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「里空さん、雅貴さん!」
子どもたちを追いかけて、一足先に小学校へ着いていた希楽たちがこちらを振り返る。
「さっき先生に相談して、家に向かおうって話をしてました」
輝たちの担任はちょうど教室にいて、話を聞くとすぐに家に向かおうと言ってくれた。
「先生、信じてくれてよかった。話してくれてありがとうって言ってた」
希楽はホッと胸をなで下ろす。
「彼は若いけれど熱心でいい先生だよ。子どもからの訴えがあれば必ず動いてくれるはずだ」
里空は真剣な面持ちで職員室のドアを見つめる。
「お待たせ。来桜の家に行こう!」
「浜野先生!」
ドアが開き、担任が廊下で待っていた子どもたちに声を掛ける。
「早く!」
ーーー来桜くん、どうか無事でいて……
希楽は祈るように彼らの後ろ姿を見送った。
* * *
同時刻、来桜はとある匂いに目を覚ました。先ほどぶつけた後頭部がズキズキと痛む。物置の中は暗く、外の様子は伺い知れない。
だが、来桜は確かに異変を感じていた。空気がいつもと違う。家の中では滅多に嗅ぐことのない匂い。
そう、何が焼けるような………。
(まさか!?)
来桜の家まで後少しの所で、一人が異変に気づいた。
「ねえ、何か焦げ臭くない?」
「うん。あ、あそこ煙が出てる!」
角を曲がったところの先に黒い煙が立ち上るのが見える。
「え、火事?あの辺りって……」
「来桜んちの方じゃねえ?」
子どもたちが気付くより早く、里空達はアパートへ超スピードで向かう。
嫌な予感は的中した。先程訪れた二階建てのアパートからは黒い煙と炎があがっていた。
「うそ……」
希楽も子どもたちも炎を前に絶句する。
「102号室に住んでいる男の子は逃げましたか?僕、小学校の担任で」
浜野は近くにいた見物者に尋ねる。
「102ってキオくんか?見て無いなあ。どの部屋も中には誰もいないんじゃないか?声も聞こえてこないし」
通報済みらしく、遠くで消防車のサイレンが聞こえ出す。しかし、到着にはまだ時間がかかりそうだ。
「まだ中に閉じこめられてるんじゃあ?」
咲斗が言うよりも早く、里空は燃える部屋へと入っていく。
もちろん天使の身体は物理的な影響を受けない。熱さも臭いも感じないが、炎が迫ってくると身を固くせずにはいられない。
「来桜!」
里空の声はもちろん届かない。
だが、彼が閉じこめられている物置の扉がガタガタと音を立てて揺れている。
ガン!
何度となく繰り返した体当たりの衝撃で、ようやく鍵が壊れた。来桜はそのまま床に転げ落ちる。そして、目の前に広がる光景に絶句した。
(マジかよ。絶体絶命ってヤツ?)
窓への道は炎でほぼ遮られており、通れそうにない。何より、この縛られた足で逃げることは不可能だ。
(考えろ。諦めたら終わりだ)
その時、物置に仕舞われていた置き時計が手に触れた。
来桜は力の限り暴れる。すると、緩んでいたタオルがほどけ、手が自由になった。時計を手に取ると、道路に面した窓に向かって思いっきり投げつけた。
ガシャーン。
家の中から飛んできた時計を見て、見物者たちが口々に叫ぶ。
「あの部屋、中に誰かいるぞ!」
「火がかなり回ってる」
「消防車はまだか?」
皆が注目する窓を指差して、子どもたちが叫ぶ。
「先生!あそこ、来桜の家だよ」
「あそこにいるのか……?」
しばらく炎を見つめた後、浜野は庭にあるホースを使い頭から水を被った。
「君たちはここで待ってろ。消防車が来たらあの部屋だと伝えてくれ。いいな」
「先生!?危ないよ」
「あんた、悪いことは言わん。やめとけ」
「俺は今まで何も出来なかったんだ。今助けないでいつ助けるんだよ!」
そう言って周りの静止を振り切りると、近くに落ちていた木の棒を拾って、先程時計が飛んできた部屋に向かう。
棒を大きく振りかぶると窓ガラスに向かって何度も振り下ろした。
ガシャン、ガシャーン!
窓ガラスを叩き割ると、そこから火が燃えさかる中へと入って行く。
「先生!!」
窓の外から聞こえた声に反応して、希楽たちが振り向く。 そこには来桜の担任ーー浜野の姿があった。
「き……っ」
床に転がる来桜を見つけ声を出そうとしたが、ハッとして口元を押さえる。とてつもなく熱い空気が喉を通り抜けようとした為だ。
急いで来桜の元へ駆けつけると、しゃがみこみ足のタオルを外そうとする。しかし、上手くいかない。
解くのを諦め、意識の朦朧とした来桜を抱きかかえ立ち上がる。顔を上げた彼の表情が俄かに凍りつく。
(通れない……)
またたく間に火の手は広がり、窓までの道は完全に炎に塞がれてしまった。
(ここを通り抜けられるか……?)
ごおっと音を立てて新たな炎が二人に襲いかかろうとした時、里空の声が天に響いた。
「叶さん!今ここで最後の願いを使うよ。二人が逃げる道を作ってくれ!」
里空の声に答えるように頭上が眩しく光ると、不思議な事が起こった。
今にも二人に届きそうだった炎が一歩退いたかと思うと、まっぷたつに分かれたのだ。しかも先程浜野が割った窓ガラスに向かって。
「!?」
襲い来る炎に備えて来桜を庇い、目を瞑っていた浜野はそろりと目を開ける。そして、信じられないとばかりに目を見開く。
『浜野君!今の内に来桜を連れて逃げるんだ。後のことは頼んだよ』
彼は尊敬する先輩教員の声が聞こえたような気がして、ハッと我に返る。
そして、生徒を抱く腕に力を込めると窓の外を目指した。
外ではようやく到着した消防車が、慌ただしく放水の準備をしていた。
「あの部屋の中に来桜が、クラスメイトがまだいるんです!今先生が助けに入って行って……」
「何だって!?あの火の中か?自殺行為だ」
消防車隊員の言葉に子どもたちの顔が曇る。
「そんなっ……」
その時、見物者たちがどよめいた。
「見ろ、出てきたぞ!誰か抱いてる!」
「先生!来桜!!」
輝たちの歓声を聞いて、他の見物者達からも拍手が起こる。
消防車隊員が駆け寄ると、思った以上にしっかりとした様子で来桜を差し出した。
「この子……っ」
しかし、上手く声が出せず咳き込む。
「無理はしないでください。あなたも治療が必要です。間もなく救急車が到着しますから」
「先生!来桜!良かった」
隊員に制止されながらも集まってきた子どもたちに、そっと微笑む。
声が上手く出せないのだと言うジェスチャーをしながらも、これだけは、と声を絞り出す。
「春名さんの声が……聞こえたんだ。先生が助けて……くれた」
程なくして救急車が到着した。担架に乗せられ酸素マスクをつけられた来桜は薄く目を開けた。
「来桜!良かった」
自分を取り囲んでいる友人たちに少し驚いた表情をすると、しょうがないな、とでも言うように微かに微笑んだ。
「卒業式、待ってるからな!」
その声に手を挙げて応えると、救急車へ運ばれて行った。