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リリアンは思っていたよりも半分以上遅い軍の進行速度に苛立っていた。
「リリアン将軍!」
切羽詰まった声で、ファースフォルギルドから雇った若いアレーが声をかけてきた。
「今度は何? もしくだらない内容だったら今度こそ私は怒るわよ」
旅に慣れていないティナ人は、予想以上に体力がなかった。少し歩いてはすぐに小休止を求められ、それでいて睡眠時間はリリアンに必要な時間の二倍を取らなければいけなかった。もしそれをおろそかにしようものなら、たちまち軍の足並みはそろわなくなって進行は止まった。
「い、いえ、その」
リリアンの苛立ちを感じ取った兵士は、しどろもどろになりながら言った。
「しょ、食糧が底を尽きそうでして」
「まさか、嘘でしょ? いえ、……失念してたわ。確かにそろそろ尽きてもおかしくないわね。でも嘘でしょう? またそんなことで足止めを食らうの?」
リリアンはまるで信じがたいと言うように、天を仰いだ。
「ど、どういたしましょう?」
とりあえずお咎めはないと見た兵士は、リリアンの気を逆なでしないように慎重に聞いた。
「キルクを呼んで」
リリアンは短くそう指示をして、兵士はそれに素直に従い、殿にいるリリアンのチームのアレーを呼びにいった。
リリアンは頭を抱えて進軍停止の合図をかける。もう何度した合図かも分からない。
食糧は二十頭の馬に引かせて、かなり余裕を持って出てきたつもりだった。ちょうどアーティーズ山と、目的地のシェンダーを往復できるほどの量だ。シェンダーへの道程はまだ半分弱しか完了していない。それが尽きるということは、また同じ量の食糧を仕入れなければいけない。そんな量の食糧を集めるとなると、丸一日掛かりの作業になる。
リリアンが頭を抱えていると、慣れ親しんだ声がリリアンに投げかけられた。
「どうかしたか?」
紫色の髪の細身の青年、キルクだ。洒落たつば広帽に、ラフな黒いチョッキを着ている。アレーにはかなり珍しい弓使いで、背には矢筒を、腰の茶色い革ベルトには、短弓を括り付けている。顔は顎がとても細くて、少し釣った目に、高くするどい鼻をしている。肌はかなり白くて、頬は健康的に軽く赤みが差している。
キルクの目にはからかうような、面白がるような皮肉な光が浮かんでいて、リリアンが苛立っているのを楽しんでいるようだった。
「どうもこうも、食糧が尽きそうなの。ひとっ走り馬を連れて食糧調達に向かうか、このまま飢え死ぬか、好きな方を選んで」
「まさか、食糧を切らしたのか。
はは。それで、もし俺が飢え死ぬ方を選んだらどうするつもりだ?」
「そうね、そしたらグランあたりに調達をお願いして、お腹を空かしたあなたを囲んで大晩餐会でも開こうかしら」
リリアンはキルクの軽口にどうでも良さそうにそう返した。キルクは楽しそうに腹を抱えて笑って、リリアンの意に従って馬たちの元に歩いていった。
キルクが馬たちの元にたどり着くと、そこでピンク色の長髪の男が声をかけてきた。目が大きくて、少し優しそうなかわいい顔をした男だ。幼い顔だが、目に込められた決意は、この軍の中でも指折りだった。
「ああ、キルク。リリアンの用事はなんだったかい?」
この軍の中心人物でもある彼、トップは、キルクにはとても親しげだった。彼の隣には、トップの様子を気づかわしげに伺う長身の女性がいた。進軍が止まったので、トップの汗を拭く獣毛のタオルを鞄から出そうとしている。
その姿はまるでトップの付き人のようだったが、彼女ウィンは、元々はキルクと同じアレーチームで大陸中を旅した仲間だった。
彼女の背は中肉中背のキルクの背よりも二周り高い。すらりと伸びた四肢が美しく、切れ長の目が玉にきずだが、すっきりした顔の美人だった。長いブロンドの髪は全く癖のないストレートで、そよ風がじゃれるようにそれを揺らしている。
体にはその魅力を少し損ねる、無骨な軽鎧を纏っている。それはキーン時代に作られた魔法具で、鉄の中に金カーフススの糸が埋め込まれていて、その糸にかけられた呪詛の魔法で、鎧は軽くなり、弾力性を持っている。
弾力によって剣や拳が、力を上手く乗せきれなくなるのだ。
腰に回した極細の剣も、やはりキーン時代の魔法剣で、折れにくくしてあると共に、屈光という魔法を帯びている。剣は光を屈折させ、その刀身がゆらゆらと揺らめいて見える。蜃の剣といわれる名高い名刀だ。
ウィンは以前にティナ一周の旅をしたときから、トップに熱を上げていた。トップも家柄さえなければウィンのことはまんざらでもなかったはずだ。甲斐甲斐しく世話を焼かれることには照れているようだが、片時も離れようとはしないことをキルクは知っていた。
「ちょっと食糧が切れそうだとかでね。光栄にも使い走りに任命していただけたのさ。なかなか進軍が遅いんで、リリアン将軍は大分お冠だよ」
「そうだね。さすがに僕から見ても遅いと思う。最初のうちは一時間おきに休憩するほどだったしね」
「まあ、そう言うわけで、空荷になった馬を全部連れて行く。まあ、いざってときの最後の食糧は彼らなんだし、嫌とは言わないだろう」
キルクは肩をすくめて言う。
「どのくらいで戻ってくる予定? 私、空腹でさらにご機嫌斜めになった指揮官をなだめきれる自信はないけど」
「我らが名指揮官が、空腹に負けないよう祈ることにしよう」
ふざけ口調のウィンに、キルクもまたふざけたように言う。二人にとってリリアンは、奇跡の勇者でも、英雄でもない。幼いときから行動を共にする、大陸中を旅した仲間だ。そのリリアンが軍の指揮官として立ったことをおかしく思っていたのだ。特にキルクは元々のおちゃらけた性格上、それをからかわないではいられない。
「全くキルクは。物見遊山の途中じゃないんだよ」
トップは呆れたように言う。しかしキルクは、トップがウィンに対しては何も言わなかったことをおかしく思って、笑いながら馬たちの手綱をまとめ始めた。
彼が馬たちを連れて去ると、再び進軍開始の合図が伝わる。
ウィンは元々ティナの生まれだが、ティナの人々のようにおしゃべりではない。ティナの風土が身にあっていたなら、恐らく旅には出なかっただろう。
軍は進行中とは思えないほどにぎやかな行進をする。それを見て、ウィンもまた多少のストレスを感じた。本来ならリリアンの気持ちを分かり合える彼女は、リリアンのそばにいるべきだとも思う。しかしウィンは、トップのことが好きだった。この様なありさまでも、軍は一応戦争に参加している。いざ戦闘になれば、トップは自分の身を自分で守れるかも怪しい。だからこそウィンは、トップのそばにいることに決めていた。
進軍が始まり、また使命に燃えた目で前方を見つめ歩くトップを、ウィンはかすめ見る。ウィンの背はトップよりも高く、見下ろす形になる。トップはそれに気付いて、目線を合わせて照れたように笑った。ウィンも優しく微笑み返す。
それは周りから見れば、愛し合う二人がただ微笑み合っただけのようにも見えたが、ウィンにはトップが自らが守られていると気付いている様に思えた。いや、おそらくは本当に分かっているのだろう。彼の笑みには少し申し訳なさそうな気配が感じられた。
ウィンはそんな彼に愛しい思いを抱きつつ、二人ともに生きて帰れたとしても、立場上一緒にいることは不可能だろうということを思った。
ルックとルーンがシェンダーに入った夜、四人のアレー兵と、不気味な二人のキーネ、そしてそれに抱かれる幼子の一行は首都アーティーズに入ろうとしていた。
「待て、なに用だ」
首都の入り口でもある四の郭の門で、門番の老兵が制止の声をかけた。
一行の内、一人の年かさのアレーが進み出て、それに答える。
「我らはカン第十九軍。アーティス国王ライト、並びに首相ビースに、降伏勧告に参った」
「十九軍だと?」
壮年のアレーの発言に、門番の老兵はもう一人の門番とひそひそ声で相談し始めた。
この大陸では十九という数字には特別な意味がある。メスと発音されるその数字には、終わりという意味があるのだ。そのためその数字は、縁起を担がれ、軍隊や部隊などには使われることのない数字だった。しかし降伏を呼びかけ、戦争を終わらせようと言うのならば、その意味を込めてメスと言うのだろうか。
「分かった。城へ伝えよう。しかしそちらの親子はとても兵士には見えないが」
「ああ、こちらは道中、奇形の鳥に襲われているところを助け出した。他にも三人ほど子供がいたようだが、この子以外はすでに……。心神を喪失しているようで、何を話しかけても答えない。ただアーティーズに向かうと告げたらついてきた。本当なら敵国のアレーは即斬るべきなのだが、この二人の気持ちを思うとな」
語るべきは語ったとばかりにカン兵は黙った。子供の方はアレーだったのだが、その事情を聞いた門兵は、二人の傷をえぐるまいと深くは聞かずに頷いた。
そうして礼も告げずに、キーネの男女は街の中へと入っていった。二人の背中が見えなくなると、老兵はぽつりとつぶやいた。
「それにしてもひどい臭いだったな」
それを聞いたカン兵は、同意の言葉とともに肩をすくめた。老兵は相方の門番に城へと向かうように指示を出す。
もし今日が雲のない日であれば、老兵も二人のキーネの異常さに気付いただろう。真北から流れてきた分厚い雲は、暗くなった日を完全に遮っている。今にも雨を落としそうな暗い夜、郭門を照らしているのは、門の両脇に灯る、頼りない光籠の明かりだけだった。




