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「巻いたようね。どうしましょう。ルックを置いてきてしまったわ」
リリアンとクロックは洞窟の外へ出ていた。入ってきた横穴から、一か八かで滑り降りたのだ。全身に打ち身や擦り傷を作ったが、ルーメスは洞窟の外まで追ってこようという気配はなかった。
「さあ、あんな場面でルックならどう行動しそうだ? 待機するか、俺たちを追ってくるか、それとも別の道へ行くか。俺はあいつとの付き合いは短いから、君に判断は任せるよ」
「私だって長い付き合いというわけじゃないのよ。でも、ルーメスと出くわす危険が一番少ない道を取るんじゃないかしら。少なくとも私だったらそうするわ」
「ああ、俺でもそうするな。と言うことは、下山して待ってみるか。ルーンに会えれば、ルックの考えそうなことも分かるだろうしな。あの二人は幼なじみなんだろう?」
リリアンは語りながら、自分たちがまだお互いのことをよく知らないのだと気付いた。旅の仲間として信頼関係を築いていくなら、それも必要な要素だと、今さらながら気付いた。
「多分そうよ。でも正直誤算ね。あのルーメスは子爵クラス? この間の男爵よりは強く感じたけれど、伯爵クラス程ではなかったわ」
「だろうね。俺もそう感じた。何が誤算なんだ?」
「聞いてないかしら? ルックは子爵クラスのルーメスを討ちに行くつもりなのよ。子爵クラスがあそこまで強いなら、私たちだけなら荷が重いわ」
「初耳だ。あいつそんな予定があったんだね。でもそうだ。抑影で抑えていたのに、まるで利いているふうじゃなかった。母さんより強い奴なんて初めて見たよ」
「母さん? それはもちろん冗談のつもりよね」
外へ出て、ルーメスから逃げ切れた安堵感もあり、二人は軽口を叩き始めた。ルックが別の道で脱出を計るなら、あのルーメスと遭遇する可能性は極端に低い。それよりも心配だったのは、ルックの食糧が切れることだ。それまでには何とか下山できればいいが、それもそこまで不安はないだろう。出口さえ見つかれば、最悪滑り降りれば下山は訳がない。それにルックは鉄の魔法が使える。よっぽどのことがなければ、下山で大怪我をすることはないだろう。
二人はそれから山を下り、荷車を置いている地点に戻った。ルーンの姿はなかったが、荷車の食糧が減っているので、食糧を取ってからまた山の周辺を探索しに行ったのだろう。
二人はその場で待機することにした。もしもルーンの方が先に戻ってくるなら、ここにルーンを待機させルックを探しに行くつもりだった。
「リリアンはヨーテスの生まれと言っていたけど、なんで旅に出たんだ? そんなに住みにくい所でもないだろう」
ヨーテスはアーティスのような平野部は少ないが、ヨーテス山脈の恵みで、生活自体が苦しくなることはあまりない。それにヨーテス民族は保守的な人が多く、旅に出ようという者はまれなのだ。
「両親が死んで、旅に出ざるを得なかったのよ。というより、あそこにいたくなかったのかしらね」
リリアンは遠い目をしてそう答えた。私はキルクが語ったリリアンの事情を知っていたが、リリアンの目は悲しげではなく、どこか老成したような、達観した雰囲気があった。
「あなたはなんで旅をしているの? 話しぶりからして、しっかりと教育を受けてきたんでしょう?」
クロックの話し方は、リリアンの指摘する通り教養を伺えるものだった。貴族階級のものが無理をして平民と話を合わせているような、どこか隠しきれない気品があったのだ。
「ああ、これはある事情があるんだ。ちょっと国の上層部に用があるときがあってね。そのために母が俺にたたき込んだんだ。その数年の癖が抜け切れてないのさ。何となくこの鼻に付く話し方が性に合ってるのかもな。俺の母親は、俺が産まれたときから定住しない人だったんで、特に旅をしていた理由ってのはないな」
「国の上層部って、どんな事情よ。まあ、深くは尋ねられたくないんでしょうね」
リリアンはまだクロックには警戒心を持っていたが、それはひとまず解くことに決めた。旅をしていくなら、余計なわだかまりを持つよりもそうした方がいいと思えたのだ。
クロックは母のことが自慢な様だ。気取った話し方で母のことを語っていると、世間知らずの貴族の息子が、母の威を借りて威張っているように見える。内容自体は威張ったものではないが、そんな印象をリリアンに与えた。
二人は話をしながら待ったが、ルーンもルックもなかなか戻ってこなかった。二人の頭に暗い予感がよぎり始める。赤い大蛇がもしもルーンを襲っていたら、ルーンはなす術がないだろう。この広い山で運悪く出くわす危険も少ないだろうが、可能性がないわけではない。ルックにしても、出口を見つけるよりも前にルーメスと出くわしたかもしれない。
「ねえクロック、ダルダンダは世界の歪みに力を加えている人がいるのよね? 他の場所より、ルーメスが現れる可能性は低いはずよね?」
リリアンは不安に駆られてそう尋ねた。頷いてくれれば、少なくとも他のルーメスとルックが遭遇する心配はほとんどない。
「ああ。間違いない。と言っても黒の翼竜がいるところだ。歪みとは関係なくルーメスがこっちに来てしまうかもしれないね」
「あらそう。それを聞いて安心したわ」
リリアンは少し気分を害してそう言った。八つ当たりでしかないとは分かっていたが、リリアンの焦燥感はその理性を容易に脇に追いやった。特に今までは気にしていなかったが、クロックの気障な話し方が少しかんに障ったのもある。
リリアンは居ても立ってもいられなくなり、突然立ち上がりクロックに宣言した。
「私は山を右回りに回って、ルーンを探しに行くわ。あなたはここで待機して、二人の帰りを待っていて」
「おい、そこまで焦る必要もないだろ。そんなに二人とも柔じゃないさ」
クロックの制止には答えず、リリアンは宣言通りに山を右回りに駆けていった。
ルーンはその頃、のんびりと山の周りを散策していた。一応山肌や周囲に何か手がかりがないか見回してはいたが、ほとんど気分は観光だった。
赤い山肌はアーティーズにいたらまず見られる物ではない。
ビーアはルーンの肩に止まって、安心しきっているかのように羽を畳んで眠っていた。ルーンには彼女が作り物には見えず、ともすれば何か餌を与えてみようかなどと考えていた。
「そろそろ休もっか」
ルーンはそう言って足を止め、その場で昼食の準備を始めた。火を焚く薪はないため、干し肉をそのままかじった。ルーンは早く次の町へ行きたいと思っていた。町という場所が、自分がいて最も落ち着く所だと思った。赤い山は珍しかったが、さすがにもう見飽きた。次荷車に戻ったときには、ルックたちが戻っていればいいと思った。
「ヒュー」
試しに干し肉を差し出してみると、ビーアは興味なさそうに鳴く。こういうところはやはり無機物なのだと思わせる。最もその興味のなさげな動作は、生物のそれそのものだったのだが。
「つれないなぁ」
ルーンは残念そうに肩を落とした。そんな折り、ルーンを探しに来たリリアンが、ルーンの後ろから追いついて声をかけた。
「ルーン、良かったわ。すぐ見つかって」
ルーンは少し驚いて後ろを振り返った。リリアンはいつものように落ち着いた様子ではなく、ルーンも何かあったのかと緊張に身を強ばらせた。
「ちょっとルーンに聞きたいことがあったのよ」
リリアンはそう言って、事のあらましをルーンに語った。
「ルックならその場面でどうするかしら。おかしな話でしょうけど、居ても立ってもいられなくなったのよ」
リリアンは自嘲気味にそう言った。ルーンはリリアンの不安を拭うように、しっかりと自信を込めて言う。
「それならルックはルーメスと一番遭遇しなさそうな道を選ぶよ。ライトだったらきっとリリアンたちを探すけど、ルックは自信のないことはしないから」
「そう。あーあ、なんか大人げないことをしたみたいね。それなら安心したわ。それと、この山に奇形の蛇がいたのよ。ルーンがそれに襲われていないかも不安だったわ」
ルーンはルックから、リリアンのことをあまり深く聞いてはいなかった。なのでルーンは、リリアンが心配性なのだろうと考えた。
「奇形の蛇なんていたんだ。あはは。けどこんな大きな山なんだし、そうそう見つからないよ。
ルックの方も多分大丈夫だよ。ルックは不思議なんだ。いつもライトや私よりも強くいたいって思ってたみたいなのに、特に英雄になりたいとかは思ってないの。強くなること自体、少し怖がってるみたいで、必要以上には強くなろうとしないの。この一年は別だったけどね。つまり、ルックは自分の力を誇示しようとして、無理に見栄を張ったりしないよ。だからリリアンたちの足手まといになろうとはしないと思う」
ルーンの指摘はまさにルックが出した結論の通りだった。リリアンはいつも子供ぶっている彼女が、実は精神的に成熟していることを知った。
「言われてみるとそんな気がするわ。ルックはいつも無理をしようとはしないわね」
「でしょ? ちょっとそこが頼りなく見えるけどね。でもルックがもしルーメスと遭遇しても大丈夫だよ。ルックには切り札があるの」
ルーンはルックのことだというのに、とても得意げだった。リリアンはそれで、ルックの切り札というのが、ルーンの作った魔法具なのだろうと踏んだ。
「どんな切り札なのかしら?」
リリアンはルーンの気分を害さないように、興味津々にそう聞いてみた。ルーンはふふんと鼻を鳴らして自慢げに言う。
「ルックにはね、私が特別な魔法を籠めたアニーを渡しているの。それさえあれば、どんな敵にだって、たぶんあの伯爵クラスのルーメスにだって負けないよ」
「まさか。そんな切り札があるって言うの?」
「うん。ただこれは一回きりしか使えないし、ルックにはどんなものかは内緒だからね」
ルーンは子供のようないたずらな笑みを浮かべて、リリアンに切り札の内容を打ち明け始めた。ルーンの切り札の内容には、リリアンは呆れるやら、驚くやら、どう反応していいのか分からなかった。
だが確かに、その切り札には相当な効力がありそうだった。それが分かったリリアンは、今度こそ完全に、不安な気持ちをしまい込むことができた。




