『悪夢を払う笑顔の魔法』①
第二章 ~大戦の英雄~
『悪夢を払う笑顔の魔法』
「それは本当ですか? もし本当なら、カンの正気を疑いますね」
シェンダーからの報告を受けビースは言った。日はすでに完全に暗に転じていたが、しばらく城を空けていたビースには山ほど仕事があり、眠りについてはいなかった。
シェンダーからの報告というのは、カン軍が砦の溶水に、大量の兵士を突撃させたというものだった。そしてビースの予想したとおり、シェンダーにはほとんどアレーは攻めてきていないという。
「続いてスニアラビスなのですが、報告をもたらした兵士によると、二千の軍が攻めてきているということでございます。それもすべてアレーの軍が」
報告をまとめて読み上げていた女性は、彼女自身の半信半疑を隠そうともせずそう言った。しかしそれをほとんど予想していたビースは、眉一つ動かさずにその報告を聞き流した。
「ご報告ありがとうございました。ところで、ヒアスからは何か報告はございませんか?」
ヒアスというのは、アーティス北部にある農村だ。スニアラビスよりは少し東にある。しばらく前にルーメスが出現したと報告があり、アレーを向かわせた場所だ。その一団は二十五日も前に向かわせた。そろそろことが済んだという報告がほしいところだ。
「いえ、残念ながらまだ何も」
しかし女性は首を振りつつそう告げた。それにはビースも落胆しなかったわけはないだろうが、表情には何も示さず相づちを打った。
女性が辞したあと、ビースは執務机に向かい、溜まった案件や報告書の類に目を通し始めた。ビースの処理能力は尋常ではなく、半時間ほどで相当数の書類を処理してしまった。一つの書類にかける時間は、長くても一クラン(時間を表す単位で、一時間の二十分の一)程度だった。しかしそれでも量が量だ。かなりの時間ビースはそれにかかりきりになっていた。
そしてそのかなりの時間が過ぎ、ビースが最後の書類の束に目を通し始めたとき、控え目なノックの音がそれを遮る。
「ご報告です」
ビースは書類の山から目を離し、ドアの向こうの相手に静かに告げた。
「申し訳ございませんが、そのままお入りください」
ドアが開き入室してきたのは、先ほど報告をもたらした女性と、慣れない場所に落ち着かない様子のキーネ兵だった。
「失礼いたします」
女性が言うと、兵士もそれにならってごにょごにょ失礼しますと言った。
「どうかされましたか?」
ビースは兵士を気づかうように落ち着いた口調で尋ねる。
「いえ、大したことではないかもしれません。この門兵によると、アーティーズの入り口に、カンの第十九軍と名乗る四人のアレーが、降伏勧告に現れたということでございまして」
「ほう、メスですか?」
「はい。気の触れた連中の戯言かとも思ったのですが、ビースのお耳は私のそれよりも多くの物事を聞き取られるかと思い、連れて参りました」
ともすれば皮肉にも取れる女性の発言に、ビースは寛大に笑む。
「左様ですか。ご苦労様です。それでは一応あなたからお話をお伺いしてよろしいですか?」
ビースは女性にねぎらいの言葉をかけると、おどおどとしている男にそう問いかけた。ビースが門兵を窺う目は優しかったが、それに気付いてすらいない門兵の緊張は解けなかった。門兵は姿勢を正し、不必要に声を張り上げて言う。
「はい、アーティーズの入り口で、カンの第十九軍と名乗る四人のアレーが、降伏勧告に現れました」
女性が先ほど言った言葉を、ほぼそのまま繰り返した門兵に、女性とビースは思わず苦笑する。門兵にとっては、女性が言った言葉ならば失言ではないと考えたのだろう。ビースは口元に笑みを残しながらも、まじめに答える。
「さぁ、どうしたものですかね。それが本当ならば通さないわけにもいかないでしょうが、大軍を引き連れてきたわけでもなく降伏を要求するとは……」
「それでは追い払うよう指示いたしますか?」
「いえ、そうですね。明日の昼、王の間にお通し下さい。ライトにも暇をさせているでしょうし、四人程度なら追い払う理由もございませんでしょう。今晩はその方たちには私の館へお泊まりいただきましょう。すぐ手配していただけますか?」
門兵に無駄足を踏ませるのも気の毒だと思ったのか、ビースは意外な指示を出した。彼自身がアレーなら話も変わるが、キーネであり国の要人であるビースを、敵のアレーの前に出すなどとんでもない話であった。
しかし女性は首相にもの申すほどの立場でもなく、門兵はそこまで考えが至っていないのだろう。二人はビースの指示に頷いて、そのまま部屋を出ていった。
「僕とシャルグはそれでもいいけど、ビースはそれじゃ危険なんじゃない?」
ライトとシャルグとビースの三人は、ライトの寝室で即席の会議を開いていた。
ライトの寝室は、一国の王の部屋とは思えないほど質素だった。
まず何よりも意外なのは、そこがそれほど広くはないというところだ。ルックとルーンと三人で眠っていた部屋より、ほんの少し広いくらいだろう。ベッドは部屋の隅で、造りのしっかりしたものではあるけれど、天幕もない地味な姿で控えている。
前国王というのも、贅沢を嫌ったということだったが、ライトの部屋はそれよりも遥かに庶民的だった。それはライトが望んだことで、ビースもライトの気持ちを慮って、注文通りの部屋を用意させた。
ライトにとっては、この部屋でもまだ少し落ち着かなかったが、それはルックとルーンがいないせいかもしれない。
「いえ、一応私の護衛といたしまして、私の館のカイルを呼んでおります。今は見張りも兼ねて館におりますが、その十九軍とともに明日、登城してくるでしょう」
ビースの館というのは一の郭の最も城から近くにある建物だ。元は開国の三勇士、ザバラとスイリアの住居だった。今はその直系の子孫であるビースに受け継がれている。まるで王城の最後の砦とでもいうように建つそれは、他国の賓客を迎えるに相応しい、堂々たる家だった。
「カイルか」
シャルグがどこか懐かしむようにぽつりと言った。
「ええ、私の切り札です」
ライトは二人の言うカイルという男性を知らなかった。不思議そうに二人を見上げていると、シャルグが微笑み説明をしてくれた。
「少年時代、アラレルやシュールと同じチームにいた男だ。俺は数回しか会ったことがないが、強者だ」
そのチームにシャルグが含まれていないと分かる彼の口振りに、ライトはそれ以上は何も尋ねなかった。ライトも詳しく聞かされていたわけではないが、シャルグの暗い少年時代はおぼろげながら理解していたのだ。
「そうなんだ。シャルグがそう言うなら、僕とシャルグとその人がいれば、四人くらいは大したことないね」
ライトはルーンと同様、命のやりとりということをあまりにも理解していないようだった。それに加えて、ライトはルーンよりも確実に強い。今このアーティス国の国民で、一対一でライトに適う者などそうはいないだろう。だがだからこそ、その自信は命取りになりかねない。
「油断はするな」
王とはいえ、自分が育てた少年だ。シャルグはとても強い口調でそうたしなめた。その目はとても真剣で、ライトは幼気に目を伏せた。見目の美しい金髪の少年は、シャルグが二の句を次ぐのを一瞬忘れるほどに憂いを帯びた。
その一瞬の間に、ライトはぼそぼそと言い訳をした。
「でも実際、シャルグも目の技法を習ったんでしょう? 僕だって強くなったし、カイルって人も強いって言うし、絶対負けたりしないと思うよ」
叱られるのを怖れるように言ったライトの言葉は、しかしシャルグの言った言葉を少しも理解していなかった。シャルグは強い口調のままさらに重ねる。
「絶対などと気安く言うな」
これにはビースもため息を吐く。
ビースは首相という立場上、シャルグほどには強く出られない。しかし、帝王制ではないアーティスだと、法律上はビースと王はほぼ対等の存在だ。元々彼らの先祖の、開国の三勇士に上下関係はない。そしてシャルグの危惧がビースには手に取るように分かった。したがって、ビースはシャルグのその不敬には目をつむることにした。
「確かにおまえは強くなった。しかし俺は、例え目の技法を知らなかったとしても、お前に後れをとることはない。その俺にしても、俺よりも強い戦士を何人も知っている。ドゥールやアラレル、それにこの間のリリアン、俺の弟。近い存在だけでもざっとこれだけ思い浮かぶ。
敵の実力を軽んじるものは、それだけ早く死ぬ。
それがこの世の習わしだ」
普段あまりしゃべり馴れていないせいもあるのだろう。シャルグの口調は、おそらく本人が思っていたよりも厳しいものになった。
そのため自尊心が傷ついたライトは、どうしてもそれに反抗してしまった。
「そんなことないよ! 僕だってアラレルに直接稽古してもらったんだ。いくらシャルグだってそんな簡単に勝てたりしないよ! それにアラレルだってみんなに、絶対負けないって演説してたでしょ? どうして、あれとどこが違うのさ」
ライトは思わず強い口調で言い返してしまったことを、内心とても後悔した。ライトにとってシャルグは絶対の存在だった。しかし若い心に芽生えた自尊心は、退くことを許さなかった。
シャルグはほとんど初めてと言ってもいいライトの反発に、相当心を折られたのだろう。ライトの言葉のどこが間違えているかを、咄嗟には返すことができなかった。
確かにアラレルは宣誓の場にて、この戦争に敗けはないと大音声で宣言した。したのだが、それはあまりにも別の話だ。
黙り込んでしまったシャルグに、ビースは見かねて口を挟んだ。若い者に任せようという気もきっとあったのだが、すでに解決策を見いだしているのだろう聡明な男は、シャルグとは違い、落ち着いた口調で言う。
「アラレルのあの言葉は、兵を騙す、薄汚い嘘にございます。嘘をつき、兵の恐怖を消したのでございます。死を恐れぬ兵は、死を恐れる兵よりも数段強いものです。随分と汚いやり方でしょう。……あれはすべて私の指示です」
「そんな、でも」
自らを軽蔑するようなビースの言葉には、反抗的だったライトも、反論をすることを躊躇った。ビースには、とてもとても深い影が感じられたのだ。
「ライトは先ほど自分がシャルグに負けない力をお持ちだとおっしゃいましたね」
しかし、その深い影はどこへやら、ビースは淡々と言葉を続けた。
「私は戦士ではございません。戦いのことなどは恥ずかしながら、全く存じ上げません。ですが私は、ライト王がシャルグよりも腕が立つとは思えません。どうでしょう、一度お二人でお手合わせをしてみては」
その突然の申し出に、ライトはもちろん、シャルグも目を見張りビースを見た。しかしシャルグはすぐに得心をし頷いた。
ライトにもその提案を退ける理由はなく、シャルグにならい頷いた。




