幕間 ~魔法剣士の恋~
「私を酔わせたいの?」
最高に機嫌が悪いというのに、彼女は仲間に強い酒を飲まされた。水だと騙されたのだ。
彼女は酒には強いが、そろそろ限界だと思ったので水を頼んだのだ。水だと信じて一気に喉へ流し込んだせいで、顔が燃えるように熱くなった。
アーティーズの酒場での出来事だ。繁盛している店で、仲間の男が特に気に入っている。今はもう客のほとんどいない時間帯で、仲のいい店主が一緒に酒を飲んでいる。店主は普段真面目な男だったが、彼女が水だと思って酒を飲むのを止めなかった。
「いやいや、お前が最近景気の悪い顔してたんでな。俺の酒がまずくなる前にちょいと手を打っとこうと思ったわけよ」
仲間の男は悪びれる様子もなく答える。おどけた口調だ。しかしからかっているような素振りでいたが、おそらくそうではない。
忌々しいことに、元気付けようとしているのだ。
彼女は落ち込んでなどいない。そう示そうと口を開いたが、久しぶりに飲んだ強い酒にめまいを起こした。まるでそれが憂いたように見えたのだろう。店主が心配そうに言った。
「なんだ。ほんとに落ち込んでるんだな」
「落い込んえなんかないよ!」
舌が回らず、彼女の反論に男と店主はげらげらと笑った。
「んなら面白い話をしちゃくんねえかな? せっかく大金といい酒が入ったんだ。落ち込んでねえなら景気良く行きたいよな、酔っ払いの魔法剣士さん」
「酔っていない! それなら私の素晴らしい思い出を聞かせてやろう」
彼女は意識して舌を回しながら、そう強がった。普段より堅い話し口調になっているのがすでに酔っている証だったのだが、男たちはそう指摘はしなかった。
「まず、私たち三人は故郷と相性が悪い人間だった。リリアンは生まれた村で迫害されてたし、アーティス人は真面目で思いやりがあって志が高くて謙虚でユーモアが上品だ。正反対のキルクには居づらい国だった。
私は見ての通り絵にしたいくらいの美人だ。画家の多いティナだと、毎時間別の若い画家が私にモデルになってくれと言ってくる。金の絵の具は高いからね。私はティナの若手画家を破産させないために旅に出た。
うるさいはげども。黙って聞いてろ。
とにかく。私はティナに住む人のあのちゃらんぽらんなところが性に合わなかったの。
ティナには『ノリがいい』という概念がある。フッディっていうのは了解をふざけて言ったスラングだ。つまりフーデイもフッディも同じ意味で、なんでも肯定的に捉えようという考え方を『ノリがいい』と言う。
もっとくだけた言い方をするなら、楽しけりゃなんでもいいってことね。
それが私にはどうにも気に食わなかった。
ティナ街は奇形も出ないし戦争とも無縁だ。つまりとにかく平和だ。平和すぎて街人は楽しく遊ぶことしか考えてない。根暗と言われるかもしれないけど、私はリリアンみたいにぼーっとしてる子の方が一緒にいて落ち着くの。
まあ羽を伸ばす分には悪いとこじゃないけどね。
それで。私たちはちょっと前にファースフォルギルドのトーナメントに参加しようとティナに入った。結局一回戦、二回戦、三回戦で負けたけど、まあそれは別にいいか。えー、私の素晴らしい思い出っていうのは、そのトーナメントの前のことでね。私たちはトーナメントよりだいぶ早くあの街に着いたの」
そこで私は運命の恋をした。
「お姉さんお姉さん! やっばい美人じゃんか! 俺さ、最近人気の絵描きなんだけど、ちょっとモデルになんないか?」
ティナ街北部の食堂で昼食を食べていたとき、私たちは軟派な画家に声をかけられた。薄い茶髪が映えるキーネの画家だ。身なりにかなり気をつかっているらしく、おしゃれで香水のいい匂いがした。
「ウィン、すごいわね。もう三人目よ」
まだ十四歳とはとても思えない、達観した目でリリアンが言った。昨日も二人に声をかけられたので、この軽薄そうな自称人気画家が三人目なのだ。
「おや? 先約があるのかい? お嬢さんもとても可愛いね。俺の画廊がこの近くにあるんだ。二人で少し休憩がてら寄ってかないか?」
「おい、こいつ俺のこと見えてないみたいだぞ」
キルクは文句を言って天井をあおいだ。二日で三人も同じような絡まれ方をしたのだ。飽き飽きしているのだろう。
しかし今回の画家は昨日の二人よりも強引だった。近くに画廊があるというので、本当に人気のある画家なのかもしれない。自尊心が高そうで、なかなか引き下がろうとしなかった。
「残念だけど興味ない。それにどうせ私を裸にしたいんでしょ? 私剣士だから結構服の下は傷だらけなの。とても絵にはならないから」
「いいね。傷っていうのはまだ絵にしたことがないよ。ぜひじっくり見せてもらいたいね」
「はっきり言っていい? 私あなたにほんの毛先ほども関心がないの」
「俺のモデルになればそうじゃなくなるよ」
「ねえキルク。キーネって殴り倒しただけでも罪になるんだっけ?」
「試してみろよ」
私が剣呑な態度を取っているのに、軽薄な画家は少しも気にとめなかった。
「よしてくれよ。俺が右腕をけがしたらティナ中の画商が破産してしまう。騙されたと思って少し付き合ってくれないか。本当に上手いんだぜ? なあ、お嬢さんは来たいよな?」
すごく鬱陶しい男だった。どれだけ絵が達者だろうと関係ない。何よりもリリアンを巻き込もうという時点でこの画家に生きる価値はないのだ。
そろそろ本気で完全犯罪の計画を練ろうかと思ったとき、助け舟が入った。
桃色の長髪を頭に乗せた若い男だ。リリアン程ではないが目が大きく、少したるんだ体つきだった。しかし見てくれが悪くなるほどだらしない肢体ではなく、どちらかと言えば女性にもてそうな外見だった。
「やめたまえ!」
まるで英雄劇のような登場のしかただった。正直新たな軟派男だと勘ぐった。しかし本人はいたって真剣な顔だ。
「なんだてめ? 今大事な話の最中だ。すっこんでろよ」
画家はキーネだったが、強気で英雄に立ち向かった。私はすぐに止めようと思ったが、新展開にキルクが面白がった。このままどうなるか様子を見ようと目で訴えてきたのだ。
「二人とも、悪ふざけはほどほどにしてちょうだいね」
呆れたようなため息をついてリリアンが言った。私は止めようとしたのに、「二人とも」とはひどい話だ。顔がにやけていたのだろうか。
桃色の英雄は立ち向かってきた画家に、なんといきなり剣を抜いた。そして明らかに扱い慣れていない構えを取った。それから勇ましく言う。
「僕の模擬刀が君を粉みじんに切り刻まないうちに、退け!」
模擬刀! これには画家も心底驚いたようだ。おちゃらけた態度も忘れ、思わず真顔で問い返した。
「え? エイス・バードだと?」
「ああそうさ。僕の家の、あー、僕の知り合いの戦士から譲り受けた、由緒ある剣の名前さ!」
どうやら桃色の英雄は、模擬刀を剣の名前だと信じ込んでいるらしい。確かに模擬の語感は強そうに聞こえる。しかし実際はもちろん刃を潰した飾りの剣だ。
キルクが耐えきれずに声を漏らして笑う。ずるい。
「お前さぁ、そもそもすっこんでろって言われただけでキーネを粉みじんにすんのか? 一生牢屋から出られなくなるぜ?」
画家から鋭い指摘が飛んだ。これは完全に正論だ。英雄はどう切り返すだろうか。頑張れ英雄。
私が小声で声援を送り始めると、キルクが腹を抱えて苦しそうに笑い始めた。苦しそうなのは必死に声を殺しているからだろう。
「粉みじんは言葉のあやだ!」
「じゃあどうしてくれんの?」
「え、えっと、警邏隊を呼ぶ!」
キルクと画家が示し合わせたように大声で爆笑を始めた。桃色の英雄は怪訝な顔で二人を見ていた。私はただひたすらに真顔を維持するのに全神経を注いだ。
「はは、お前最高だ! おう、今日のところはお前に免じて立ち去ってやる」
画家はこの事件を知り合いに話したくて仕方なくなったのだろう。上機嫌に笑いながら立ち去って行った。英雄劇の悪党が言いそうな捨て台詞を残して行くのがなかなかのセンスだ。
桃色の英雄は伝説の剣「模擬刀」を鞘に収め、私ににこりと笑いかけた。最初は新たな軟派男だと勘ぐったが、彼は特に口説き文句も言わず、そのまま立ち去ろうとした。
悪ふざけはほどほどにと言ったリリアンだが、何か琴線に触れてしまったのだろう。立ち去ろうとする桃色英雄に声をかけた。
「お待ち下さい。せめてお名前を!」
もともと手遊びに語り部の仕事をするリリアンだ。迫真の演技だった。澄んだアルトの声が舞台役者のようによく響く。
キルクが爆笑をぐっと堪えた。
「おいまさか」
必死で笑いを噛み殺しながら、キルクは小声でそう言った。これはそう、まさか聞けるかもしれないのだ。魔剣レッツァの舞台の名台詞、「僕の名かい? 魔王を倒し、そのうち世界に轟かせてみせるさ!」が、この何でもないただの食堂で!
気が付くと食堂中が期待を込めた目で桃色英雄に注目している。私は隠れてさっきの画家も見ていることに気が付いた。さすがにこれは見逃せないのだろう。
みなの期待を一身に背負った桃色が振り返る。しかし彼もすでに気付いてしまったのだろう。顔が羞恥で真っ赤になっていた。
「僕の名かい? 魔王を倒し、そのうち世界に轟かせてみせるさ!」
フーデイ・フッディとは彼のことを言うのだろう。全てを理解した上で、赤面したまま彼はその台詞を見事言い切った。素晴らしい。彼は正真正銘の英雄だ。
「魔王! 魔王!」
キルクは完全にツボに入ったらしく、手を叩きながらそう繰り返して大笑いした。
キルクだけではない。リリアンと英雄以外の全ての人が爆笑していた。リリアンは演技に入っていたため難を逃れたのだろう。つまり、私はまるでダメだった。堪えられるはずがない。
助けようとしたはずの私に笑われた英雄は、「勘弁してよ」と頭を抱えてうずくまった。
私たちが彼の名前を知ったのは、その二日後だった。もちろん彼が魔王を倒したのではない。一応ね。
私たちはトーナメントまでの時間潰しに、何か簡単な依頼を受けようとファースフォルギルドに立ち寄った。私はティナの生まれだったので、ギルドは快くいくつかの依頼を紹介してくれた。
せっかくだから少し危険でも実入りのいい仕事を望んだ。旅というのはとにかくお金がかかるのだ。また秘境だとか迷宮探索だとかをしようと思えば、それなりの貯えが必要になる。だから今のうちに稼いでおきたかった。
しかしやはり旅のアレーに紹介してもらえるような仕事は、正直大した報酬は望めないものばかりだった。そもそも私たちはみんなに一発で実力者だと分かってもらえるようにトーナメントに参加しようとしていたのだ。今の無名な私たちでは、一番良くて荷物運びくらいしか受けられる依頼はなかった。
「屋根掃除なんかはどうでしょうか? すぐに終わって一軒銅貨四枚とお得ですよ。街の外観を良くしたいという市長からで、お勧めの依頼です。依頼主の信用度も高いですから」
銅貨四枚なら一日に二十軒清掃しても、三人分の宿代にもならない。依頼主の信用度が高くてもそれはさすがに辛かった。
キルクが粘って交渉を続けたが、美味しい仕事は登録員に回したいのが当然だ。ギルドの受付は若い女性だったが、キルクがどれだけ甘い言葉でおだてても全く相手にしていなかった。ざまあみろ。
「せめてフォルの資格をお持ちでしたら、優遇させていただけるのですが。あ、トップ家の家出息子を連れ戻す仕事なんてどうです? 金貨二百枚のお仕事ですよ」
フォルは隣国のアレーギルドの資格だが、ティナ街でも効力があるらしい。ティナはどの国にも属さない街だと自負しているが、実際はアーティス国の独立自治区のようなものだ。王はいないが、市長が他国で言う首相や大臣のような役割をしている。
トップ家の家出息子というのは有り得ないほど高額な報酬だ。しかしその息子がどこにいるかも全く分からないのだ。旅の途中に気安く受けるような仕事ではない。
結局私たちは依頼は受けず、ギルドの建物を後にした。
そして建物を出たときに、たまたま一昨日の桃色英雄に遭遇したのだ。
「あれ? おーい! お前あのときのノリのいい兄ちゃんだよな? おーい、こっちこっち」
ギルドを出てすぐ、通りの向こうから歩いて来た英雄をキルクが見つけた。広い農園生まれのキルクは目が良く、かなり遠くから彼のことに気付いたのだ。きょろきょろと辺りを見渡す英雄にキルクは大きく手を振った。
英雄はまだこちらが誰か分からなかったのだろう。キルクに呼ばれて歩み寄ってきて、こちらの顔ぶれに気付くと足を止めた。遠目にも気まずそうな顔をしたのが分かった。
「はは、逃げんなよー」
キルクが声を張ってからかうと、英雄は観念したようにため息を吐き出した。
「こんにちは。先日はどうも」
桃色の英雄は思っていたより痛々しい人ではなかった。やけに高級感のある地味な服を着ているが、恰好も普通だ。
もし彼をフィーンやカンで見かけたら、どこかの貴族だと思ったかもしれない。貴族が家にある服からあえて地味なものを選んで着たら、こういうふうな見た目になりそうだと思った。
「俺はキルク。こっちの長いのがウィンで、短いのがリリアンだ。良かったら今から飯でも行かないか? こないだの礼におごらせてくれ」
キルクは私のことを長い、リリアンのことを短いというのが気に入っている。もう百度は聞いたので面白くもなんともないが、初めて聞いた英雄にはうけたらしい。
「あはは。それじゃあおごってもらおうかな。この中くらいの長さはミアだ。たぶん君たちと同じ旅のアレーだよ」
ミアはキルクの冗談に乗っかった自己紹介をした。旅のアレーが身に付けるにはだいぶ小綺麗な恰好だったが、ひとまず私たちはそれには突っ込まなかった。
「あ、ちなみにお礼っていうのは、もちろん君たちを困らせていた画家を追い払ったことへのお礼だよね? 聞くまでもないだろうけど」
ミアはユーモアがあり、可愛い見た目とは裏腹に博識で聡明だった。
彼はリリアンの服装をひと目見てヨーテス人だと見抜いた。これはリリアンの民族衣装を見れば分かって当然だ。しかしそれだけではなく、私がティナの人で、キルクがアーティス人だとまで見抜いた。
私は旅に出てから意識して服装を変えたりはしていない。ただティナらしい恰好ではなく、全身に魔法具を装備していた。ティナの生まれだと推測できる要素がどこにあったのかは分からなかった。
そしてキルクは明らかにアーティス人らしくはない恰好をしていた。アーティス人は、特に男性ならそこまでおしゃれな恰好をしない。ケチ、もしくは倹約家の彼らが服に求める一番の要素は「丈夫で長持ち」らしいのだ。アーティス人のおしゃれは主にアクセサリーで示される。
キルクはそのアーティス人には珍しくとてもおしゃれだ。最近では嫌みな性格のせいで鼻につくだけだが、最初の頃はかっこいいとまで思っていた。
「どうして私たちが旅のアレーだって分かったのかしら?」
食事の途中、リリアンがミアに尋ねた。
「ん、だって君はヨーテス人だよね? キルクは明らかにアーティス人だし、ウィンはたぶんこの街の出身だよね。出身地がばらばらのアレーがチームを組んでいたら、普通旅のアレーだって思うよ」
「は? なんで俺たちの出身地を知ってるんだ? まあリリアンはそのまんまだけどよ」
「ふざけ方の違いだね。君は最初長いのと短いのって二人を紹介したよね? 初対面であんな冗談を言うのはアーティス人だけなんだ」
「そうなのか?」
キルクはミアの指摘に驚かされたようで、私を見てそう聞いてきた。私も意識したことはなかったが、確かに最初にキルクのその紹介を聞いたときは何か変だと思った。それが逆に新鮮で面白かったので気にしていなかったが、言われてみるとティナでは仲間を貶めるような紹介はしない。どちらかというと「背が高くて凛々しい」とか、「小柄で可愛らしい」とか、過分な褒め言葉で紹介するだろう。
「分からないけど、確かに旅先であの紹介をするとき、面食らった顔をしてから笑う人が多かったかもね」
「ふーん。まあなんだかんだ言っても生まれ故郷は変えらんないからな。じゃあウィンはなんでティナの人だって分かったんだ?」
「ウィンは自分から名乗らなかったよね。あれは北の四国では礼儀に反する行為なんだ。僕たちは気にしないけどね」
「ああ、それは聞いたことがあったな。フィーンに行ったときに指摘されたよ。あれ、アルテスだったか?」
「フィーンであってるわ。あのときはまだミヤがいたもの」
リリアンがかつての仲間ダーミヤの愛称を口に出すと、キルクはすぐにそう言えばと納得顔になった。
「それで、どうして私がカン帝国でもヨーテス王国でもアーティス国でもなく、ティナ街の人だと思ったの?」
私はこの街が好きではなかった。だからティナ生まれだと言い当てられたのは少しショックだった。
「それはなんて言うんだろ。ノリの良さの違いかな? カン人は一昨日の画家にああいうふうに声をかけられたらただ無視をするだけだと思う。ヨーテス人はもっと邪険にしていたか、快く引き受けたんじゃないかな。アーティス人はきちんと理由を言って断るよ。
もちろん人それぞれ個性はあるから一概には言えないんだけど、あの感じはなんていうか、ティナっぽかったんだ」
それはミアの漠然とした感覚だったのだろう。しかしその感覚だけで「たぶんティナの出身」とまで言えるのだ。私は嫌いなこの街の色が抜けきっていないのだろう。かなり悔しかった。
「すごいわね。私たちは大陸中を旅したけれど、そんな些細な違いには目を向けたことがなかったわ」
リリアンがそうミアを賞賛した。それから少し余裕のある笑みを浮かべて、お返しだと言うようにミアに忠告をした。
「じゃあ私からも一つあなたに教えてあげるわ。偽名を使うときは音の近い言葉には少し注意を払って見せるべきよ」
この場で一番幼いリリアンは、私もキルクも全く気付いていなかったことを指摘した。ミアというのは偽名だったのだ。
「ああ、だからダーミヤのおっさんの話なんてしたのか」
キルクが感心したようにそう言った。
先ほどリリアンはダーミヤのことをあえて愛称でミヤと呼んだのだ。「ミア」と「ミヤ」は語感が近いので、自分を呼ばれたのだと少しくらい反応を示すのが普通だ。しかしミアはそれをしなかった。
私とキルクは純粋にリリアンの機転の良さに驚いていた。しかしミアは別の点に驚いたようだ。
「ていうことは、リリアンは最初から僕の名前が偽名だと疑っていたのかい?」
「あ、そう言やそうだよ。そもそもミアを偽名だって疑ってなきゃ確かめねえよな。なんで偽名だなんて思ったんだ?」
キルクの問いにリリアンは泰然とした笑みを浮かべた。自分を誇るでも相手を馬鹿にするでもなく、どこか淡い自嘲が混じったような笑みだ。そしてその表情のまま淡々と言った。
「なんとなくよ。たぶんミアが『僕はミア』って言わなかったからね」
リリアンの回答は予想の斜め上だった。そんなのは普通の冗談だ。私は少しも違和感を感じなかった。しかしリリアンの勘はそれを見過ごさなかったようだ。
「はは、お前天才かよ」
キルクが大笑いをしてそう言った。私もそれに共感した。まるで大道芸人の名人芸を見せられているかのような気持ちだ。すごすぎて笑えるというやつだ。
しかしミアだけはリリアンの勘の良さにそれほど驚いた様子はなかった。彼の周りにはリリアンのような優れた洞察力がありふれたものだったのだろう。
ミアは結局本名は名乗らなかった。
彼はティナを周遊する旅の途中だったらしい。私はふと思い付いて、彼の旅に同道できないか提案してみた。
「私たち今すごく暇なの。ふた月後にトーナメント大会があるでしょ? あれに参加しようと思ってるんだけど早く着きすぎちゃって。あなた私たちを雇わない? いい護衛になるよ」
ミアは見るからに戦闘はからきしだったし、平和なティナ街とはいえ東部や南西部には治安の悪い地域もある。
彼もそれを心得ていたようで、もともと護衛を依頼しようとギルドに向かうところだったらしい。二つ返事で私たちのことを雇ってくれた。
私たち旅人は定住者の事情には深く関わらない。これは流れ者の最低限のマナーだ。私たちは最後まで責任を持って付き合うことができない。だからなぜミアが偽名を使っているのか探ろうとは思わなかった。
それがミアにとっても好都合だったようだ。
ただ彼が提示した金額に、私は思わず彼が何者なのか問いただしたくなってしまった。
なんと彼はただの護衛に、一人金貨二十枚を約束したのだ。しかも道中の食事や宿代は全て彼持ちだ。さらにそれを先払いしようとした。
私たちとは明らかに違う育ちの人間だ。ただそれが私にとっては新鮮で、少しも嫌な気持ちはしなかった。彼の洞察力の高さや気づかいのできる性格、相手を思いやったユーモアに、次第に私は惹かれていった。
決定的だったのはティナ東部で強盗に襲われたときだ。
ティナ東部には街のルールに馴染めない裏社会が構築されている。そうした裏社会の組織は大きな街には珍しくない。ティナは大陸で最も大きい街なので、当然いくつかのそういった組織が存在していた。
敵はそんな組織の徒党だった。ミアの高価な服装を見て金づるだと判断したのだろう。私もそこまで詳しくはないが、彼らは身の代金や強奪した金を運転資金にし、法に触れる商売をしている人間たちだ。
徒党は全部で十一人のアレーだった。狭い裏路地で五人と六人の男女に挟み撃ちにされた。戦士ではないが、荒事に慣れている人間たちだ。私たちは彼らの命を奪うつもりで戦闘態勢を取った。
五人の方をリリアンが、六人の方を私とキルクが受け持った。
私にとってはかなり真面目な勝負になった。
私はアレーの実力としては中の上といったところだ。しかし装備はキーネに持たせたらそこらへんのアレーには簡単に負けないくらいの上等品だ。
強盗のアレーとは実力差はそれほどなかったが、私の揺らめく剣、名刀「蜃の剣」が敵を翻弄する。二人同時に相手取ったが、一人が私の剣へなかなか対処できず、細かな傷を増やしていく。
私の鎧は敵の剣を鈍らせる、薄い強風を纏った鎧だ。これは剣筋が確かな実力者にはほとんど効果がない。しかし荒事に慣れているとはいえ、強盗は戦闘訓練を積んだ戦士ではない。私の鎧に有効打を放てずにいた。
ただ受けただけなら骨を折ったりしていただろう。しかし中の上とは言え私は戦士だ。敵の動きに合わせて力を込めるタイミングをずらしたり、筋がいい一撃はしっかりとかわして対応した。
本来なら完全にかわしきるのが理想だが、これでも私にとっては及第点だった。
そして業を煮やしたもう一人の敵が私に体当たりを仕掛けて来た。体当たりには鎧の風も全く効果がない。吹き飛ばされて転んでしまえば絶体絶命だ。
しかし私はそこで一段スピードを上げて剣を払った。緩急を付けた動きで足りない速さを補うのだ。これは私の磨いた得意技だった。
今まで私の蜃の剣を捌ききっていた強盗は、突然の速さの変化に対応できなかった。私の剣は敵の喉を見事に切り裂いた。
見事と言っても、キルクは並の腕利きよりも一段強いし、何よりもリリアンは私の知る中で最強の戦士だ。私が一人を切り倒した間に、二人は八人の敵を討ち取っていた。キルクが三人、リリアンが後ろのアレー全員だ。
残った敵は逃げ出して、九つの死体の中で私たちは剣をしまった。
「その伝説の剣の出番はなかったな」
戦闘が終わるとキルクがミアにそんな冗談を言った。
私たちにとっては命の奪い合いは珍しいことではない。対人戦はそこまで日常茶飯事ではないが、傭兵として戦争に参加したこともある。
しかしミアには初めての経験だったのだろう。九つの死体を眺めながらぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「おいおい、泣くなよ。俺たちが悪者みたいになんだろうがよ」
私たちももともとは人が人を殺さない平和な日常を生きていた。だから涙を流すミアをおかしいとは少しも思わなかった。キルクはどうだったか知らないが、リリアンも最初に人を殺したときにはひと晩中隠れて泣いていた。
「とにかくこの場所を離れて宿を取りましょう。体を洗いたいわ」
リリアンが言う。ミアは言葉なく泣きながらリリアンの言葉にうなずいた。そして宿への道を先導して歩いた。
私は涙を流す彼を見て、ミアは弱い人なのだと思った。だって彼自身が人を殺したわけではないのだ。それなのにいちいちこんなに打ちひしがれていたら、ただ生きていくだけでも大変だろう。
だけどそれは違った。彼は私なんかでは計り知れないほど強い人だった。
宿に着き、リリアンとキルクが先に風呂場で体を洗っているとき、私とミアは二人で会話をした。
「さっきはごめんね。ただ見てただけの僕が泣いてしまうなんて、失礼なことだったよね」
「失礼とかじゃないけど、別にあなたにはなんの責任もないんだよ。泣かなくてもいいよ」
「ううん、責任はあるよ。彼らは僕を狙って襲いかかってきたんだ。僕が旅なんてしてなければ死なずに済んだ人たちだったんだから」
「そんなこと言い出したらきりがないよ。ただ生きてるだけでも近くで誰かが死んでるんだ。いちいち責任なんて考えてたら気が滅入っちゃうよ」
「うん。そうだね」
ミアは肯定したが、それでもその表情は寂しそうに見えた。私はこのときその表情に苛立ちを感じた。キルクが言ったように私たちが悪者になった気がしたのだ。そんな綺麗なことを言われてしまうと、私たちばかりが汚いみたいだ。
しかしミアはさらに綺麗事を並べ始めた。
「あはは。けど責任がどうとかは別にどうだっていいんだ。ウィンの言うとおり、僕は死になんて責任は持てない。ただ、僕は人の生に対しては責任があると思うんだ。
彼らに対してはその責任が果たせなかった。
彼らに生きる道を示せなかった自分が情けないんだ」
それは私には全く考えもしない責任だった。戦士として生きる上では持ってはいけない責任だとも思った。
しかし彼は戦士ではないのだ。そういう生き方もあるのだとは理解できた。だから今度の綺麗事には腹は立たなかった。
「僕はね、この旅で人がどう生きているのかを知りたかったんだ。どんな立場の人がいて、どんな想いを持って生きているのか、知っておきたかったんだ。それで何ができるわけではないんだけど、僕はそれを知っておくべきだと思っていたんだよ」
私にはない価値観だった。そして彼が流した涙は彼自身の悲しみから来たものではないのだと分かった。戦いへの恐怖からでもない。自分の死を意識しての涙でもない。
彼は死んだアレーの気持ちを慮って泣いていたのだ。
それはとても綺麗な涙だったのだと思った。そして戦士として生きる道よりも、なんと険しく辛い道を選んだ人なのだろうかと思った。
「そんなの、あなたが耐えられるのか心配になるよ」
「うん。僕は弱いからね。きっと何度もまた泣いてしまうと思うよ」
彼はまた寂しげな顔をした。弱いなどとはとんでもない。そう思った。
「なら次泣いたときは私が頭を撫でてあげる。私は見ての通りすこぶる美人だから、きっとなかなか効果があるよ」
ミアは私の言葉に驚いた顔をした。私としてはほぼ冗談のつもりで言ったのに、真に受けてしまったようだ。彼はまたぽろぽろと涙を流し始めた。
そう。冗談のつもりだったのだ。だけどほんの少しだけは冗談ではなかった。
旅人が抱いていい感情ではないのは百も承知だ。しかしそんな真面目な考えは今はどうでもいい気がした。
私はティナの人なのだ。フーデイ・フッディ。今が楽しければそれでいいじゃないか。
人を殺したすぐあとの女とキスをするのは、どんな気持ちだったのだろうか。しかし彼ならこんな薄汚れた私のことも受け入れようとしてくれるのだろう。その聡明な頭で全てを理解した上で、汚いことも綺麗なことも、丸ごと飲み込んでしまうのだろう。
「そこから先のティナ周遊の旅の間、私はずっと浮かれていたと思うよ。今まで何度も恋をしてきたことはあったけど、あんな浮かれた気持ちになったのは初めてだった。
過去の全ての恋が過ちだったのだと心の底から断言できるね。キルクをかっこいいと思ったことなんて、今なら全否定してやれる。なんならキルクごと否定してもいい。死んでしまえ。
うわ、リリアンが睨んだ。酔っ払いの言うこといちいち怒っちゃだめよ。
まあけど、落ちはなんていうかとんでもないクソだったよ。ミアはトップ家の家出息子だったんだ。そう。金貨二百枚の尋ね人さ。
つまり、もし私がティナに定住するって言っても、決して結ばれる相手じゃなかったの。
でも別に落ち込んでるだけじゃないのよ。私にとってはすごくいい経験だったし、綺麗な思い出を作れたっていうかさ。ま、キルクみたいな節操なしには分かんないだろうけどね。
やーん。リリアンは分かってくれるよねー。うんうん。今日もめちゃくちゃ可愛いぞー。
たださ、それなら最初から言えよとかはちょっと思ったよね。だから落ち込んでるよりはムカついてるって方が正しい。
だからさ、私は今めちゃくちゃ機嫌が悪いわけ。そんな私を酔わせたんだから、あんたら覚悟しといてね」
彼女は長い話を締めくくったあと、晴れ晴れとした気持ちで追加の酒を主人に頼んだ。
トーナメント大会では結局名前を売ることはできなかった。しかしミアの護衛代で懐は暖かい。しかもちょうど今日はこの店に上等な酒が仕入れられたタイミングだったらしい。
「キルクの雑な気づかいも、まあまあ役には立ったな」
「気づかいだ? 俺は美味い酒を飲みたかっただけだよ」
散々馬鹿にされて拗ねているのか、素っ気なくキルクが言った。充分すぎるほど酔った彼女にはその素っ気なさすら気持ちよく感じられた。
「ウィン、嬉しいけれど、そろそろ苦しいわ」
彼女が力いっぱい抱きしめた腕の中で、リリアンが冷静な指摘をしてきた。
「あれー? いつの間に私の腕の中にいたの? 甘えん坊なの?」
「さっきあなたが言っていた完全犯罪について、もう少し詳しく聞きたくなったわ」
その物騒な冗談に、ウィンは慌ててリリアンを解放した。
「ははは! ずいぶん酒が美味くなった。やっぱ酒席ってなこうでなくっちゃな!」
「キルク、それこそアーティス人らしい発想よ。あなたが故郷を大好きなのは知っているけれど」
リリアンの皮肉にはアーティス人の店主が大笑いをした。




