②
「洞窟内に誰かが進入したようだ」
感情を込めない声で、闇の大神官ダルクが言った。彼はクラムと世界の歪みを修復する魔法の維持を替わるため現れた。そして第一声がそれだった。
クラムの棲む廃坑は光がいっさい射し込まない。しかしその中でも、クラムとダルクにはしっかりと世界が見えていた。
魔法の維持を替わると、クラムもすぐに侵入者の存在に気づいたようだった。
「ダキスとミンサスはどうしている?」
「クロックと同じく、まだルーメスを狩りに出ています。私が直接赴きましょう」
「そうか」
二人は短くそう話すと、ふっとクラムの姿が消えた。
そしてクラムは洞窟の入り口の近く、わずかだが陽の明かりの差し込む所に来ていた。そこには松明を掲げ持つ魔法師風のローブ姿と、身軽な格好の赤髪の二人組がいた。魔法師風の男が着るローブはみすぼらしく、それに比べて身軽な格好の若いアレーは身なりが良かった。主従の関係なのだろう。
「こんな辺境地に何の用でしょうか?」
クラムは柔らかな口調でそう尋ねた。彼は無益な争いを好みはしない。争う必要がないならば、そのまま見逃そうと考えているのだろう。
「ふーん。やっとお出ましか。あんたが闇の大神官って奴かい?」
「ここ久しくその名を名乗った覚えはございませんが、確かに私は闇の大神官にございます。帰依なされるのでしょうか?」
男の好戦的な態度から、それはないことは明白だったが、クラムは静かにそう問いかける。クラムのことを不気味に思ったのだろう。従者と思われるローブ姿はわずかに後ずさる。
「ふー、どうやら頭はあまり良くねえようだな。この俺がどうして闇になど頼まなきゃなんねえのよ」
しかし若いアレーは、クラムの不気味さを感じ取れないようで、やれやれと首を振りながらなおも挑発をする。
「では、何用でいらっしゃったので?」
松明の明かりに照らされているはずの、クラムの周りが、心なしか暗くなったように見える。
「俺の名はオウ。まあ、覚えてくれなくてもいいけどな。おめえ、ここで神の道筋を妨げてんだろう。今すぐにやめろ。命が惜しいならな」
オウと名乗った男の口上で、クラムは彼が何者なのか理解したようだった。そして同時に、彼に対する興味が消えた。
「オウ。私はクラム。闇の大神官でも最も深く闇に染まる者です。あなた方は大きな過ちを犯そうとしています。できればその過ちに、自ら気づくことを祈っております」
オウは戦闘態勢に入ったようだが、クラムはそれだけ言って、現れたときと同じように忽然と姿を消した。
ダルダンダからフエタラの街までは、順調に歩を進めていた。
まずルックたちはダルダンダから北に向かった。北にはフエタラとカンの主要都市ビニを繋ぐ街道がある。フエタラはダルダンダから見てほぼ真西にあったが、直線で行くよりも距離がかかる分、街道には宿や食事どころがある。それに荷車も引きやすくなるのだ。
相変わらず彼らは、ルーンを除く三人で荷車を引いていた。ダルダンダの北はすでにカン国内で、ルックにとってはこれが初めての外国の景色だった。
カンの南部はアーティスではあまり見られない起伏の多い土地だった。ダルダンダの一帯を抜けてからも、アーティスのように緑豊かな大地はなかった。
砂っぽい地面には背の低い雑草が生えていたが、それも青々しくはない、枯れたような色をしている。木は見渡す限り一本もなく、細い雑草の隙間からは、灰色の乾燥した地面が覗いている。起伏は激しく、不毛な土地なのだと分かった。
「一歩国外に出ただけなのに、こうまで景色って変わるんだね」
「ええそうね。でもカンとアーティスの境は極端よ。アーティスはキーン大帝国を滅ぼすとき、ダルダンダの向こうの荒野はいらなかったのよ。国境を越えたから景色が変わったんじゃなくて、景色が違うから国境になったの。もしここら辺が緑豊かな土地だったら、カン帝国はひとかけらも残らなかったんじゃないかしら」
「そっか。あ、だけど僕、開国の三勇士はキーン大帝国に情けをかけたんだって聞いてたけど、そうじゃないの?」
「ええ。そうじゃないでしょうね。歴史なんてものはそんなものよ。事実がそのまま刻まれるわけじゃないの」
リリアンの達観した見方に、まだルックはそう言うものかとしか思えなかった。
そもそもルックは田畑を耕したことはない。土地が荒れているということの意味も、まだ分かってはいなかった。ただ、延々と広がる灰茶の荒野が、もの寂しくも雄大で、自分が生きていた世界の小ささに心打たれていた。
「カンもここら辺はまだいいわ。もっと北部に行くと、整地されていない道じゃ荷車を持ち上げて歩くようよ」
冗談か本気かは分からなかったが、ルックは荷車を掲げ持つ姿を想像して、それだけは嫌だと思った。
この旅では、目的地はクロックが指定したが、具体的な道程はリリアンが決めていた。
アーティスと違ってキラが生えていないカンでは、道中の食糧確保が難しい。クロックがまっすぐフエタラに向かおうとするのを、リリアンはそう指摘して止めた。フエタラまでは歩いて四日。街道まではおよそ二日。残りの食糧は二日分にも心許ないほどだったのだ。
「クロックはね、素敵なお母様が手取り足取り何でもしてくれたそうなの。だから自分で道程を考える必要がなかったのよ」
リリアンは多大な嫌味を込めてそう言っていた。これはダルダンダでルックを心配するあまり、リリアンが大暴走したと、クロックが大げさに説明をしたためだ。一度は角が取れたようだったのに、二人の空気はより険悪になっていた。
クロックはリリアンの嫌味より、それにルックとルーンが笑うのが許せないらしい。そうした後は憮然と口をつぐみ、うつむき加減で目をそらしていた。単純に言えば拗ねていたのだ。
ルックにはリリアンがここまでクロックに怒っているのが不思議だった。リリアンはもっと泰然とした人だと思っていたのだ。しかしルーンにそう言うと、この問題は誰でも怒って当然だと言った。
「クロックはちょっと子供ぽいよね」
「あはは」
ルーンの軽口に、ルックは曖昧に笑った。
ダルダンダから歩くこと二日半、太陽の光がだいぶ弱まったころ、遠くに街道が見えてきた。
「やったー。道が見えてきたよ。お腹空いて死んじゃうかと思った」
ここまで思っていたより時間がかかり、今朝から彼らはなにも食べていなかった。そのためルーンはとりわけ嬉しそうに街道を指さした。荷車の上にとまるビーアが、「ヒュー」と少しすまなそうに鳴いた。ビーアはここ二日狩りを失敗していたのだ。
「ふふ。ビーアのせいじゃないわよ」
リリアンが笑った。
「でも本当によかったわ。お腹が空くといらいらするものね。そろそろクロックが哀れになってきたところよ」
クロックはだったらやめてくれよと天を振り仰いでアピールした。リリアンの嫌味はこの二日間延々と続いていたのだ。
彼らは街道まで歩みを速めて進んだ。歩くうちに陽の光はさらに弱まっていき、辺りはかなり暗くなった。そこで突然クロックから静止の声がかかる。
「何かいる。みんな止まれ」




