幕間 ~前日譚~
ルックの父、木彫り職人のサーラクは、とてもたくましい男性だった。母ジュリアは大人しく、本を読むのが好きな女性だった。二人は出会い、恋に落ち、やがて結婚をした。
サーラクは決して裕福な家庭を築いていたわけではなかった。南に広大な森のあるアーティーズでは、サーラクのような木彫り職人は珍しくなく、サーラクの作った椅子や棚は、それほど高値では売れなかった。
それでも良き夫婦はお互いを助け、仲むつまじく日々を過ごしていた。それは贅沢が嫌いなアーティス人の家庭では、決して珍しいことではなく、サーラクは妻に、ジュリアは夫に、少しの不満も持っていなかった。
そして結婚から三年が過ぎたころ、彼らの家に新しい家族が生まれた。小さな家ははち切れそうなほどの幸せに満たされた。
赤ん坊は大陸の公用語で本当のことを意味する、ルックという名を与えられた。
ルックは玉のような男の子だった。少なくとも、親となった二人にとってはそうだった。サーラクもジュリアも、生まれたばかりのルックを見たときには言葉にならない感嘆の声を上げ、ただ笑み崩れた。
だがルックは病気がちで、よく熱を出した。街の医者が言うには、一年生きられる可能性は三割程度ということだった。それを聞かされたときのジュリアの落ち込みようは、そばにいる者まで暗澹たる気持ちにさせた。
しかしサーラクは決して暗い顔をせず、落ち込む母を励ました。その甲斐あって、ジュリアは心を入れ替えて、無理にでも笑顔を作り落ち込むことを控えた。
ルックが熱にうなされると、サーラクもジュリアも全ての仕事を放り投げ、付きっきりでの看病をした。サーラクは少しずつ貯えていた金で高い薬を買い、ジュリアはシビリア神に毎朝毎晩祈りを捧げた。そして、暇を見つけては北の小山に赴き、祝福の泉の水をくんできて、ルックの体をそれで洗った。祝福の泉の水はきらきらと輝き、病弱な赤ん坊に溶け込んでいく。そうした後ルックの体は、丸一日ふわふわと淡い光を放っていた。
祝福の泉にはなんの薬効もない。シビリア神などは存在しない。サーラクの買った薬も気休め程度のものだった。しかしその二人の献身的な想いが届いたのか、ルックの体は丈夫になっていき、生後半年くらいからはあまり熱も出さなくなった。そして何事もなかったかのような無垢な笑顔で、一年目の誕生日を迎えた。
サーラクの一家は貧しかったが、首都アーティーズ自体が裕福な街なので、生活に余裕が全くないわけではなかった。ジュリアは本が好きで、街で色々な本を買ってきてはそれに没頭していた。そして生まれたばかりの頃からルックにもよく読み聞かせをした。
ルックは母の読む冒険譚が大好きで、毎日母の声を食い入るように聞いていた。
そのためルックは一歳前に言葉を話し始め、一年と半が過ぎる頃には筋の通った会話ができるようにまでなっていた。その頃にはルックは一人で本を読むようになっていて、大人の読むような厚い本も、飛ばし飛ばし読んでいた。
父は力強く、母は慈しむようにルックのことをよく撫でた。ルックは二人の温かな手が大好きだった。
ルックは会話を覚えるようになってしばらくすると、二つのことで父と母を驚かせることになる。
一つは父の家に伝わる難しい神学書を最初から最後まで暗唱したことだ。もちろんルックにその意味は分かっていなかった。しかしそれでも、まだよちよち歩きしかできない子が、かなりの厚さの本を丸暗記したのだ。二人の驚きは想像に難くないだろう。
そしてもう一つは、ルックの髪が母親ゆずりの柔らかい茶色から、次第に青く変色してきたことだ。それは大地のマナが身に宿っていたということだ。これには両親ともに非常に驚いた。けれど二人はとても誇らしげでもあった。ルックはそんな二人を不思議そうに見上げ、どうしてそのような表情をしているのかつたない言葉で尋ねたが、父は「いずれ分かる」と、ルックの青と茶混じりの頭を撫でるだけだった。
それからまたしばらくして、少し人よりも遅く、ルックは走り回れるようになった。ルックは母が自分を見つけてくれるのが好きで、ジュリアが少し目を離すと、戸棚の影や机の下に潜り込みかくれんぼをした。ジュリアはルックを見つけるのがとても上手で、ルックが絶対見つけられないと思って隠れた場所でも、ルックがいないと気付くやいなや見つけ出す。そうしてルックのことを「悪い子」と言って優しく撫でた。
母が買い物に行くときなどは、ルックは必ず一緒に後を付いていった。市場は家の中よりも色とりどりで、ルックは目を輝かせた。
彼は二歳半をすぎると目につくものをかたっぱしから、「何で」「どうして」と問い、ジュリアのことを困らせるようになった。
「どうしてりんごは丸いの?」
「何で今日は白い服なの?」
ジュリアは優しく真面目な女性だったので、そんな質問を適当にあしらうことができなかった。ジュリアが三人でいるときに夫にその悩みを打ち明けると、サーラクは豪胆に腹を抱えて笑った。しかしルックは、母が本気で悩んでいるのだと思い、それからは「何で」も「どうして」もあまり使わなくなった。
彼は母と同じで本を読むのは好きだった。そうしている間はとても手のかからない子供だった。ジュリアは家事の合間によくルックと二人で読書をした。昼間の窓際の部屋はとても暖かく、のどかだった。ルックはこの先の生涯に渡ってその日だまりの暖かさを、おぼろげながら覚えていた。
さて、その頃のアーティスは一つの話題で持ちきりだった。北西の隣国カンとの国交の悪化。簡単に言うと、カン帝国との戦争の危機だ。アーティス西部、カン帝国との国境沿いの港町シェンダーでは、いつ戦闘が始まってもおかしくないような状態だった。
半年続いた緊張状態は、ルックが三歳になる少し前にプツリと切れた。挑発を続けてアーティスから攻撃をさせようとしていたカンの部隊が、アーティスの国境内で斥候部隊の十数名を壊滅させたのだ。アーティスもこれを黙って見過ごすわけにはいかなかった。
後にアーティス第一次大戦と呼ばれることとなる戦争が始まった。
開戦したシェンダーと、ルックの一家が暮らす首都アーティーズではかなりの距離があった。だが街はにわかに不安の渦に呑まれた。カンは非常に大きな国で、首都アーティーズまで攻め入られる可能性も充分にあったのだ。
ルックは戦争の事などはまだよく分からなかったが、父と母の暗い表情を見て、小さな胸に不安を覚えた。
ルックの住む町まで戦争がやってきたのは、それから一年たって、ルックが四歳になる直前だった。その頃にはルックの髪は見事なまでに青く染まり、後に真実の青と呼ばれるにふさわしいものとなっていた。
カンの主力である第一軍、先のシェンダーでの争いで兵数を十数人に減らした第二軍、そして無傷の後方部隊第三軍。その三つの軍が首都アーティーズまで到達してしまう。
ひと握りにまで数を減らしたカンの第二軍は、ルックたちの住む三の郭のあちこちに火を放った。火はルックたちの小さな家も呑み込んだ。
サーラクとジュリアはルックを抱いて二の郭の方へ逃げ出した。しかし道中、運悪く第二軍と遭遇してしまう。
カンの第二軍は十数名しか残っていなかった。もう軍と呼べる数ではないのだが、再編成もせず活動していた。少数でも、全員何らかのマナを宿したアレーだったのだ。マナを宿してはいても、まだ体の小さな三歳のルックと、マナを宿していない父と母。太刀打ちする手だてはなかった。サーラクの手には家宝でもある大振りの魔法剣が握られていたけれど、それが役に立つ状況でもなかった。
普通なら、子連れの一市民など兵士はわざわざ気にかけない。見逃してくれるものだ。しかし、ルックの青髪を目にとめた兵士たちは彼らを見逃すことを良しとはしなかった。
サーラクはほとんどやけくそに剣を振り上げたが、一太刀を振り下ろす間もなく切り捨てられた。ルックの前に倒れた首のない父は、もうたくましい手でルックの頭をなでることはなくなった。
ジュリアはルックを抱きしめて、「この子だけは」と哀願した。しかしカンの兵士の無情な剣は、いともあっさりジュリアの命も奪ってしまった。
ルックは頭のいい少年だった。父と母が死んだということを理解し、死んだ人間がもう二度と蘇らないことを知っていた。
ルックは戸惑い、絶望し、憤った。しかし、そのどれもルックの感情を表す表現としては不十分だった。
怒りでもない、悲しみでもない、複雑な感情がルックの中で渦巻いた。
ルックが次に目覚めたのは見慣れない部屋のベッドの上だった。どうして自分が死なずにここにいるのかは思い出せない。ただ恐ろしい記憶が頭の中によみがえり、それが夢であると願うように、父と母を呼んだ。しかし二人の声はない。ルックはそれを充分に理解していた。
そこはマナを宿した子供のための孤児院だった。当然のことだが、今度の戦争で孤児になったのはルックだけではない。周りには親を呼び泣きわめく声がたくさん聞こえた。
戦争は奇跡の勇者アラレルの出現で、アーティス側が劣勢を巻き返していた。首都に入り込んでいた敵軍を追い払い、散り散りになった軍を再び集結させて、カンに占領された全ての拠点を怒涛の勢いで取り戻した。戦争は終わり、大きな傷跡を残しながらも、一応アーティスは大国カンを退けた。
天涯孤独の身となったルックは、十数名の孤児たちとその孤児院で暮らすことになった。
ルックの心の傷は、取り立て他の子供たちと比べ深くはなかった。というより、皆がみな深い傷を負っていた。けれど人というのは不思議なもので、時が過ぎると子供たちの顔には自然と笑顔が戻ってきていた。戦争が終わってひと月もすると、孤児院となった教会の中には、楽しげにはしゃぐ子供たちの声が溢れた。
孤児院ではシビリア教の教えと、戦闘において必要な心構えを習った。親を殺された子供たちの怒りをたくみに操り、大人たちは彼らに戦士としての教育を施していった。ルックは体力が弱く、大人たちからはあまり期待されていなかった。ルックはそんな状況を見て、大人たちの卑怯さと、子供たちの愚かさに、冷ややかな気持ちを覚えた。
孤児院にいた時代は、ルックにはとても辛いものだった。戦後の貧しい孤児院では食べ物も不足していて、いつもお腹が空いていた。そしてルックは毎日同じ夢にうなされていたのだ。ルックが眠りにつくと、すぐにあの日の無惨に殺された両親の夢を見た。ルックは悲鳴を上げて飛び起きて、そこが孤児院の中だと知る。それを一夜の内に数回繰り返すのだ。常にルックの眠りは浅く、まだ四つのルックの体力には相当堪えた。
そんなある日、悪夢に目覚めたルックの元に、一人の青年が現れた。
青年と言っても、後になってルックは、彼はまだ少年と言えるような歳だったのではないかと思い返した。大人の身長には届かない低い背に、特徴的なくるくる巻かれたブロンドの和毛。トロンとした目は、銅をはめ込んだかのような綺麗な色だった。よくよく見ると、青年はどこか淡い光を放っているようだった。
彼は柔和な笑顔でルックの元に近づき、悪夢のために身をこわばらせているルックの頬に優しく手を触れた。
たったのそれだけで、ルックは憑きものが落ちたかのように安心した。そうして気付くと、孤児院に来て初めての、穏やかな朝が訪れていた。
その不思議な青年には、ルックと一緒に寝ていた誰も気付かなかったという。大人たちにも聞いて回ったが、そんな特徴の者はここにはいないと言われた。
ルックはそれをとても不思議がったが、結局彼が何者だったかは知れず、そのまま時の中に彼の記憶を置き去ってしまった。
一年と少しして、ルックに転機が訪れた。ルックを引き取りたいという人が現れたのだ。
「俺はシュール。お前はなんて名前だ?」
それがシュールとの出会いだった。今年成人したばかりの十五歳で、火のマナを宿す灰色の髪を持っていた。
シュールは思慮深い雰囲気で、とても誠実そうな人に見えた。後に知ったことだが、彼は先の戦争で勇者アラレルと共に戦った英雄の一人だった。
このときのシュールの表情がどんなものだったか、ルックはあとになって何度も思い出そうとした。だがルックは、そのときはまだシュールのことをよく見る余裕はなく、彼がどのような表情でルックを迎えたかは覚えていない。
ルックは彼のチームに引き取られていき、そこで自分の根幹を作ることになる。シュールという男の名は、真実の青の伝説にはほとんど登場しない。しかし彼がルックにとってどれほど大きな存在だったかは計り知れない。
シュールはとても落ち着いた、頭のいい人のようだった。生まれは普通の平民だったが、金さえあれば大学にいても不思議ではないほど博識だった。
彼に連れていかれた家は、これから生活を始めるらしく家具などは一切ない。それほど広くはないのにがらんとしていた。
シュールを含め、チームには四人の大人がいた。背の高い影のような人と、筋骨隆々としたたくましい男。そして雲を突くかのようなとんでもない巨漢だ。
ルックは礼儀正しくしていたが、シュール以外の三人は子供心に恐ろしく見え、少し萎縮していた。
初めてそのチームにルックが来た日は、引っ越しから始まった。たくさんの大きな荷物を、彼ら四人はこともなげにかつぎ、運んだ。力持ちだった父よりも、四人とも明らかに力があった。それがマナを使った動きだということは孤児院で習っていた。
ルックはシュールが運び込んだ本の山を見て、内心ときめいた。しかし自分は戦士になるためにここに来たのだ。本を読む暇はないだろうと思った。
ルックは彼らの荷解きを手伝った。次々運ばれてくる木箱の紐を解く。固い結びで、食い込む指が痛かった。
季節は寒季だった。大人たちは荷解きを始めると、真っ先に薪の束を解いた。荷物を運び込んだ広い居間には、大きな暖炉が備え付けられていて、筋骨たくましい男が薪を無造作に暖炉へ突っ込んだ。
彼はそうするとシュールの方を振り返り、暖炉の前からどいた。
シュールは火のついていない暖炉に手をかざす。シュールのかざした手の前の空気が、少し歪んだように見えた。
ルックは生まれて初めて魔法というものを見た。シュールがほんの少し意識を集中させると、突然薪が赤々と燃え始めたのだ。
ルックは目を丸くした。
孤児院で、自分にもマナが宿っているということは聞いていた。しかしまだマナの存在を感じたことのないルックには、それがひどく不自然な現象に思えた。
暖炉の火がついてしばらくすると、部屋は暖かくなり、作業ははかどった。それぞれが自分の私物を部屋へ運んでいった。その間荷物のないルックは火の番をすることになった。暖炉の前でじっと火を見つめ、火勢が衰えてきたら新たな薪を入れる。単調な作業だったが、こっそりシュールの本を一つ借りていたので、退屈はしなかった。
ルックがいたのは玄関を上がってすぐの居間だった。そこから左に二つ、右に一つ、奥に一つの扉があった。奥の扉は台所などの水場に続いていて、左右の扉はそれぞれの部屋へと通じている。大人は二人で一部屋、ルックは一人で一部屋の割り振りだった。
片づけは三時間ほどで終わった。最後に居間の中央へ大きな楕円形のテーブルを置くと、大男が台所に入っていった。しばらくして、大男は湯気の立ついい匂いのする料理を運んできた。その料理は孤児院の食事の数倍はおいしく思えた。一口食べたルックが驚いて固まっていると、それを見た大人たちが明るく笑った。
食事を済ませると外はすでに暗くなっていて、ルックは左の奥の部屋、自分に与えられた部屋で眠りについた。
その夜もルックは夢を見た。それはいつものことで、孤児院にいた子供の中では珍しいことでもなかった。あの謎の青年が現れた後も、ルックはほとんど毎日この悪夢を見ていた。
燃える街。血相を変えて走る両親。
そこに不気味な一団が立ちはだかった。驚くほどあっという間に父の首が飛ばされた。
この子だけは、この子だけはと、自分を抱き泣き叫ぶ母の声がふっと途絶えた。
赤く燃える街の中で、兵士たちの卑しい笑い声が聞こえる。兵士たちの一人がルックに剣を突き刺そうと、億劫そうにルックの前に仁王立ちになり、剣を持ち上げた。
眠りについたばかりのルックが、部屋で恐ろしい叫び声を上げた。
ルックにとってそれは一年間も続いたことだったので、いい加減気が滅入ってきていた。この一年、本当に熟睡したのはあの和毛の青年が現れた一日だけだ。
全身汗だくになって目覚めたルックの部屋に、シュールが戸を開け入ってきた。
シュールはただそばに歩み寄り、ルックの横に腰をかけ、不器用な手つきで頭を撫でた。
ルックはわずらわしく思わせてはいけないと思い、すぐに目を閉じ、再び恐ろしい夢の世界に戻って行った。
赤く燃える街。恐ろしい兵士たち。首をはねられた父。胸を刺し貫かれた母。
悪夢にルックはうなされた。
そんなルックの夢の中に、優しい声が降ってきた。
「大丈夫だ。大丈夫だ」
少年期を脱したばかりの優しい声音が、念を押すように繰り返す。
「大丈夫だ」
ルックの頭に優しく手が置かれる。それはルックの大好きだった二人の手ではなかった。しかしとても暖かかった。
その日から、ほとんど毎日訪れていた悪夢が、次第に訪れる回数を減らし始めていく。




