ」
暗殺者は奥ゆかしそうな照れ笑いをして見せ、クロックに会釈をすると隠れ家の中に入っていった。
「顔が同じだけだって言われたら信じてしまいそうだな」
一人になったクロックは気障な口調でそう呟く。本当にザッツのそばにいてもらえるなら、彼ほど優秀な従者は他にいないだろう。そう思った。




