西村くんと神崎さん(その1)
「あ、あ、ありがとう、でも、ほんとに大丈夫だからっ」
まくしたてるようにそう言ってどこかへ走り去ってしまった彼女を見て、俺はひとつ腹の底から息を吐き出した。
「……運ぶの手伝おうかって言っただけで、あんなに怖がられるとは…」
僅かに辟易して後頭部の微妙に傷む頭髪を右手でくしゃりとつかんで弄んでいると、後背から楽しんでいるとしか思うことのできない声音がぶつかる。
「いやぁ相変わらずびびられまくってんなあ、航」
「…うるせ」
俺は首を捻って予期した通りその整った顔ににたにたと気色の悪い笑いを貼り付ける友人へ瞬間視線をうつしたが、そのまままたもやため息を漏らしてそいつの右方を横切った。
9月。
2学期が始まり2週間が経とうとするこの時期、どこの学校でも学生たちは大体秋の祭典文化祭の準備に追われていることであろう。
俺たちも文化祭の1週間前に体育祭というビッグイベントを控えてはいるもののその例外ではなく、日々授業時間外をフル活用して衣装や大道具などの制作に勉強以上の集中力をいかんなく発揮していた。
俺が通うこの私立陸橋高校の文化祭――通称〈陸祭〉――では、一年生はお化け屋敷やメイド喫茶など教室で行う出し物、二年生は大学の大きなホールの舞台を借りて行う演劇、三年生はたこせんやかき氷などの屋台、と相場が決まっている。
昨年、1年生だった俺はその例に違わず女装喫茶で俺の人生における最大の恥辱をはっきりとこの身に刻んだ覚えがあるが、今年も例年にのっとって2年生演劇フェスティバルなるものが行われることが決定したようだ。
ちなみに、これも伝統的なものであるが、初日のイベントとして祭りの幕を切るこの演劇フェスティバルは最優秀賞の副賞が大変素晴らしい。結果が即日発表であるが故、最も優れた劇を披露したクラスには、残りの2日間3年による屋台の商品が全品何度でも無料でいただけるのだ。
これにはどのクラスも燃えていて、いかに審査員の心を魅了できるかを追求して過去の受賞作に関するデータを洗いざらい調べ上げた酔狂な連中もいるほどである。
その演劇フェスでどうにか無料券を勝ち取るため1学期終了間際、俺のクラスでもある2年C組は公正な多数決の結果によって最優秀賞をかけたその戦いにかの有名な劇作家の手で生みだされた悲劇のひとつ「ロミオとジュリエット」での挑戦を定めた。
コンセプトは〈原作を読まずとも読んだ気になれる舞台〉で、かなり洗練された脚本を用意しているらしいが、舞台など劇場に足を踏み入れたことすらない俺にそのへんはよくわからない。
しかし、無料券という名の栄光をその手につかむためには脚本、演技、音響、照明、大道具、衣装、舞台構成などどのジャンルにおいても他のクラスを圧倒しなければならない。そのためにはとにかくクラス全員の協力が必要不可欠なのだ、頑張ってくれ、と流れで照明担当のリーダーになってしまった俺は監督から何度も激励を受けていた。
しかし。
「なーんか、頑張る気になれないんだよなぁ」
気象上では曇りと呼ばれる量の雲が流れる晴天を仰ぎ見ながらそう呟くと、俺の隣に腰を降ろしたばかりの音響担当は不思議そうに台本から俺へと視線を移動させた。
「なんで?西村は無料券欲しくないの?」
女子にしては少しだけ低めの声が俺に投げかけるその疑問に、俺はベンチにいっそう体重という負荷をかけながら返事もせずただ鼻から大きく息を吐く。
「なんか、うまく言えないけどさ。みんな、ただ無料券のためだけに頑張ってるって気がすんだよな。こーゆーのって、何かを手に入れるためじゃなくて、よりよい劇を作るために一致団結するもんじゃねえの。……いや、今もより良いものを作ろうとしてるんだけど、あーーー、よくわかんない。わりい。忘れて」
うまく言葉にできないもどかしさを覚えつつ、背もたれをいたわって上体を起こす。
音響と照明のタイミングの打ち合わせをしようと音響担当のリーダーを中庭のベンチに誘ったのは俺だが、想像以上に周辺の温度が高く空調の行き渡る教室に身を翻したいという欲望がむくむくと大きくなってきている。
だが今さらクラスメイトたちが織り成す雑音の中へ身を投げて話し合うのも気が引けるので、それならば手早く終わらせてしまおうと丸めた台本を開いてペンを手に取る。
「わからないこともないけどね」
俺のやる気モードを感知したのか姿勢を正したクラスメイトは、肩につくかつかないかの長さで切りそろえた髪を耳にかけながらアルトの声でそう言った。
「イラスト系の作業なんて優1人にまかせっきりだし」
「…!」
優。
その名前を聞いた瞬間、思わず俺の身体がピクリと反応する。
その理由は実にシンプルで、神崎優という女子生徒が俺の想い人であり、先程あからさまに畏怖の色を全開にした彼女の姿を思い出したからである。
「ああ、そうだった。西村って優のこと好きなんだっけ?」
「……誰にきいたんだよ」
既にその事実を知っている癖にわざわざ確認してくる辺りが魔性だ、と本人には口が裂けても伝えられないことを考えつつ、俺は無意識に口をとがらせる。
「緋川。あたりまえでしょ」
「なんだよ、アキのやつ。おまえにはなんでもかんでも喋りやがるのな」
先刻嫌味な笑顔で表情と同様性格の悪いセリフをかけてきた友人を若干恨めしく思い浮かべながら「誰にも言うなよ」とその恋人である女の子に念を押す。
「言わないよ。私こう見えても緋川と違って口は固いから」
そう微笑んでまた細長い指で髪を耳の後ろにおさめた彼女に俺も口角を上げつつ瞬きをしてペンを握り直した。
「おいおい、おまえ、俺の大事な彼女になんにもしてねえだろうな」
「その前にお前なに俺の大事な秘密べらべらしゃべってんだよ」
「いいだろ、凛花ちゃんは別なのー」
「おえ、きもちわるぅー」
その日の帰宅途中。
辺りはすっかり暗くなってしまい、校舎の外壁に取り付けられた橙色の電灯が俺たちの影をぼんやりとアスファルトに映し出していた。
彼女に骨抜きにされていると見受けられる友人とかなり広大な面積を誇る我が学校の敷地内を他愛もない話をしながら歩く。
かなり時間が遅いとはいえ、まだ数多の生徒が残っているらしく、校舎の方からの賑やかな声が俺の耳にもかすかに届いていた。
「で、神崎とはなんか進展あった?」
暫時黙り込む。どんな言葉のとげをお見舞いしてやろうか、と思慮したが、結局「また嫌味か?」と呆れた声で問う。
「いやいや、俺は単純に友の恋を応援したいって気持ちがあってだなあ…」
無駄に異性の人気を集める腹立たしい友人が力説を始めると同時に俺はある事実を発見して、あ、と短く声をあげた。
「ん?どうした?」
俺の顔を覗き込む友人に携帯電話を机の中に収めたままだった旨を手短に伝え、この後予定があるという彼に先に帰ってと言い残すと俺は足早に校舎の方へと方向転換した。
しばらく走った後、途中からはいつもの歩調で進みながら教室を目指す。
どうやら残っている生徒のほとんどは部活関係らしく、横を通り過ぎる教室は全て電灯が消えていたが、俺の目的地――2年C組だけは違った。
燦々と輝く蛍光灯の光明の下でまだ誰かが作業していたのかと思うと、昼間に言ったことを少し反省する。ここまで本気のやつもいるのか。
上から目線で少しだけ希望を見出した俺はやっぱり総監督かな、と演劇に一番情熱を燃やしているクラスメイトの姿を予想しながらドアをスライドさせる。
ガラガラという聞きなれた音が誰もいない廊下へやけに反響したあと、俺はぴたりと動きを止めた。
その視界に飛び込んできたのが、予測に反して絵筆を片手に大きく開かれた目で俺を見つめる神崎優の姿だったからである。
彼女の前の少し黒ずんだ床に広げられた白い模造紙には鉛筆で薄く下書きが施されており、右手を見るに今まさに色彩を吹き込もうとした瞬間らしい。
「え、あ、か、神崎…?」
驚いた俺が思わずそうかすれた声を上げると、神崎は僅かな静止の後、三回ほど視線を泳がせながら小さく声を絞り出す。
「え、えっと…」
「!」
その瞬間、ほんの一瞬だけ俺と彼女の視線が交差した。
どくん、どくん、と鼓動の音が体中に鳴り響く。その墨色の瞳から放たれる眼光が俺の時間を難なく盗んでしまい、目をそらすことさえできずに少時そのままで俺は動きを止めた。
想いは通じていないとはいえ、骨抜きなところは俺も友人と同様である。
「………」
その後再び時間を動かし始めたのは以外にも神崎の方で、その瞳に畏怖と警戒の色を浮かべつつばつの悪そうな顔を俺から背けた。
何かした覚えはないのにビビられていることがやはり気にかかるが、今彼女に話しかけるのは逆効果だと悟った俺は自分の席に歩み寄ると中から携帯を取り出す。
そして再び教室のドアを引こうとしたところで、もう一度ちらりと神崎の方を盗み見るが残念ながら彼女は相変わらず絵筆を握りしめたまま下を向いており、その表情は窺えなかった。
胸が少しだけ痛む。彼女を諦めたつもりわけではないが、こうもあからさまに嫌われると少女漫画の主人公にでもなった気分で恋の切なさを感じてしまう。
どうにかしないとなあ、と内心苦笑いをしながら前を向き、今度こそ帰路につこうと右手に力をこめた、その時、
背後で存在感が身を動かし小さく服が擦れる音がした。
「あっ、あのっ、西村、くん……」
消え入りそうな声だった。
俺じゃなければきっと聞き逃してしまうくらいの、小さな小さな声だった。
しかし確かに、俺の名前を呼んでいた。
「今日のこと、あの、ちゃんと、言っておきたくて……」
未だ振り向くことも、声を出すこともできず再度時間を盗まれてしまった俺などお構いなしに神崎はその艶やかな唇から言葉を紡ぎ続ける。
きっと視線は下方に向いていて俺の方など見ることはできないのだろう。
「ほ、放課後、手伝おうとしてくれた、よね……?あの、その時、私、すごく失礼な態度とっちゃったから…、ほんとに、ほんとにごめんなさい……」
そこで彼女は押し黙り、代わりに俺の背中に視線が突き刺さった。
怒っていると彼女に勘違いさせないためにも振り向こうとして一瞬ためらう。
俺には、愛しさのあまり視界に入れた瞬間神崎を抱き締めてしまわない確率が100パーセントだとは言い難い心境を持っていたのだ。
かわいい。すごく、かわいい。
そう思う気持ちを理性でしっかりと羽交い絞めにした後、俺はゆっくりと振り返った。
「いいよ。気にしてないから」
俺が少しだけ微笑みながらそう言葉をかけると、彼女の顔はたちまち花が咲いたようにぱあっと明るくなる。
思わず俺を繋ぐ鎖が音を立てて崩れて行きそうになるが、あと一歩のところでなんとか勤勉な俺が踏みとどまってくれたようだ。頑張ったな、おれ。
「ほんとは…西村くんと、もっと仲良くなりたいんだけど、私、不器用だし、人見知りだし…」
神崎がそこまで言ったところで、俺の口が勝手に動き出す。
嬉しさと気恥ずかしさの混じったなんとも言い難い感情が俺を支配していて、自分の口が回る様子すら制御することができなくなっているらしい。
「じゃ、仲良くなろう。俺も神崎のこと、もっと知りたい」
自分で想像していたよりずっとずっと明るくて軽い声だった。
実際、俺は自惚れていたのだ。
大好きな神崎に「仲良くなりたい」と言われ、僅かだがこの不器用な女の子も俺を想ってくれているのではないか、という希望を持っていた。
たとえその慢心が思い違いで来る時に粉々に砕け散ったとしても、今だけはその優越感とどうしようもない愛おしさに酔っていたかった。