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青の物語 ~その大陸で最も平凡な伝説~  作者: 広越 遼
第二章 ~大戦の英雄~
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「すごいね。もう切り落とすしかないと思っていたがね」


 コライはきれいに完治した自分の足を眺め、そう言った。

 そこはシェンダーの港町の、古びた宿の浴槽だった。外観はとてもぼろで、今にも崩れそうな印象の宿だったが、中は思いのほか綺麗に清掃されていた。浴槽もありきたりな石風呂で、決して広くはないが清潔感がある。


 ルーンはコライのほめ言葉と宿の清潔さに満足感を感じていた。

 治水の魔法もいつもより上手く使えた気がするし、治療中にシュールが運んでくれたパンと、甘い果汁のジュースの味が、頬が落ちそうなほど美味しく思えた。

 シュールは自分が生死の境にいたと言っていた。しかし少し体が凝っている程度で、いつにないほど元気な気がした。だから目覚めたときの、ルックの嬉しそうな呼び声には誇らしさを覚えていた。

 ルックは宿についてすぐ気絶するようにばたりと眠ってしまって、まだ目覚めていない。それは心配だったけれど、ルーンの浮ついた気持ちは少しも陰らなかった。


 治水の魔法は少し疲れたが、ルーンは足取り軽くルックとシュールの部屋へ向かった。三階建ての宿の、ルーンたちは一階にいたが、ルックたちは三階だ。階段は一段一段が高く急だった。ルーンはそれを駆け登り出す。しかしそれでは遅い気がして、マナを使った体術で、一足飛びに五段ほどを飛ばした。

 階段を登りきったところで、ルーンはちょうど階段を下りようとしていたシュールにぶつかりそうになった。シュールが反射的に身をかわさなければ、お互いかなり痛い思いをしていただろう。


「ルーン、何をやってるんだ。危ないだろう?」


 シュールの落ち着いた口調がルーンをたしなめる。ルーンはそれにごめんなさいと謝ろうとした。いや、彼女は確かにそう言おうとしたのだが、なぜだか舌が上手く回らず、ウーと小さく呻いただけになった。それどころか、突然ルーンの視界に映る物がぐるぐると回り始めた。慌てた様子のシュールの声が、もわもわと数十に被って聞こえる。

 間一髪、階段から転がり落ちそうになったルーンをシュールが支えた。ルーンの意識はすでになく、それから三時間ほどルーンは深く眠りに落ちた。




 目覚めたルーンは、体の重さに驚いた。金縛りにあっているように、身じろぎ一つできない。そして突然彼女は泣き出した。息が続く限り泣き声をあげ、大きく息を吸い込んでは、またそれを繰り返した。


「どうした、どうしたんだ、ルーン」


 シュールの声にも、ルーンは答えず泣き続けた。

 ルーンには、シェンダーでラテスを助けられなかったことが悲しかった。それが全て自分のせいな気がして恐ろしかった。そもそも自分がもっと帰空の魔法を上手く使っていたら、あれほどの惨事にはならなかったかもしれない。

 実際はあのディフィカの死の球を、一人の魔法師の帰空でどうにかするなど不可能だ。しかしルーンは、それでもそれに深い自責を感じた。


 なぜこんなに無力な自分が生き残り、あれほど大勢の人を死なせてしまったのだろう。自分が死ねば良かったのに。


 ルーンの思考は非常に混乱していて、支離滅裂なことを考え始めた。

 ルーンはついに、自責の念に絶えきれず、意識を手放すように気絶した。




 そのころルックは宿の一室でルードゥーリ化の反動により眠り続けていた。

 彼は夢を見ていた。彼の他に何もない広大な草原に、一人で立っている夢だった。特に何をするでもなく、何か理由があるわけでもなく、彼は広大で雲一つない青空を眺めていた。

 空は抜けるような青さで、ルックの髪の色と良く似ていた。


 ―――ルック、……


 ルックの耳に、鈴を鳴らすように心地いい声が届いた。

 ルックは少し浮かれた気分で辺りを見回した。大好きな、誰よりも大切だと思った少女の声なのだ。

 赤とピンクのリボンを巻いた長い黒髪。それは暖かみのある黒で、彼女のきめ細やかな白い肌と鮮やかなコントラストを生み出している。

 しかしこの広い草原に、彼女の姿は見あたらなかった。草はそれほど背が高くなく、視界を遮る物はない。


 ―――ルック、来て。


 彼女の声は、まるで青い空から響いてくるようだった。

 ルックには彼女がどこへ誘おうとしているのかが分からなかった。しかしこれはルックの夢だというのに、ルックの意志を置き去りにして、突然景色が切り変わる。


 先ほどの草原とは打って変わって、そこは荒れ果てた薄暗い岩場だった。岩は一つ一つ微妙に異なる色合いで、全体的に赤っぽかった。一本の草木もなく、吹きすさぶ風は砂混じりでザラザラとしている。空は薄い雲に覆われていて、日の光は淡い。

 そこにも誰でもない少女の姿はなかった。ただルックの前には、うずくまりすすり泣く、ルーンの小さな体があった。

 ルーンの体の周りには、数本の黒いもやがまとわり付いているように見えた。


「ルーン?」


 ルックの呼びかけに、ルーンは驚いたような顔を上げる。


「ルック? どうしてここにいるの?」


 そうルーンが答える。そしてその瞬間に、まるで最初から知っていたかのように、ルックは全てを理解した。

 ここはルーンの夢の中なのだ。ルックの夢がルーンの夢と繋がったのだ。

 そしてルーンが置かれた状況も、ルックには理解できた。本来ならまず助からないはずだった人体への帰空に、どうしてルーンが生き延びたのか。この夢の世界を見た私にも、その理由がようやく分かった。


 ルーンが死ななかったのではなく、死がルーンの元に訪れなかったのだ。八千人を超える死者に、ディフィカの死を利用した魔法。命の世界が一時的に飽和状態になったのだろう。体には何の欠損もなかったルーンは、生と死の神に死ぬことを拒まれたのだ。

 しかしそれは一時的なものだ。ルーンの魂とも言えるマナは、自らの呪詛の魔法によって重大な変質をしている。シェンダー崩壊からもうすでに四日が経過しているのだ。飽和状態はとうに過ぎているだろう。


 神学や魔法学にそこまで明るくはないルックは、それほど正確な理解を持ったわけではなかったが、それでも漠然とルーンの置かれた状況の危うさに気が付いた。

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