②
この季節には珍しい、強い太陽風が吹いた。ルックはそれに背を押されるように、暗い林間の公道を駆けた。体の中のマナはほとんど使い切っていたが、ルックは極力無駄のないように足にマナをあて、まだ止まろうとはしない。
普通のアレーが駆けられる距離の三倍は駆け、ルックはアーティーズ山と首都アーティーズの中間辺りにやってきた。そろそろ森の中に入らなければいけないだろう。あのジジドの木の広場がどこら辺にあったか、正確には覚えていなかったが、大体この辺りだった気がした。ルックは足を止め、荒くなっていた息を整えた。森の中には野獣もいる。マナが空の状態ではさすがに入っていけない。
夜の公道は薄くなった日の光以外に明かりはなく、近くに立つ木は、森人の森の木の大抵がそうなように、背が高く、威圧的だった。
ルックはマナの完全な回復は待たず、ほんの小休止だけで森へと足を踏み入れた。木々が所狭しと並ぶ森は歩きづらく、見通しが悪い。少し深くまで入ると、すぐに太陽の暗い明かりも木々に遮られ、なおさら進み続けることは困難だった。だがルックはそれでも前へと足を運ぶ。頭の中は、まだ見ぬ世界のことでも、生まれ育った故郷のことでもなく、ただリリアンのことだけで一杯だった。
ルックはしばらく森を進んで、自分の致命的な失態に気付いた。辺りがあまりに暗すぎて、目的の広場がどこにあるのか皆目見当がつかない。しかしルックの足はそれでもなお止まろうとはしない。
突き出した枝がルックの頬を打つ。地に張る木の根に、何度もつまづく。
時間は否応なしに流れていき、ルックも再び肩で息をし始めた。全く埒があかなかった。ほとんど手探りで進んでいるため、ここが一度調べた場所かどうかも分からない。
焦りのせいで、ルックは注意力も散漫になっていた。張り出した根に足を取られて、強かに転んだ。咄嗟に手を突きはしたが、なかなか痛い。子供の頃はヒルティス山でも良く転んだが、背も体重も成長したため、そのときよりもなお痛かった。鬱々と不安の広がり始めた胸には、その痛みはより鋭く感じられた。
ルックはそこで、近くの木に手をかけて、木登りを始めた。上から見れば、少しは開けた場所が見つけやすいのではと思ったのだ。木は高く、マナを使わなければとても登れない物だった。枝が邪魔をし、ルックのことを拒んでいるようだった。
どうにか木の上にまで上ったが、ルックの視界は葉に遮られ、とても周りは確認できない。ルックは恨めしげに上を睨む。ルックの今いる位置より上には、枝が細くなりすぎていて登れない。彼は不安定な足場の上で立ち上がる。そして足をたわめて、大きく身を宙に投げた。
顔を腕で覆い、打ち付ける小枝や葉から守って、ルックは木々よりも上に飛び出た。ほんの一瞬だったが、視界が開ける。空には幸い雲がない。薄い日の光に照らされる暗い森を、ルックは瞬時に見回した。ルックの右後方に、木のない場所が見えた。
あそこだ。
ルックはそう思うと同時に、降下を始めた。着地が危険だということは分かっていたが、身を丸め、ルックは落ちるに身を任す。枝葉はルックの体が当たると、けたたましく音を立てた。全身に傷を負ったが、今度はあまり痛いとは思わなかった。ただ自分の向きを見失わないように必死だった。
着地はルックが思っていたよりも少し早かった。急に来た衝撃に、ルックは思わずうめき声を上げた。枝葉が上手くクッションになったので、それほど大きな怪我はない。背中から落ちたので、息がしばらく苦しかったが、大事はなさそうだ。ゆっくり立ち上がると、ずいぶん無理をしたと自嘲気味に思った。
頭に葉を付けたまま、ルックは先ほど見た広場の方に歩を進めた。少し遠かったが、もうそれほどでもない。中心に高い木が見えた気がしたので、きっと間違いなくあの広場だ。
ルックの胸は逸った。自分でも意外なくらいに、気分が高揚を始めた。顔を打つ枝も、ほとんど気にならなくなった。
果たして彼は、目的の場所にたどり着いた。
広場はジジドの木が葉を広げてはいたが、それでも今までの場所よりは幾分明るい。中央に立つジジドの木は、リリアンの水魔に身を削られたはずだが、痛々しい傷跡からもうすでに新しい枝を生やして、それを覆い隠そうとしていた。小さいとは言え、ジジドの木の生命力は他の木とは違う。
ルックは広場をぐるりと一周した。そしてジジドの木の下に立ち、上を見上げた。手頃な太枝を見ると、跳び上がり、その枝に掴まって、軽やかに枝に身を乗せた。
「リリアン!」
ルックは呼んだ。どこかから答える声がないかと期待して、耳を澄ました。
けれど、その声に答える声は聞こえなかった。
ルックの気の落ちようは、まるで蜃気楼に惑わされた砂漠の旅人のようだった。体がとても痛かった。今思い出したように、突然それを感じ始めた。
まだ今日が終わったわけではない。しかしリリアンはいない。それが意味する物を、悟らないわけにはいかない。
ルックは身を切る想いに名前も見いだせず、そのまま木の枝の上で、疲れに誘われるまま眠りに落ちた。
夢。
ルックは声を聞いた気がした。鈴の鳴るような何か懐かしい気のする声だ。その声は焦ったように、ルックの注意を引こうと声を荒くしていた。
緊迫感がそこから感じられたが、ルックには答えるのが億劫に思えた。ルックは目覚めず、より深い、夢を見ない眠りの中に落ちていった。
そうして、そういった夢が常にそうなように、ルックは今見た夢を、起きたときには記憶に止めていなかった。
その声の警告がどれだけ大事な物だったかも、ルックは全く気づかなかった。




