遠い遠い回り道(改題)
3,4年前に書いてそのままにしてあったものをサルベージしたものです。
こんな話書いたんだとちょっと不思議です。なんでかいたのだろう
人類新暦十一年、人格再構成刑設置に関するインタビューにおけるシン議員の回答
「近世初頭は技術と文化が飛躍的に発展した時代でした。いえ、正しくは技術の発展に文化のほうが引きずられて発展した時代でした。人々は変転する生活の中で、必然のなくなった多くの必要悪を捨てていきました。でも、まだ必要な必要悪も、必要悪ですらないものまで切り捨てていったのです。それが近世中期を偽善の時代に導き、近世末期には世界の覇者であったユーサ国をあのいまわしいカルト宗教に染めて近代初期の暗黒の時代へと転落させていったのです。その真の原因こそ、新しいモラルばかりを求めた点にあったのです。その一つに子供たちのあつかいがありました」
「ええ、人権という概念自体はすばらしいものでしたが、それを子供も大人も同じにあつかった点に問題があったのです。人類の大半の歴史において、子供と大人の間には厳然とした違いがありました。子供たちは成長し、儀礼を経ることによって子供としての特典を失うかわりに大人としての権利と責任を得てきたのです。人間はすべての社会的な能力を生得しているわけではありません。成長と学習によって獲得するのです。子供とはその過程にある未完成な大人です。能力的に不十分であるかわりに大人の責任も求められないし、保護も受けられます。しかし、大人が持っている権利は認められていない。
いわば精神的には昆虫のような完全変態なわけです。ところが、近世はこの通過儀礼が過去のものとしていくつかの痕跡を残すだけになってしまったのです。その結果、大人のような子供や、子供のような大人たちがいくつもの社会問題を引き起こしたのです。
これこそは古いものをただ悪いものとして排した弊害でした。と、ともに技術に引きずられた近世文化の欠点であったわけです。近世の大人と子供はゴキブリのように成虫と幼虫の違いがあまりない不完全変態の精神をもっていたこと。これが問題だったのです」
「近世の迷走は、大人のような子供たちの出現にうろたえ、刑罰まで大人と子供の区別をなくそうとしたところに現れています。これはいかに当時の国や社会が未熟であったかを物語っています。新進気鋭の近世史学者、ワン博士は当時の国家を体質的に分析して、古代ローマ帝国には及ばず、せいぜい秦帝国程度であったろうと酷評していますが、私はそこまでひどかったとは思いません。ただ、ひどい時代であったことは確かです。ギリシャのデマゴーグの横行した時代程度であったでしょう」
「ああ、すみません。話を戻しましょう。子供というのがいまだ成長過程にある人間であり、大人のように自律する責任能力を育てている途上にあるという以上、その犯した罪への対処は大人と同じでは健全な次世代は育ちません。子供が罪を犯すということは、育てかたに過ちがあったとみなすのがふつうです。したがって、再教育こそが基本方針です。悪いことを悪いことと教えて反省を促さなくてはいけません。このため、従来は保護者への説諭から民生委員による訪問と助言、施設に収容しての教育といった刑罰がせいぜいでした」
「はい、現代の我々もたくさんの問題を抱えています。特に、成人前の子供たちによる凶悪犯罪の増加は近世の迷妄を思い出して未来に暗い影を落とすものです。しかし、我々はうろたえてはいけません。毅然と冷静にこの事実に対処しなければなりません。場あたり的な対応で原則を崩すことは賢明ではありません。原則そのものがもはや有効なものでなくなるまでは守るべきです。そして、子供たちに対する原則はこんな時だからこそ崩すべきではありません。ただし、大人の極刑にあたる子供の極刑が存在しないことは問題です」
「人格再構成刑がむごい刑だという意見はずいぶん多いようですね。でも、極刑とは本来むごいものです。それだけのことをやった以上、報いはなければなりません。子供たちは保護されるべきものですが、それは彼らが将来立派な大人になるということを求められている見返りに過ぎません。したがって、子供への懲罰は再教育という方針上、極刑はその究極のものであるのは当然です。これは大人の人権には侵害となりますが、子供の人権には侵害となりません。とはいえ、通常の方法で矯正不能と判断された場合以外に濫用するのはこのましくありません」
「既に十名の執行が行われ、経過は順調と聞いています。彼らは文字通り生まれかわったのです。心理的には安定していますし、見違えるように穏やかになりましたが、元気や意欲は失っていないようです」
「長々とありがとうございました」
新暦二十三年 ポート・シティ
俺が何をしたのだろうといつもトウキチは思う。いや、何もしなかったわけではな
い。なにもしなくて人格再構成刑を受けるわけはないのだ。
人から聞けば、彼は未成年であったころに強姦や恐喝をくりかえす鼻つまみもので、とうとう強盗殺人の現場で警官に撃たれて逮捕されたのだという。
そういわれてみれば、そういう記憶があるような気もするが、あまりにも遠く、あまりにもそれを覆うかすみが濃くてそれが自分のことだとどうしても実感できない。
だいたい、彼は暴力は嫌いだった。暴力を受けることはもっと嫌いだった。そして肉体的にも精神的にも人を傷つけることも、自分が傷つくことも恐れていた。
だが、実際に彼は傷つけられていた。極刑を受けた前科者にろくな仕事などなく、ようやく見つけた廃棄シャトル解体の仕事は意外に危険が多く、重労働で、そして雇い主はけちな上にしょっちゅう彼の時間外手当てを切り捨てていた。しかしトウキチは我慢した。もっと傷つく結果になるのを恐れていたのだ。だから彼はボスが快適な事務所でビールを飲みながらくつろいでいる間も文句一ついわず炎天下、無害とはとうてい言えない溶剤を用いてシャトルの接着剤を溶かしてはがす作業を日がくれるまで毎日行った。
が、やはり納得はいかないものである。凶悪犯のトウキチは別人だった。ここにいる小心者のトウキチはただ、ささやかな幸せを願っているだけに過ぎない。凶悪犯のトウキチの一番の被害者は自分かも知れない、と彼は思った。
市役所からの呼び出しを受けた時、トウキチはどうしようもない理不尽さに対する怒りを覚えた。いったい、なんとか受け入れてもらおうと懸命に働く自分の何が気にいらなかったのだろうと彼はおののく。
ところが彼の不安をよそに役所の受け付けは福祉課にいけという。福祉課が何の用だろうとトウキチはいぶかった。そして福祉課の窓口から上等の家具を備えた応接室に通されてびっくりした。
「人違いじゃないんですか?」
思わず案内してくれた女性職員にそうたずねてしまう。
「わたしもくわしいことは知らないんだけど」
女性職員は微笑んだ。
「あなたにとても大変なことをお願いするようね」
彼女はもっと知っている風であったが、それ以上は教えてくれようとしなかった。トウキチは慣れない革張りのソファの端に、ぎこちなくちょんと腰をおろして彼を呼び出した者たちを待った。
ずいぶん長い時間を待ったような気がする。トウキチの心に窓の外の風景をゆっくり眺めるゆとりが生まれた頃、がちゃりとドアの開く音がして三人の男たちが入ってきた。
一人は福祉課の奥に座っているのを見た生え際の後退した男。福祉課長だろう。もう一人は見たことのない初老の男だが、どうやら福祉課長より上らしい。そして、最後の一人はトウキチも映像では何度か見たことがあった。地元出身の国会議員だ。
この顔ぶれにトウキチはすっかり畏縮してしまった。
「まあ、そうかたくならずに」
簡単な自己紹介を終えて議員は微笑む。が、トウキチはその目が笑っていないことに気付いていた。
「君には、妹さんがいます。覚えていますか?」
トウキチは首をふった。
「いるのです」
すっと差し出された写真から髪もとかしつけていない少女がやり場のない怒りをたたえた目でトウキチを睨み付けていた。警察で撮影した写真だ。
「アカネさんといいます。歳は十六歳。もちろん未成年です」
議員の語調は紳士的であったが、トウキチは不愉快なものを感じた。
「この娘がなにか?」
「万引きでつかまりましてね。余罪もいろいろあるようなのですよ」
たかが万引き娘のことでなぜ議員が出てくるのだろう。そして人格再構成を受けた前科者の家族をわざわざ呼び出したのだろう?
「この娘を預かって、監督していただけますか?」
トウキチは目を丸くした。
「しかし、僕は・・・」
「あなたが人格再構成を受けた人だからこそお願いしているのです」
「親は・・・?」
それが自分の親でもあるということを彼は忘れていた。
「刑務所にいます」
「・・・」
つくづく、ろくでもない家族だとトウキチはめいった。
「これは君にとってもチャンスです。人格再構成者はみなきちんと更正しているにも関わらず、相変わらず犯罪予備軍のように思われて来ました。実際、元の家族に戻した結果、数年後やはり犯罪に走った者もいます。しかし、それは環境のなせることであって、人格再構成者本人だけの問題ではありません」
議員はまるでトウキチのかわりにテレビのマイクにでも語りかけているようだった。
「ですから、人格再構成を受け、立派に社会復帰された君が妹さんを更正させることができれば、君ばかりでなく人格再構成を受けた全員が社会にもっと受け入れてもらえるようになるでしょう」
「でも・・・」
でも、でも、言いたいことは山ほどあった。
(なぜ僕なんだ?)
質問する必要も、答えをもらう必要もなかった。誰でもいいのだ。
「引き受けたまえ。悪いようにはせん」
それまで、一言も発しなかった初老の男が低い声で命じた。
そう、これは命令なのだ。トウキチは議員の微笑みの仮面に気づいて悟った。所詮、自分は前科者なのだ・・・。
トウキチは引っ越すことになった。今すんでいる三畳間では一人ではなんとかくらせても二人では暮らせない。そんな矢先に都合よく、なかなか入居できない市の公営団地に空室ができたからだ。
トウキチは考えないことにした。ことによると自分に運がむいてきたのかも知れない、とそう考えることにした。
(むいてきた運から目をそらすのは馬鹿だけだ・・・)
誰かがそういってたような気がする。
運が向いてきたついでに、「妹」も姿を現さない。仕事は相変わらずだったが、彼はそのまま現状が続けばいいと願った。
だが、そうは問屋がおろさない。「妹」がやってこないかわりに、トウキチは彼女を迎えにいくはめとなった。
しびれをきらした福祉課が車をさしむけ、彼をつれて「妹」のいる場所へと迎えにいかせたのだ。
そこは、掃きだめのような袋小路だった。取り壊し予定の一角の、不法投棄の粗大ゴミでうまったなかに、住むところのない者たちが仮のねぐらを構えている。
そこにいるのはまだ若い、おそらくは未成年の浮浪者たちであった。福祉課の車の他に警察の車も止まっている。どうもその袋小路は包囲されているようだ。
「まだ終わってないのか」
福祉課の役人が舌打ちした。
どうやら捕り物が始まるようだ。まず警察の説得係がスピーカー片手に呼び掛ける。どうしても少年少女たちを力づくで引きずり出したいとしか思えないような説得だった。
さばの味噌煮の空き缶がくわんと間の抜けた音を立てて説得係のよりかかっているパトカーの屋根にあたって跳ねた。ぴかぴかに磨いた屋根にほんのわずか傷が入り、そして腐った中身の汁がはねかかる。説得係の眉間にしわが寄った。途切れた言葉のかわりに彼は手で合図を出した。それを待ちかねていたように颯爽と鋭い呼子の声が長く尾を引き、ずんぐりと肉の詰まっていそうな制服姿たちが意外な敏捷で突入する。あたふたと逃げ場のない袋小路を逃げまわる姿に罵声を浴びせ、逃げ出す隙も与えずに一人づつ追い込んでは手荒くおさえつけて手錠をかける。数珠つなぎにされた若者たちはそれでも汚い言葉で警察を罵るが、警棒で乱暴に小突かれてぶつぶつと声を小さくする。それを横目に説得係は傷も消えよと汚れたパトカーの屋根を神経質にふいていた。
福祉課の役人はつかまった少年少女たちをじっと観察していたが、ふいにここで待っていろと言うなり車をおりて監視の警官の所へと歩いていった。
何を言っているのか聞こえないが、警官と役人はしばらく言い争っているように見えた。
やがて、警官がしぶしぶ折れたようだ。捕らえた若者たちの一人の腕をぐいとつかんで立たせ、役人に突き出す。自分でやったのか、短く切った髪がかなりふぞろいのほっそりした姿だ。役人が何か話しかけると、少女はきっとトウキチの乗る車を睨んだ。
見覚えのない・・・いや、見覚えのある顔だった。
少女は大股に車に歩み寄ると乱暴に屋根を叩いてトウキチを覗き込んだ。
「この、ろくでなし!」
少女の罵声にトウキチはたじたじとなる。役人がなにかささやくように警告してドアをあけると、彼女はするりとトウキチの隣に座って、強く肘で小突いた。
「ひさしぶりだね、兄さん」
からからにかわいた言葉だった。肉親に見せる親愛のかけらもない。
「・・・」
どうこたえたものか、困惑するばかりのトウキチを見て、少女はようやく思い出したようだ。
「そっか・・・兄さんはこわされちゃったんだよね」
しかしそのことを受け入れているようには見えない。
「でも、記憶は残ってるはずだよね?」
何か答えなければいけない。トウキチは必死に頭を巡らせた。だが、混乱するばかりだ。
むんずと襟首を掴まれてトウキチは乱暴にゆさぶられた。
「なんとかいいなよ、え?」
驚きに目を白黒させるトウキチ、あわててとめようとする役人。しかし少女はトウキチを座席に投げ捨てるとむっつりした顔で自分のひざにほおづえ突いた。
「けっ、猫をかぶりやがって」
その言葉はまったくあたってはいなかったが、トウキチは抗議することもせずに呆然と自分の受けたしうちの意味を理解しようとしていた。トウキチの人格再構成はよほどうまくできたらしく、昔のトウキチならきっと持ったであろう怒りの感情はまったく出てこなかった。
車が振動もなくすうっと動き始めた。少女はごみためのような路地をまるでふるさとかなにかのようになごり惜し気に顧みる。一瞬、その気持ちが理解できるような気がして、トウキチはそれがどんなものか必死に理解しようとした。それがわかればこの少女とうまくつきあっていけるかも知れない。
だが、その気持ちはトウキチが考えるほどぼやけ、うすれ、ついに完全に消えてしまった。きっとそれは破壊された昔のトウキチの人格のなごりだったのだろう。トウキチと少女の相互理解の最初で、もしかしたら最後かもしれない機会はこうして失われた。
まったくもって災厄だ。
「妹」のアカネを「引き取った」トウキチは正直そう思った。
最初から彼にはこの「妹」が罵倒と皮肉と嘲弄でできているかのような少女にしか見えなかった。しかも家に受け入れてすぐにそれを裏書するような言動ばかり見せる。
「はん、似合わないね」
まずいきなりそう言われた。一応三室ある家を安く借りることができたうれしさのあまり毎日掃除と整頓を怠らないおかげでこざっぱりと、そして貧しいながらも居心地よく整えられた家である。いきなりけちをつけられてトウキチは憂鬱になった。
そんな気持ちなぞみじんも考えていないのか少女はじろじろ家を仔細に検分してまわりそしてため息をついた。
「なあんだ。金目のものなんかありゃしないじゃん」
あったらどうするつもりなのか、聞くまでもないようである。トウキチはますます憂鬱になる。
「じゃあ、ここには用事はないね。バイバイ、兄さん」
腹がすいていたのか少女は台所にあったパンを一切れくわえて裏の窓をあけた。ここは三階だが、猫のように敏捷であればどうにかおりることはできるだろう。
少女に逃げられたら「保護者」であるトウキチの責任になる。臆病さがこれからどうなるかを一瞬で読み取らせた。
「ま、まって」
あわてて引き止めるトウキチ。少女は彼を困らせることができて嬉しそうだ。
「こんな辛気臭いとこで兄さんなんかと一緒に暮らせますかって」
舌を出して窓枠によじ登る。力づくで・・・トウキチの頭をそんな考えがよぎった。
だめだ。その考えを強く否定するや彼は思いつきを口にした。
「しばらくは、監視されてる」
説得力を感じたか、少女の動きが止まった。
「それ本当?」
本当のところはそんな話は聞いていない。だが、彼らならまったくやりそうなことだ
ろう。
「あ、あの連中のやりくちを考えて見ろよ」
少女はじろっとトウキチをにらんだ。ひるむトウキチの前で、彼女は大きなため息を
ついた。
「あーあ、やんなっちゃう」
どさっと体をトウキチのお気に入りの椅子に投げ出して彼女は足を机の上に乗せた。
「ビールない?」
いてやるんだからありがたく思え、ということらしい。
その晩はほとんど言葉をかわすことなく、アカネは彼の作った夕食を食べ、テレビの低俗番組を見てげらげら笑ってすごした。いつまで起きてたかはわからないが、翌日も仕事で早めに寝る彼に一瞥も与えず、コメディアンの馬鹿ネタに足をばたばたさせて笑い転げていた。
これが毎日続くのだろうか。別にそれは悪くない。にぎやかなのはいい。そう思いながら彼は眠りに落ち、翌朝目覚めてぎょっとした。
ベッドサイドの椅子にアカネが座って、実験を観察する研究員のような目で彼を見下ろしていたのである。シャワーを浴びてきたのか、髪が濡れている。
「お、おはよう」
「殺そうかと思ったんだけどさ」
アカネはそう言った。ぶらんとさげた手に包丁があった。
「やめた」
包丁を壁に投げる。突立ったその切っ先が折れて包丁はどこかにとんでいった。トウキチはすこし悲しかった。
「ねえ、兄さんの顔と体を持っていて、兄さんと違うらしい人。あんたはなにものなの? 」
「わからない」
正直に答えるほかなかった。
「君は自分が何者かわかるのだろうね。でも僕は気がついたらここにいた。もしかしたら、ただの記憶喪失なのかも知れない」
「兄は猛々しい人だった。寝ぼけてても攻撃的だった。あなたは断じて兄ではない」
「それは、僕の処置をした脳神経科医にいわれたよ。攻撃性のない構成に苦労したと」
話しながら、トウキチはその言葉をもう少し正確に思い出した。
「何度も失敗したと」
アカネの目がちょっと見開かれ、そして細くなった。
「じゃあ、また暴れだすかもしれないということ? 」
「警戒されてるんだろうね。君とくらせというのも、言ってることと裏腹に実験してるだけなんだと思う」
「実際どうなの? 」
「正直とまどっている」
「こんなかわいい妹がいるのに? いや、かわいげはないか」
アカネはからかうようにいいながら、トウキチの表情を観察した。
本当に戸惑ってる、と気づいて彼女はまじめな顔になった。
「もしかして、肉親とか理解できないの? 」
「理屈ではわかっているんだけど、実感はない」
「調子狂っちゃう」
少女は苦笑した。
「そうだ、兄さんがどんな人だったか、どんな兄だったか教えてあげましょうか」
トウキチは迷った。実のところ、ある程度のプロフィールは知っている。それでも聞きたいのか、そして彼女は話したいのか?
アカネの瞳は真剣だった。きれいな瞳だな、と彼は思った。打算や企みのない、透徹した知性を感じる瞳だった。
「君の口から聞かせてほしい」
トウキチは自然、そう答えていた。
資料によると、処罰される前のトウキチの生い立ちがこうだった。
犯罪への傾向の強い家庭に育った兄妹は、両親の暴力に打ち拉がれて育っている。折檻によって実はあと一人いた弟が死んでいる。それをきっかけに兄妹は施設に預けられ、ようやく人並みの食事を与えられて思春期まで成長することができた。両親は裁判にかけられ、それぞれ執行猶予または実刑を受けている。
だが、両親が更正して、再び一家でくらすことを希望すると事情がかわった。
トウキチもアカネも施設にいるか、別の家に養子にいくのを希望したが、聞き入れられなかった。
そして、一家がふたたび一緒に暮らし始めて一ヶ月ほどたったところで最初の暴力がふるわれた。
トウキチが父親を殴り倒したのである。施設にいるあいだに彼は父親を圧倒できるほどの体格と、腕っ節を得ていたのだ。
父親を沈黙させた次は母親だった。このとき母親は奥歯を折られている。
一家の力関係は変わっていた。その日から家の中にはトウキチの暴風が吹き荒れる。
そして両親からまきあげた金で、彼は夜の町に出るようになり、やがていくつも暴力沙汰や犯罪に関わっていく。
両親は堪えかねてそれぞれに犯罪をおかし、自首して刑務所へと逃げた。
兄妹の仲がどうだったかは記録にない。
トウキチはやがて殺人で逮捕される。明白な殺意をもって、やくざものの一家を赤ん坊にいたるまで殺したのである。日頃のトラブルの嵩じた末のことであったと記録されている。
これで彼は極刑がきまった。
考えて見れば、この記録に彼女はほとんど出てこない。
「兄さんは、誰よりも自分を憎んでいる人だった」
アカネはそう言った。
「父にも母にも似ている自分を憎んでいた。両親と再び暮らすことになった最初の頃、兄さんがこっそりくやしなきをしているのを私は見た。忘れていたかったんだと思う」
心の奥底でなにかがずきりとうごめくのをトウキチは感じた。しかし、それ以上は何も起きなかった。
「父も母も更正したといいはるけど、本当のとこは何にもかわっちゃいなかった。ただ、大きくなった私たちに昔のようにはできないということだけはわかってたみたい。特に大きく強くなった兄さんには恐れさえ抱いていたわ。兄さんがそれに気づかなかったわけはない。だって、父を殴った時、とても自信と確信に満ちていたもの。そして確かに力関係は逆転してたわ。毎日のように兄が両親に暴力をふるうのを見ながら、私は勉強していたわ。気の毒だけど、両親に同情する気にはなれなかった。一度だけど、父が私に乱暴しようとしたしね」
「乱暴を? 」
「どうってことはなかったわ。一度負け犬根性のついた男をひるませるくらい朝飯前よ。だめおしに、投げナイフの腕も見せておいたわ」
なにがおきたか、想像できるようだった。
「結局それがばれて父は命の危険を感じるような目にあった。そしてすぐに悪いことをやってつかまった。もちろんわざとよ」
「君と兄さんの関係は、どうだったんだい? 」
「不干渉。兄さんはどんどん荒れていったけど、私に指図するようなことはなかった。ただ、兄さんと対立してるちんぴらが時々ちょっかいをかけにくるのがうっとおしかったけど」
そこで彼女は舌打ちした。
「だけど、一度だけ、本当によけいなことをしてくれた」
何をしたのが、それでどうなったのか、彼女は言わなかった。
「わたしの報復は、父そっくりね、と兄さんに告げたこと。そして兄さんは事件を起こしてくれた」
アカネはトウキチの目をじっとみた。
「どう、あなたの中に兄さんはいる? 」
トウキチは首をふった。
「もし、君の兄さんならここでどうするのだろう」
「わたしを殺すかもね」
とんでもない考えだ。
「肉親とは、そんなに簡単に傷つけあえるものなのか」
「肉親だから、遠慮がないんじゃないかな」
アカネはのびをした。眠そうだった。
「あんたは兄さんと全然違う。吐き気がするくらい優しい」
「情けないとは思うけど、いけないことなのか」
「ええ、とっても」
アカネはぴょんと立ち上がった。
「おなかすいたわ。ご飯つくって」
折れた包丁のことを思い出して、トウキチは悲しくなった。
一週間後、トウキチは再び福祉課に呼び出された。
「どうです? 妹さんは順調に更正していますか?」
初めて会う男だった。言葉も物腰も温和であったが、眼鏡の向こうの表情はまったくよめない。若く見えるが、実際はそう若くもないようにも見えた。そして、何か危険なにおいをただよわせていた。トウキチは萎縮した。
「毎日、僕の作った食事を食べています」
嘘ではなかった。「妹」はちゃんと家にいる。そして一緒に食事をとる。少なくとも、トウキチのいる時間はそうだった。いない時間をどうすごしているのかわからないが、トウキチの情報端末を使って、いろいろ電子図書館からかり出しては閲覧しているらしいというのはわかった。
なにか難しい式を書いた紙くずがゴミ箱の中でまるまっていたこともある。何をやっているのかわからないが、見かけによらずかなりの知識と知能を持っているようだ。そして、頼んだ買い物の代金をやりくりして時々安酒をかってきて飲んでいる。買ってきた材料にはレシピが添えてあって、その通りに作ると安物を使っているとは思えない味になるのだ。
「僕・・・ねえ」
眼鏡の男は鼻で笑った。
「まあ、本当ならば結構なことだ」
トウキチはひどく居心地の悪い思いにとらわれた。この男はトウキチを信用していない。それがあかしに、トウキチが身じろぎするたびに油断なく姿勢を変えている。それはまるでトウキチが危険人物であるかのような警戒ぶりと見えた。
「あなたは前の僕を知ってるのですか? 」
「書類と映像でね。君は思い出すことはないのか? 」
「思い出す前に、いろんな人が教えてくれました」
「ふうむ」
男は興味深げに眼鏡の奥から彼を観察した。
「記憶というのはいい加減なものでね。はっきりしないところは印象、願望、刷り込みで作ってしまう。これは自分についての記憶だけではなく、他人についても同じだ。人格再構成刑は、そういうところにつけ込んで、言語、社会の基本的な常識といった生活必須な知識だけを残して、自意識のありようを作り変えていく。昔なら洗脳と呼ばれた技術だ。昔の洗脳が心身ともに限界に追い込んで自我を崩したのと違って、今は薬物と機材で短時間でより徹底した確実な処置を行うがね。何がいいたいかというと」
職員はそこではっと何かに気づいたように口をつぐんだ。
「よけいなことを言うところだった。要約する。君は君だ。別人だ。だが、これからどうなっていくかはわからない。統計では、再構成刑を受けた者の六割は結局もとの人格と似たようなものになっていって、その半分が再度似たような犯罪を犯している。彼らがそうなったかということについては、論文がいくつか出てるがその中に、以前を知る人間の繰り返す言葉によって再洗脳されたというものがある」
わかるかね? と問いたげな目にトウキチは確信した。この職員はその手の研究者だ。そして彼は観察の対象。
「つまり、人の言葉を気にするなと? 」
「そうだ。そう心がけてほしい。そして君が何者になっていくか見せてくれ。それが五年の観察期間だ」
アカネが学校にいくと言い出したので、トウキチは驚いた。
「大学受験資格までは、無料でとれるけど、大学はそうはいかない。奨学金は期待できないし、取れても少し足りない」
どうして奨学金が期待できないかは、トウキチも聞かなかった。
「私が学校にいって正業につくのは、お上にとっても都合がいいはず。ひいてはあんたにとっても悪い話にはならない。そして私もそうしたい。できるだけ切り詰めるし、アルバイトもするから、支援してもらえないかな」
そのときのトウキチの胸にわいたのは、とんでもない話、ということだった。今でもかつかつの暮らしである。学費など出してやっていけるのか。
「月に、いくらあればいいんだい」
その額を聞いてから、理詰めに無理なら無理といおうと彼は決心した。
「まあ、聞いて」
アカネは待ち構えていたに違いない。紙と電卓、そしていつつけたのか家計簿を出してきて説明を始めた。
二時間後、トウキチは音をあげた。
「わかった。わかったよ。なんとかなるだろうというのは。ただ、これうっかり風邪も引けないんじゃないかい? 」
ただの不良娘かと思ったが、とんでもない。トウキチは一生かけてもこの娘の頭のよさには勝てないだろうと確信した。だが、アカネの計算がかなりぎりぎりなのは彼でもわかる。そもそも無理そうなのを、ここまで詰めただけでも驚くべきことなのだ。
「そこなんだけど」
アカネはずいっと身を乗り出した。近い。トウキチは戸惑った。荒っぽいが、これでも若い女性なのだ。
「もうすこし条件のいい仕事がないか、役所のほうに掛け合ってみない? 」
「そんな虫のいい話が」
「とおるかもよ。あちらが、あたしの更正を本気で望んでいるなら」
「だからって、そうほいほい斡旋してくれるかなあ」
「たぶん、相談して最初に見つけた条件のいい求人に応募すればいいだけだと思う」
アカネは確信を持ってそう言った。
「とにかく話してみて」
気圧されっぱなしのトウキチは、やってみると答えるのがやっとだった。
「でも、役所にその気がなかったら? 」
「そのときはそのときよ」
口に出せない考えをもってるな、と彼は直感した。
それをやらせてはいけない。彼は膝の震える思いだった。
しばらくして、トウキチは転職した。役所に相談すると、資格を取ることを勧められた。アカネの助言もあって、あまり時間のかからない簡単なものを取ると、待ち構えていたように求人が現れたのだ。
アカネは大学受験資格を早々に取得し、通学可能な範囲で最も難関の公立大学に入学した。アルバイトをいくつもかけもちながらも授業も欠かさず通っている。
何もかもがうまく行き始めたように思えた。
トウキチは資格を取るのに目覚め、さらにいくつか資格を取得した。職場の人間関係も、そう悪いものではなくなった。
匿名を条件にテレビが取材にきたことがあるし、人格再構成の専門家に焦点をあてた番組では成功例として取り合えげられたこともある。ただ、どちらもコメントの内容は与えられた台本をなぞっただけだった。
このころ、政治が変わった。
人格再構成刑は停止された。手間と時間がかかって効率的ではないという理由だった。そのかわり、次の裁判からは犯罪をおかした者は、成年未成年なく罪状に応じて軍隊に送り込まれることになった。国境で小競り合いが何度もおきていた。
トウキチのように刑の完了したものの経過観察は中止となり、もう彼を見張るものはなくなった。
彼は失業を心配したが、勤務態度もよく、実績もあげてる彼がすぐ首になるようなことはなかった。
アカネとトウキチはここで一度話し合い、アカネが卒業して就職するまでは共同生活を続けることにした。
「兄ちゃん、ありがと」
これがアカネの今の呼び方だった。
「気にするな。いまとなっては君の独り立ちが楽しみなんだ」
嘘偽り無くトウキチはそう思っていた。アカネには純粋な意志がある。それを応援するのは、いつのまにか彼の楽しみになっていた。
「そのときがきたら、寂しくて泣くんじゃないの?」
「そうかもなぁ。ま、そのときはときどき食事でもつきあってくれ」
アカネはほおづえをついてトウキチの少し気弱げで、凛々しいとはいえない顔つきをしばし凝視した。
「やっぱり、兄さんと兄ちゃんは別人よねぇ」
そういわれると、彼はいつも微妙な気分になる。接ぎ木の葉先に気持ちがあるなら、こういうものだろうかと彼は戸惑っていた。
国境の争いはついに戦争に拡大した。
報道は景気のいい戦果を大々的にうたい、褒賞される英雄が次々生まれてインタビューをうけていた。それだけ聞けば、戦況は圧倒的に見えたが、地図の上で前線はほとんど前進せず、時々相手に押し返されることもあった。
アカネは卒業し、就職が決まった。政府の都市行政の研究機関である。トウキチは彼女に真新しい靴を贈った。精一杯のお祝いだった。
やがて、政府は徴兵を発令した。扶養家族のいない、健康な男性から呼び出しがあり、応じなければ逮捕され犯罪者として前線に送り込まれることになった。まっさきに逮捕され、前線に送り込まれたのは反対運動をしていた市民団体だった。彼らがどうなったかはわからない。
トウキチは、ちょうど扶養家族がいなくなったところである。すぐにも徴兵されるかとびくびくしていたし、会社も職場から徴兵者を出すと補償や優遇があるので彼をとめおいていた。暇の多くなった彼は、寂しさもあって資格をさらに取り、いずれ解雇されることを考えて仕事を探した。
「なるほど、人格再構成を受けていまでは別人ですか」
採用担当者の三人に二人はそんなことを言う。そのうちの半分は一片たりとも信じていない口調であり、残りは自分の上司にどう思われるかを警戒していた。条件が同じ人がほかにいれば、彼をわざわざ採る理由もない。だんだんにトウキチは以前の自分を憎むようになってきた。アカネとくらしていたせいもあるのかも知れない。
結局、彼のもとにも召集は来た。軍規と賞罰、装備の用法、衛生安全の心得、演習といった二週間ほどの速成訓練をうけ、彼は前線に向かった。
一緒のほろつきトラックにのっているのは、年齢もまちまち、風貌もまちまち、制服も体にあってない人も多いいかにも素人くさそうな新兵ばかりだ。ずっと若い軍曹に睨まれたり、時には殴られたりもするがその目を盗んでのひそひそ話が絶えない。内容はまちまちだが、要約すればいつ家に帰れるかというそんな話ばかりだ。私物の携帯端末をいじっている者も多い。外は半壊した建物や、踏み荒らされた畑、まだ煙を吹く車両など彼らの日常からかけ離れたものになっているのに、電波が届いているということに彼は驚いた。
異変は不意に訪れた。先導車のほうで爆発音がして、トラックが急停止した。豆をいるような遠い銃声が聞こえて、新兵の一人が悲鳴をあげた。肩がべっとり赤くそまっている。医者、医者と叫びながらその男は制止をふりきってトラックを飛び降り、どこかけへ駈けて行った。軍曹が拳銃を抜いて止めようとしたが、次のケガ人と、ものも言わずに倒れる者が出てそれどころではないと思い直した。
「降りて展開。訓練でやった通りにしろ」
彼自身もおそらく訓練でしかやってないことを命令、拳銃でほかの者たちを脅す。
またケガ人が出て、このままでは危ないと思った新兵たちは、先を争うように荷台から飛び降りた。
そこに、弾丸が大量に降ってきた。あるいはものいわず、あるいは踏みつぶされる蛙のような声をあげ、飛び出した兵たちはばたばたとくずおれた。切り裂かれた肉体からあがる血潮の湯気がたちこめ、胸が悪くなる。
「途切れたら、飛び出してうってきたのと反対のかげにとびこめ。すぐ伏せるんだ」
残った数人の誰かがそういう。もっともだと思ったトウキチは彼と、ほか一人とともに射撃が途切れたとおもった瞬間に飛び出し、つんのめるようにトラックのかげに飛び込んだ。
反対から飛んできた弾丸がトウキチのわずかに上をかすめた。伏せてなければ危うかった。
もたもたしてる暇はなく、そちらからも遮蔽の取れる位置に急ぎ這う。
軍曹と何人かが乗ったままのトラックが炎上した。ロケット弾を受けたらしい。
隊列は完全に阿鼻叫喚の中にあった。そこら中に人間の身体やその一部が散乱し、糞尿と血と臓物の臭いがしていた。雄叫びをあげながらやみくもに射撃している者も何人かいたが、だんだんに減って行く。
やがて、あたりは静まり返った。車両と死体の燃える不愉快な音だけが聞こえた。
「おおい、生存者はいるか? 」
そんな声をあげる者がいる。救護班をつれた一個分隊ほどの兵の姿があった。敵ではないが、隊列にいた新兵ではない。
トウキチ以下何人かがそこかしこでよろよろ立ち上がり、ショックさめやらぬ目で彼らを迎えた。
「お、思ったより残ってるな」
百人以上いたのが、十人以下になったというのに、その一隊を率いる下士官はそんなことを言うのである。
「ようしおまえら、全員集合。下士官は生き残ってるか? 士官はいるか? いねえか。だらしねえな」
よろよろと集まったトウキチたち生き残りが集まると、くたびれた軍服を少し着崩したその下士官は一人づつの顔を見てにやりと笑った。
「まあ、ちっとはカンのいいやつがこれだけいてうれしいぜ。これからおめえらはうちの部隊に編入する。銃と弾薬を一人前ちゃんともて。死んじまった連中のことは忘れろ。どうせ囮くらいにしか役にたてねえ連中だ」
伍長、と下士官は上級兵を呼んだ。無表情な痩せた兵士が進み出る。
「こいつらの面倒を見てくれ。ショックで呆然としてやがる。格好だけもらしくさせて、しゃんとさせてやんな」
そしてトウキチの腕をむずとつかんだ。
「俺はこいつの面倒を見る。なに、ちょっとした知り合いだ」
ショックで呆然としていたトウキチは下士官の顔を見た。知らない顔だが、何か親しみがある風情。
「よう兄弟。直にあうのは初めてだな。驚いたぜ」
下士官は落ちている銃を拾い上げ、動作を確かめて投げ捨てた。
「けっ、こわれてやがる。おめえもさがせ。初回は見逃すが、次から銃を置き忘れるようなら敵陣に取りにいってもらうぞ」
「あんたは、誰だ」
トウキチはのろのろ別の銃を拾い上げて訓練された通りに点検した。大丈夫そうだ。
「俺はおめえさ。おめえに表向きのすべてを譲って軍隊がすべてになった男だ」
「どういうことだ」
トウキチは気づいた。この男は自分に似ている。整形で印象を変えているが、少なくとも従兄弟程度には似ている。
「俺がオリジナルのトウキチさ。頭は少しいじられたみたいだが、記憶はきっちり持ってるぜ」
「まて、それじゃ俺は誰なんだ」
「知ったことかい。記憶なんてさすがに移植できるわけではないし、俺は自分で思い出したのだから、俺が本物だ。一家殺しの凶悪犯。改悛なんてあり得ない悪党のトウキチさ。おまえはすり替えるためにどっかから連れてこられて整形された替え玉だよ」
下士官はトウキチの装備を検め、まあいいだろうと言った。
「アカネは元気にしてるか? 立派なビッチになったんだろうな」
「大学を出て、就職したよ」
下士官は目を見開いた。
「へえ、そりゃあ驚いた。へえ」
下士官は動揺を隠せなかった。
「あいつがどうやって大学なんかいったんだ」
「自力で」
動揺がおさまり、落ち着きがもどってくるのをトウキチは感じていた。周りの胸の悪くなる非日常は変わらないが、それがなんだというのか。
「そうか」
下士官はぺっと唾をはいた。
「ま、戦争が終わったら会いにいくか。たった一人の肉親様だ」
会いにいってどうするつもりなのか、トウキチはむかむかするものを感じた。こいつは本当のろくでなしだ。確かに、自分とは違う。
確かに、自分と違うが、とトウキチはこみ上げてくる感情に戸惑った。
(俺はトウキチという人間を憎んでいたのはずだ)
だが、なぜその偽物だということに不安を感じ、この本物の存在を憎むのか。
「ようしきけ、おまえら。まず覚えることは、使えるものは全部使うということだ」
生き残った新兵たちは、死んだ仲間たちから靴や食料、弾薬を集めさせられた。所持金や貴重品を取るのはさすがにちょっと遠慮していると、下士官と伍長が手際良く手分けして全部とりあげてしまった。
「えらいとこにきてしもた」
他の誰かがつぶやくのが聞こえた。
移動のときに彼らが気づいたのは、部隊が壊滅したまわりに、違う軍服を着た死体が見慣れぬ装備を手に多数散乱していることだった。彼らの武器や食料も他の兵たちによって奪われた後で、それがどうやら襲撃してきた敵の末路らしいと知れた。
つまり、この下士官の属する部隊は、トウキチたち新兵の車列をおとりにしたのだ。
「なんちゅうことを」
誰かがいった。
トウキチも同感だった。
本物のトウキチだという下士官は平然としていた。
戦争は二年続いて終わった。勝者はなし。どちらも消耗がひどくて続けることができなくなって休戦から停戦、講和へとなしくずに進んだのだ。
トウキチは復員する隊列の中にいた。二年の戦争で下士官に進級していた。つまり殺し合いをしのいできたし、下級の兵たちの命を預かって敵の命を奪ってきたということだ。
彼は、自分は人を傷つけることのできないよう条件づけられていると思っていたし、そのせいで前線では役立たずだろうと思っていた。
初めて敵兵に向けて撃った時は、相手の姿は見えなかった。発射音と、時折見える銃口の閃きに向けて撃ったのだ。
「いいからうちやがれ」
「本物」がそう命じた。人を傷つけるのは嫌だとかそんなことを言ったような気がする。
「ふん、ぶっぱなしたって当たるもんか。だが、相手は撃たれてる間は動けねえ。当たりにいくようなもんだからな。そうやって牽制しとかないと味方が死ぬぞ。てめえは仲間を殺すのか」
それでトウキチは当たらないよう祈りながら大雑把に乱射した。思ったより抵抗はなかった。てっきり何か条件付けでもされているのかと思ったが、そうではなかったらしい。
だが、相手の姿を見ないとばかりにはいかない。乱戦になったときには、ほんの十メートルの距離で敵兵と対峙した。相手は一人で、出っ会したトウキチたちに驚き、銃口を向けようとしていた。
トウキチたちは三人、彼以外はその敵に気づくのが遅れた。彼だけが敵兵に先んじることができた。逃げてくれ、そう思いながら彼は撃った。敵兵は糸のきれた操り人形のように崩折れた。
まったくためらわなかった自分に彼はおののいた。
朱に染まったその男の顔を忘れまいとし、戦争が終わったら家族に届けようと遺留品を拾い上げたが、記憶は薄れて消え、物はどこかになくなってしまった。
ためらいはないが、常にどこかおののきを持っている。いままで知らなかった自分に、それも矛盾を感じるそのありかたに、トウキチは戸惑うしかできなかった。
「本物」のトウキチは相変わらず、残酷で合理的だった。これもアカネから聞いていた「兄さん」とはずいぶん異なる人物だ。あれは弱いものにはとことん強い典型的な小悪党タイプではなかったのか。戦死者のポケットから小銭をまきあげるところはまったくそうではあるが、大それたことを考えて実行するところは大悪党の風格すらある。好きになることはないと思ったが、彼が部隊の多くの命を救っていることは認めざるを得なかった。その代償が敵ばかりか、融通のきかない味方の犠牲であるとしてもだ。
停戦命令が行き渡り、戦場は静かになった。トウキチは復員したあと、アカネにどういわれるのだろうとふと不安になった。あの娘は鋭い。トウキチさえ気づかないことを言い当ててくるかもしれない。
もう、失職をおそれておどおどしていたトウキチではなかった。
そして「本物」。政府が事実を隠蔽して育成した犯罪者兵士であるが、ここまで混乱が進むともうそんなことも関係なく自由に復員するだろう。あの男はアカネのところに行くのだろうか。
「アカネのやつは、おめえになついているのか? 」
ある日、「本物」は妙なことを聞いてきた。
「あんたは兄さんで、俺は兄ちゃんらしい」
「ふうん、そうかい」
「本物」はタバコを大きくすって、大量の煙を吐いた。
「じゃあ、あれはおめえにやる。せいぜい仲良くやってくれ」
復員したトウキチは、新しい生活を始めた。
アカネと暮らしていた家は爆撃できれいになくなっていたので、復員兵にも貸与してもらえる仮設住宅を借り、最低限の道具だけ買い足し、仕事を探した。ぜいたくを言わなければ、仕事はいくらでもあった。軍隊で習い覚えたことの中にはこういう時に役に立つことも多かった。おかげで臨時仕事でもしばしば呼んでくれるところができたし、収入は安定していないが生活に困ることは免れた。
アカネとは音信不通のままだった。あちらも引っ越したりしたせいらしい。
いつの時代でもそうだが、世間は復員兵に冷たい。ついこの間まで殺し合いをやっていて、壊すのも殺すのも平気でやっていた連中である。恐れとともに、まっとうな市民とは思えないとしてもおかしなことはない。
まるで前科者だな、と彼は苦笑した。彼は前科者で復員兵である。これ以上ないくらい冷遇される立場だろう。
実際やくざまがいの仕事をやって、景気のいい復員兵も大勢いたし、彼がさそわれたこともあった。彼からすれば、長続きしそうにない景気で、命の危険がいつまたあるかわからない仕事は少しも魅力的には思えなかった。
ざわざわした世間には犯罪が横行していた。少年犯罪も多かったし、凶悪犯罪も珍しくもなかった。政府は軍事動員法は廃止しており、暫定的に少年犯罪も成人犯罪と同じに処理されることになっていたため、刑務所に収監されたり、死刑にされていた。
「本物」がやってきたのはそんな矢先だった。
「ひさしぶり。ちょっといいか? 」
不意に玄関のベルをならして、そんなことを言うのである。
音信不通ならアカネもこの男も変わらなかったはずなのに、なぜ尋ね当ててきたのだろう。着ているのはやくざ風とはいえないなかなか仕立てのいい背広だ。
いぶかしむトウキチを、「本物」は近くの居酒屋に誘った。居酒屋といっても、仮設住宅を利用したしろうと居酒屋である。
まだ日も高いのに、日銭仕事にあぶれた連中があつまっていてほぼ満席だ。背広をきた連中もそこかしこにいて「本物」が浮き上がることもない。セルフでビールを抜き、現金引き換えでもつ煮込みを受け取ってつつきながら彼らは久闊を叙した。
「実はこれから外国へ一旗あげにいくんだ」
渡された名刺には貿易商の肩書きがあった。住所は国内だ。たぶんそこはもう引き上げ済みなのだろう、とトウキチは直感した。
「帰ってくるのか? 」
「さあな」
「本物」はにやりと不適に笑った。
「先のことはわかんねえ。だから面白いんじゃねえか」
そしてそこで声をひそめた。肝心の話をする顔だった。
「政府が人格再構成刑の受刑者を探しているらしい」
「へえ、なんでいまごろ」
「また復活させるかどうか、判断したいんだろうな。気に入らないのは、さがしてる政府の連中に二種類いるということだ」
「管轄争いかなにかかい」
「そういうわかりやすい話じゃあない。片方はのんきな連中だが、もう一方は裏の筋も平気で使ってくるやばい連中だ。やばいほうに見つかった場合、行方不明になったやつもいる。不都合な事実が多々あるのだろうよ」
「あんたがいて、なんで俺がいるか、とかか」
「そうだ。俺たちはやばいケースだ」
「まあ、不正のにおいしかしないね」
「そういうわけで俺はとんずらする。ついでに金持ちになってみせるさ。おめえもとっとと逃げたほうがいいぜ」
「いや、逃げはしない」
トウキチはかぶりをふった。
「このまんまじゃ、とっつかまるぞ」
「俺はあんたほど目端がきかないしな。それに、あんたが逃げるならなおのこと、俺は逃げないほうがいいと思う」
「そう来るか」
舌打ちしてから「本物」は破顔一笑した。
「わかった。おまえはトウキチをやれ。俺はなりたかった俺になる」
「あんたは、それでいいのか? 」
「俺の過去は消えやしねえが、そこから解放されてるってのは悪いもんじゃないぜ。俺のかわりを俺よりちゃんとやってくれる物好きがいてくれてうれしいよ」
アカネのことか、トウキチはぴんときた。
「あんた、こうなると読んできただろう」
「わかるか。やっぱりすみにおけないな」
「油断ならんお人だな。あんたは」
「そういうわけで、今日からトウキチはお前一人だ」
「わざわざそれを言いに? 」
「そう、口止めにな。おめえが知らぬ存ぜぬなら俺にも追手はかからないし、おめえが面白くない目にあうこともない」
なるほどね、とトウキチは得心した。
「わかった。いまから俺もあんたもお互いのことは知らない」
「それでいい。助かるぜ」
数日後、訪問者があった。
「ヤマダトウキチさんですか? 」
民生委員だというその中年の男女は、復員兵の社会復帰状況の確認と、必要なら援助、助言を行うためにきたのだという。
地域の民生委員ならトウキチは知っている。引っ越して早々に訪問を受けているし、親身に地域にとけ込む手助けをしてくれた。それとは別人だし、雰囲気も違う。
来たな、とトウキチは思った。ただ、「本物」の言ったこともどこまで信じていいのかわからないので、それ以上気負うことも身構えることもしなかった。
「おかげさまでうまくいってますよ。仕事も安定しそうです」
「それはよかった。ところで、少し確認したいことがありますのであがってもよろしいでしょうか? 」
「確認したいこと、とは? 」
「あなたは人格再構成刑による更正者ですね? 」
「そんな質問を受けるいわれはないと思いますが? 」
「ははは、これは失礼しました」
男のほうが笑うが、目は笑っていない。女のほうが何やら身分証明を見せた。特務警察のそこそこえらい身分のものだ。政治犯、思想犯を取り締まり、国家の戦争に人的資源を集約させるためにはなんでもやる法務機関であり、戦争の終結によって役割を終えたはずである。
「驚いた、まだそれがあるとは知らなかった」
「戦争中、悪い意味で目立っていたのでそう思っている人が多いようですが、私どもの部署は法の適正な運用を監視する機関としてずっと存続していました」
女の口調は堅苦しい。
「再構成刑が適正に運用されたか、そしてその成果がどうであるかを確かめることもその職務とご理解いただきたい」
「あなたと同じ名前の受刑者がいることは確認済みです」
男のほうは口調が柔らかい。が、目は決して笑わない。女のほうが一歩譲っているように見えるところといい、こちらは身分証明を見せないところといい、厄介なのはこちらのほうだとわかる。
「なので、まずはそれを確認いたした次第です。先ほどの質問に答えていただけますかな」
しらを切っても無駄だと知れた。
「ここで答えたことは、他にもらさないと約束していただけますか? 」
二人は顔を見合わせてうなずいた。
「公にする文書では名前も伏せるし、今の職場の人間にももらしません。それでよいですか? 」
「ならば、答えははいです。すっかり忘れていた過去ですよ」
「回答、感謝します」
男はかばんから分厚い封筒を取り出し、中身をすっとさしだした。
それはトウキチについての調査報告だった。詳細な報告の冒頭に概要をまとめたものがある。
期間としては出所してから出征するまでのものらしい。
「あなたのことですね? 」
トウキチはいやそうな顔でうなずいた。
「どうも。軍務のおかげで、消息の怪しい人が多くてこまります」
そして二人は彼の顔をじっと見た。
「ではまちがいないということで、一つ確認させていただきたいことがあります。遺伝子検査に応じていただけますか? 」
「なぜ? 」
「応じていただけるならお話します。実はもう結果はだしています。合意をいただければ公式の資料にしますが、いただけないなら秘密裏に処分します。もちろんあなたにも教えません」
処分、という言葉に嫌な響きがあった。処分するのは資料だけなのか。トウキチはぞくっとする。
それでも一つくらいいっておきたかった。
「そういう『もう調べました』という話はあといくつあるんですか」
「これで最後です」
男の声は信用できない響きを帯びていたが、もうトウキチに選択肢はないと思えた。
「本物」の話が本当なら、この二人は危険なほうの調査員ということになる。
ここは従っておくしかないだろう。
「わかりました。承諾しましょう」
「では承諾書にサインを」
手際よく女がボールペンつきのクリップボードを出して差し出した。実に用意がいい。
彼は署名した。苦笑いの一つも浮かべるところだったのだろう。だが、この追いつめられている実感に彼の笑いは枯渇していた、
「さて、トウキチさん」
サインを確認して男が微笑んだ。猛禽の笑みだ。
「あなたは再構成刑を受ける前のことをおぼえていないはずです。開戦前の面談記録にもそれが書かれています。戦争はつらい体験だったと思いますが、何か思い出しましたか? 」
「いや、なにも。その日その日で精一杯だった」
嘘ではないが、この二人が踏み込んでくるであろう事実に対する防衛線でもあった。
彼らは「本物」と彼の接触まで把握してるのだろうか。
「そうですか」
相変わらず男の目だけは笑っていなかった。
「では、これから過去にさかのぼりつついろいろ質問をさせていただきます。答えてください」
「なぜそんなことを? 」
「あなた、遺伝子的には収監されたときのトウキチさんではないんですよ。いついれかわったんです? 」
大変なことをなにげなく言われてトウキチは目をむいた。
「どういうことです」
「あなたは誰かときいているのです。知らないとはいわせません」
そう問われても答えるすべなどない。ならば、聞くしか無い。
「遺伝子的には誰ということになってるんです? あなたがたのことだ。当然調べているでしょう。しかし私にはトウキチという受刑者としてはじまった記憶しかないんです」
男はぎろっとトウキチを睨んだ。トウキチはわななきながらも逃げ場のないものの決然さでこれを見返した。
数秒、彼らはにらみ合った。数秒とは思えない長さだった。
「どうやら、本当に知らないようだ。しかし、不思議なこともあるものだ」
男は相方をちらっとみた。
「こんなケースはあるのかね? 」
「生活常識や言語を身につけている時点で、それを習得する過程の記憶はどこかで蘇ってくるものなのですが」
女は携帯端末を開いて記録を調べる。
「処置を行ったとされる医師は戦争で死んでますね。記録では刑の執行が決まって二ヶ月かけて一度の処置を実施したとされています。これだと記憶は十分回復します」
「ふむ、すると記録か本人かどちらかが嘘を言ってることになる」
男はトウキチをもう一度見た。
「私が信じても、他は信じないだろう。処置直後のことで、何か覚えてることはありませんか? 」
そこで、トウキチは何年も前にアカネにした話を思い出した。
確か、彼の処置をした脳神経科医はこういわなかったか?
「何度も失敗した」
と。
「ありえる話です」
女がうなずいた。
「何度も人格を作っては破壊していると、その体験が重なって元がわからなくなります。それでもモニターしつつ、専門医が連想試験を半年から一年やれば分析はできるんですが、本人が自力で思い出すのはまず無理でしょう」
「ふむ、その医師の顔は覚えていますか? 」
「見たら思い出すかも、という程度ですが」
「では、ご足労ねがえますか」
結局、トウキチは解放された。
彼の処置をしたという医師は再構成刑の執行者として登録されたことのある者の誰でもなかった。見つかった写真の名前や記録を見た男は黙り込んでしまい、トウキチは解放されたのだ。
「あなたがそれ以上のことを覚えていないのは幸運だった」
男はそう言った。
「ただ、この件は追求したい。無理強いはしないが、協力してくれるならあなたは自分を取り戻すことができるかもしれない」
「自分を取り戻す? 」
トウキチは怪訝そうに言った。
「そうだ。あなたは記憶も身分も奪われ、顔も変えられた。自分が何者か知りたくはないか? 」
「知りたくない、といえば嘘になりますが」
彼はいままでかかわってきた様々な人々の顔、特にアカネの顔を思い浮かべた。
「強いて知るまでもないと思っています」
戦争の体験は強烈だった。トウキチはあそこでまた生まれ変わったのだ。縁もゆかりも無いというわけではないが、顔も知らない過去の自分を希求する気持ちはなかった。
「そうか」
男は残念そうだったが、それ以上強いることもしなかった。
「わかってはいると思いますが、このことは他言せぬように」
トウキチが家にようやく戻ると、来訪者があった。
「兄ちゃん」
すっかり大人びたアカネだった。できる女性官僚のオーラを全身にまとって、少し疲れている様子と目の輝きの強さがいかにがんばっているかを物語っている。時間を作るのも大変なはずだ。
「やっと見つけた。やっと会えた」
初めてあったときの野良猫のような敏捷さで彼女は飛びついてきた。
「お、おい」
とまどうトウキチの胸で彼女は少女のように涙をこぼした。
「生きててくれて、うれしいよう」
トウキチの胸に、ずっとつかえていたものがすとんと落ちた。
彼はアカネの背中を優しくたたくと、家の中へと案内した。
「頼んだぜ、お人好し」
本物がどこからかそう呼びかけてきた気がする。
わかってる、あんたの分も引き受けた。なによりこれが俺のありかただ。
兄妹の時間はようやくぎこちなさも無く始まろうとしていた。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
少しでも面白く思っていただければ幸いです