⑥
「アラクナクト・ビーアね。二つの名前なんて、まるでフィーン人みたいね。何でそんな名前を付けたの?」
ラフカの集落を後にして、また公道に戻る途中で、リリアンがルックにそう尋ねてきた。
「分からないよ。ほんとはロシアって言おうかと思ってたんだ。それなら恥ずかしくないかなって。でもビーアを見てたら、本当に口をついてそう言っちゃったんだ」
ビーアはリージアと離れた後も、ルックの肩で澄ました表情で動き続けている。瞳以外は全身が光沢のある鉄なので、動いているということにはとても違和感があった。彼女ビーアは、本当にそれが鉄だとは思えないほどしなやかに動く。だがルックが撫でた手触りは、疑いようもない硬い鉄なのだ。
「そう。口をついたにしてはなかなか綺麗な名前ね。それでルック、これからどうするつもりでいるの? クロックって人とは二股の木の下で待ち合わせてるのよね」
「うん。だからとりあえずアーティーズでルーンと合流して、二股の木に向かおうと思う。三人ならヒルティス山は迂回するよりも登ってっちゃった方が速いと思うから、とりあえずは真っ直ぐ北かな」
「それなら早い方がいいわね。ルック、少し寄り道できないかしら?」
「寄り道? 別にいいけど、何かしたいことでもあるの?」
「ええ、あるわ」
のんきな雑談をしながら歩いていたつもりだったが、そこで突然リリアンは真顔になり、歩みを止め、ルックに真剣な眼差しを向ける。
「あなたを殺すわ」
ルックは一瞬その言葉の意味を理解できなかった。リリアンは歌うように、なんの淀みもなくそう言いきった。
なんの冗談なのかと思ったが、リリアンの顔に笑みはない。冗談だとしても、余りにたちの悪い冗談だ。
「どういうこと?」
ルックの胸に不安が広がった。いや、不安とはこれほど苦しいものではないだろう。その感情は不安と言うより、絶望に近かった。
「あのジジドの木のある広場でいいわね」
リリアンはそう言うと、進路を北に変え、ルックに背を向け歩き出す。
ルックは慌てて後を追ったが、リリアンの真意が計りかね、何も言えない。
「そういえばあのリージアを見て直感したわ。あのとき土像の群れが私を襲ったのは、リージアの仕業ね」
「いや、でもあれには!」
「ふふ、やっぱりそうなのね」
リリアンはルックにかまを掛けたらしい。ルックは背に緊張の汗をかきながら、どう弁解すればいいのか考え始めた。
「大丈夫。あなたの指示でないことは分かってるわよ。あの人、あなたの依頼を受けて立ち上がるようには見えなかったわ」
それならなんで。
ルックはそう思ったが、リリアンは口を挟む間もなく続ける。
「強くなったんでしょう? 私を殺せばあなたは生き残れるわ。木々の間ではあなたに余りに不利でしょうから、広場に移してあげようと思っているの。優しいでしょう?」
世慣れたリリアンの目は、ルックにその内心を読ませなかった。
ルックは必死にこれまでの行いを思い出した。なにがリリアンにこう言わせたのだろうか。しかし答えは出ないまま、二人はジジドの木のある広場へと出た。
立ち尽くすルックを置いて、リリアンは広場の先へ歩を進める。そして振り返ってルックを見ると、黙って腰の長剣を抜いた。
もしかしたら彼女は、あの戦争に参加してしまったことをルックのせいだと感じているのかも知れない。もしもそうなら、それは確かに自分のせいだとも言えなくはない。そうだとしたら、自分はどうすればいいのだろう。
そう思いながら、ルックはどこか真剣になりきれない自分を感じていた。
十中八九、これはリリアンの言っていた力試しだ。リリアンが自分の本気の実力を知りたくて、こう言っているのだろう。ルックは絶望に戸惑いながらもそうであるはずだと思った。だからリリアンの気持ちを慮るより、今は自分の実力がしっかり出せるように集中しなければならない。
しかしリリアンの演技があまりに真に迫るものだったため、ルックはなかなか落ち着けなかった。
「さあ、剣を抜いて。早く抜かないと、始めるわよ」
ルックはまだ相当に迷っていたが、促されるまま剣を抜き、構えた。肩に乗っていたビーアが、羽ばたいて空へ舞った。それを合図に、リリアンが地を蹴りルックに肉薄してくる。一年前、リリアンに視力強化を習っていなかった頃なら、とてもかわすことはできなかっただろう。
ルックは左へ飛んでリリアンの攻撃をかわした。リリアンはルックを追わず、片手を地面につける。横目でそれを見たルックは、地に足が着いた瞬間、前方に跳ぶ。ルックの後ろから、水の柱が立ち登る。ルックが後ろに飛んでいたら、直撃していただろう。水魔は早打ちをするような魔法ではないため、それほど大きなものではなかったが、直撃していたとしたらただの怪我では済まなかったはずだ。
後方に跳ばなかったため、ルックの視界からリリアンの姿は消えたが、リリアンからの追い打ちはなかった。
やはりリリアンに本気で自分を殺すつもりはない。
そう思ったルックがリリアンの方を向くと、すぐにその期待が確かではなかったと分かった。リリアンは追い打ちをかけることができなかったようだ。ビーアがリリアンにまとわりつくように攻撃していたのだ。突っ込んではかわされ、また流されては向きを変えて突っ込む。ビーアの鉄のくちばしは鋭く、リリアンにも無視はできなかったようだ。
ルックはその間に剣にマナを溜め始めた。リリアンが何を思っているかは確信できなかったが、ルックはリリアンと殺し合いたいとは思わない。リリアンの動きを封じ、話をするためには、この剣を使う以外にはないと思った。剣のアニーの一つには、シーシャの鉄のマナが記憶されている。リージアの話によれば、自分の大地のマナを鉄のマナに変換してくれるはずだ。リリアンにはまだその新しい特性を話していない。リリアンほどの相手に殺さずに勝つには、どうしてもリリアンの意表を突かなければならない。それにはこの鉄のマナが要になるとルックは踏んだのだ。
リリアンは速かったが、ビーアの速さもそれなりだった。剣で打とうにも硬い音を立てるだけで、ビーアはしつこくリリアンに向かっていく。リリアンはビーアの一撃を為すすべもなくかわし続けていた。
鉄を覚えさせたマナに加え、大地のマナも二つ溜まった。そろそろ行動を起こそうかと思ったとき、リリアンとビーアの勝負に決着がついた。
ビーアの一撃をかわしたリリアンが、ビーアの後ろ姿を剣で打ち、ビーアはそれまでよりも遠くリリアンと離れた。ビーアはすぐに向きを変えたが、その間を利用してリリアンがマナを集める。
ビーアを目前まで引き付けたリリアンは、ビーアの向かい来るくちばしに手をかざした。途端、ビーアの体が厚い氷に包まれた。
ビーアは動きを止め、そのまま地面に落ちていった。
それを見たルックは、一気にリリアンとの距離を詰めた。リリアンがルックの剣を受ける。
ルックは完全に攻勢に出ていて、リリアンの守勢に出るのは少し遅れた。ルックは休む間もなく何度もリリアンに打ち付ける。不利な体勢ではあったが、リリアンはルックの剣を見事に受けきる。
二人の動き方はとても軽やかで、まるで武踏を舞っているようだった。
そこでルックは自分の失策に気付いた。ルックは鉄の魔法の使い方が決め手になると思っていた。だが、ルックは鉄の魔法の使い方を一つも知らなかったのだ。これではせいぜい鉄の塊を放つことくらいしかできないだろう。それならば石投とほとんど変わらない。ルックは自分の間抜けを呪った。そしてそれが、ルックにわずかな隙を生んだ。
「!」
もちろんそれを見逃すようなリリアンではない。しばらく実戦を離れていたとは思えない、的確な突きがルックを見舞う。
慌ててルックは身を引いてそれをかわした。リリアンの突きは思っていたよりも長く伸びてきて、危うくルックの肩を刺そうとしたが、ぎりぎりの所で届かなかった。
ルックは一度飛び離れ、地面に手を突く。リリアンはそうはさせまいと距離を詰めてくる。
ルックにふと名案が浮かんだ。これならばリリアンの意表を突けるかもしれない。ルックは隆地の魔法を、人型にして立ち上がらせた。咄嗟の思いつきだったが、かなり上手く形作れた。
リリアンはここで土像に襲われた。まだ土像の恐ろしさが頭に残っているだろう。
案の定、リリアンはその人型の隆地を警戒しすぎた。本来隆地を避けるために取る距離よりも、二歩ほど大きく回り込もうとした。リリアンの勢いは削がれ、そこにルックが飛び出した。
リリアンは悔しそうにしながらも、冷静に飛び離れ、ルックと距離を取る。再びルックは地面に手を突き、リリアンの足下に掘穴を放つ。
地面に穴が開く前に、リリアンがその場を離れ、再びルックに駆け寄った。ルックはリリアンの前に、通せんぼうをするような姿の隆地を立ち上がらせる。今度はリリアンはそれをぎりぎりで避けようとする。
だがそこで、人型の腕が伸び、リリアンの脇に拳を見舞う。隆地から隆地を放っただけだが、完全にリリアンの意表を突いた。リリアンは隆地の一撃を受け、バランスを崩して倒れ、走ってきた勢いのまましばらく地面を滑った。
ルックはそこに再び走り寄り、剣を繰り出す。左斜め下から剣をなぎ払おうとしたルックは、しかしそこでリリアンの手が地に着けられているのを見て躊躇した。水魔を警戒したのだ。ほんの少しの迷いだった。さすがにこの一瞬では水魔は作れない。そう思ったが、リリアンならばやりかねないとも思った。
実際に水魔は放たれなかったが、ルックが警戒心を強めていたことは運が良かったようだ。リリアンはその体勢から、手の力だけで跳ね起きて、一体いつどこで手にし、投じたのか、ルックに向かって拳大の石を投げつけてきた。ルックはそれを剣ではじいたが、攻撃の機は逃した。
ルックとリリアンに再び距離が開いた。二人はお互い警戒しながら、円上を追いかけ合うように左回りに回った。二人ともいい間合いが取れず、三週半ほど回ったところで、ルックは剣のマナをすべてつぶてにして放った。広範囲に放射した石投には、鉄のつぶても混ざっていた。そしてルックの思い描いた映像を遙かにしのぐ、大量のつぶてがリリアンを襲った。
しかしリリアン相手に量は関係なかった。確かに剣の力は想像よりも遙かに上がっていたが、石投は石投だ。リリアンの水壁に阻まれ、かすりもしない。
だが、ルックの狙いは別にあった。ルックはまたリリアンとの距離を詰め、剣を打ち付ける。しかしその行動もルックにとっては囮だった。ルックの先ほどの石投は、ビーアを封じた厚い氷を砕いていたのだ。それをリリアンに気付かせないため、ビーアがリリアンの死角に来るように立ち位置を決めていた。身を封じる氷を砕かれたビーアは、ぎこちなく羽を開くと、狙い通り再びリリアンに向かって突進してくる。ルックは万全の体勢のリリアンの剣技に、ほぼ為すすべもなく押されていたが、リリアンにビーアのことを気取られた様子はない。
「ビーア!」
ルックはそう叫んだ。それはビーアへの呼びかけではなく、リリアンへの注意だった。ビーアの鋭いくちばしは、真っ直ぐにリリアンの胸を狙っていたのだ。
リリアンは寸での差でビーアに気づき、剣を振り向きざまになぎ、ビーアを払う。その動作で、リリアンは完全にルックに背を向けた。リリアンの細い肩を、ルックの手のひらが軽く押した。




