その8
「これで、収まりもつきましょう。どうぞ、今夜は後宮にお渡りになりごゆっくりなさいませ」
俺のしたためた書状を恭しく受け取ったタヌキ親爺……いや、父王の代から忠実に仕えている、俺が最も信頼する宰相が言う。
もちろん、俺が後宮に渡れぬ事情があるのは、承知の上だろう。
幼い頃から知られている気安さで、思わず露骨な眉を寄せて見遣れば、常に浮かぶ温和な笑みは、僅かに歪むこともなくそこにあった。
「そうなさいませ」
簡単に言ってくれるではないか。
毎日のように通っていた正妃の部屋が、今の俺にとってどれだけ遠いか。
後宮史上初の。
前代未聞の。
正妃から皇帝への『出入禁止』令。
多くの人々の前で高らかに言い渡されたそれ。
何を言っているのだと笑い飛ばすには、正妃の怒りようはあまりにも衝撃的で。
追いかけて詫びようにも、正妃が諭すように他の妃の元を訪れる気がない以上、どんな言い訳もできよう筈がない。
更には、あの騒ぎの直後に腹立たしくも「西方の部族に反乱の兆しあり」との報告を受け、執務室で宰相と顔を突き合わして過ごす羽目になること一週間。
密偵を駆使し、公使を遣い。
表から裏から、あらゆる策を講じて、なんとか血を見ることなく、危険分子の排除には成功はしたものの。
賢帝と呼ばれている筈の俺は、妃の懐柔策の一つとして思い浮かぶことなく、こうして執務室に留まっている。
会いたい。
あれ以来、ちらりと姿を見ることさえできていない。
問題が解決した今、飛んで行って抱きしめたい。
俺の中は、そればかりだ。
だが、拒否されたら?
正直、どうなるか分からない。
この一週間、会いたくて、触れたくて堪らなかった。
ほんの少しまで、垣間見ることさえできない遠い存在だったのに。
俺は未だかつてなく、彼女に餓えている。
彼女に拒否されたら……きっとこの餓えは暴走する。
どんな理性も、太刀打ちできない。
彼女がどんなに抗おうと、嫌がろうと、俺は欲を満たすだろう。
宰相が出て行った部屋で、少しの間思案していた俺は、意を決して椅子から立ち上がった。
こんなところでグズグズしていても仕方がない。
暴走した時は、暴走した時だ。
第一、それは悪いことか?
彼女は俺の妃だ。
俺には彼女を手にする権利があり、彼女はそれに従う義務がある。
これは、俺がもっとも否定したかった力関係に違いない。
だが、それを振りかざさねば、彼女の元を訪れることができぬほど。
そんなことで納得しなくてはならぬほど。
俺は追いつめられていた。
後宮への道を忙しく歩み、その勢いのまま目的の部屋に踏み込む。
もちろん、彼女はそこにいた。
「……陛下」
一瞬にして、暴走するどころか、完全に毒気を抜かれた。
彼女は俺を見た途端に、ほっとしたような表情を浮かべたのだ。
「お帰りなさいませ」
しかも、いつもの言葉を口にし、歩み寄ってくる。
言葉を返すことも忘れ、俺は目の前に立つ、一週間ぶりの寵妃に見入る。
俺の胸ほどまでしかない小さな身は相変わらずだが、色付く頬や、寝着から覗く喉元が、幾分痩せたように見えるのは、俺の希望的な思い込みだろうか。
ただただ呆けたように見下ろすだけの俺を、彼女は笑みこそないものの穏やかな表情でじっと見つめていた。
しかし、やがてそれが険しいものに変わっていく。
やはり。
「まだ、怒っているのか?」
怒りは解けていないのか。
何かの間違いで迎え入れてはくれたものの、俺の顔を見た途端に怒りが再燃したのだろうか?
次に聞こえてくるのは、この部屋から出ていけという一言だろうか。
ここに来るまでいきり立っていた俺の心は、彼女の表情一つにすっかり大人しくなっている。
彼女が言えば、それに従うだろう。
「怒って?」
彼女は寄せた眉を解かぬままに、だが、その表情を隠すように俯いた。
「……怒っておりますとも」
小さな呟きが聞こえた。
出ていけ、ではない。
そして、俺の手に彼女の手が触れる。
たかがそれだけのことなのに、滅多に彼女から触れてくることなどないから俺の心臓はいきなり跳ねる。
「おい?」
彼女は俺の手をギュッと握って、歩き出した。
小さな子供のように手を引かれて、連れて行かれたのは寝台だった。
彼女は手を離すと、今度はその細い指先で俺の上衣の紐を解き、ボタンを外していく。
最近はすっかり慣れ親しんだような行為だが、それでも彼女がそうする度に俺の心はざわめく。
ついつい抑え切れずに、口づけてしまうのが常だが、さすがに今はそれは憚られた。
テキパキとした手つきはいつものこと。
しかし、表情は緩むことなく、極めて険しいままだ。
彼女はボタンを外し終えると、迷いなくそれを脱がした。
誰もいない部屋で、上半身をむき出しにした俺と、薄手の寝着を身につけた彼女が向き合っている。
どうしても、この女が誰より愛しい。
他の誰もいらない。
この女性だけが。
思い知らされる想いに、抑えきれずに腕を彼女に向かって伸ばせば、それはスルリとかわされる。
触れさせては、抱きしめさせては、もらえぬのか。
やはり、訪れるべきではなかったのかと途方に暮れる俺を置いて、彼女はさっさと寝台に上がった。
「陛下」
そして、俺を呼ぶ。
「……こちらへおいで下さいまし」
こちら、とは寝台に上がって良いということか?
彼女はシーツの上に座り込み、俯いている。
表情は見えないが……肢体の線も露わな絹一枚を身にまとい、寝台の上で待つというその姿に、抜かれた筈の欲がむずむずと蠢き始めた。
一体、この状況はなんだ?
誘われている?
まさか。
だが。
焦がれた女がベッドに招く事態に、頭がボーとして、身体が熱くなる。
俺はどこかおぼつかないように寝台に上がり、彼女に近付いた。
今度こそ、抱きしめられるだろうか。
「お休みなさいませ」
だが、正妃はきっぱりとそう言った。
いつも俺がするように、シーツをポンポンと叩く。
俺は赤子のような四つん這いの格好のまま、上下してシーツに皺を描く彼女の手を眺めた。
「寝て下さい!」
焦れたように勢いよく言われ、思わず、おとなしく横になる。
「いったい何日、寝ていらっしゃらないのですか!?」
彼女は俺の身体に柔らかな上掛を被せた。
その口調は、出入禁止を言い渡した時よりも一層厳しく、だが、怒りだけではない感情が滲み出ていて。
だから、ついつい言ってしまう。
弱気な恨み言に近い真実。
「お前が出入禁止を言い渡してからだな」
西国との交渉故に、眠らなかったのか。
もちろん、それもある。
ひっきりなしに入る密偵からの報告。
公使は、面では西国の王と、裏では様々な権力者との交渉に臨んでいた。
俺は漫然とそれを玉座で眺めていた訳ではない。
だが、それでも、我が国の精鋭たちは、俺に幾らかの休眠を取らせることができぬ程に無能ではない筈だ。
俺は眠れなかったのだ。
彼女はまず目を見張り、次に眉を寄せ、そして、最後は唇を噛んで俯いた。
言わなければ良かった。
だが、どうしてだろう。
彼女の前に出ると様々な感情が制御できなくなる俺だが、今日はいつもに増してそれが顕著だ。
「お休みなさいませ」
彼女は俺の傍らに座り、俺を見下ろしている。
その表情からは、怒りはすっかり抜け落ちて、ただただ心配げなばかり。
久しぶりだから。
もっと、明るい表情も、見たいのに。
だが、その表情をさせたのは俺だな。
「膝枕でも、添い寝でも……お伽話でも、何でもお望みの通りに致しますから、眠って下さい」
お伽話……なんだ、それは。
俺はお前のやたらたくさんいる弟妹ではないぞ。
この場合、俺が望むならば、お伽話ではなくて、伽そのものだろう。
しかし、彼女が自ら寝台に上がる程。
自ら何でもすると言う程。
「そんなに疲れてみえるか」
彼女はただでさえ険しい表情を、更に厳しくする。
「ご自覚がないのですか?」
彼女は俺の傍らに横になった。
見下ろす視線が、同じ高さに変わる。
「……皆様、私に陛下をお許しするように進言くださいました」
だから、か?
だから、お前はこうして俺を受け入れるのか。
誰かに、言われたから。
「余計なことを」
思わず言ってしまう。
様々な感情が渦巻く。
怒りやら。
哀しみやら。
どういう訳か、息苦しくて、あちらこちらが痛くて、俺は横たえた身体を少し丸めた。
「皆、陛下がご心配なのです」
彼女は俺をたしなめる。
年上のそれ、だ。
また、弟扱いだな。
だが、今の俺では仕方ないか。
「陛下がお倒れにでもなったら、この国はどうなりますか」
どうなるだろう。
少なくとも、先ほど解決した筈の反乱分子はすぐにも復活するだろう。
大人しく見えている近隣諸国も、我が国に取って代わろうと反旗を翻すかもしれない。
国は荒れて、民は辛い思いをするだろうか。
だが、今はそんなことは、どうでも良かった。
「……お前は?」
お前は俺に出入禁止を言い渡した後、どうしていた?
お前のところに現れないのは、他の妃の元に通っている訳ではなく、執務室にこもっているからだということは、多分侍女頭辺りから聞いていただろう。
「お前も俺の心配をしたか?」
本当はそう聞きたい訳ではない。
本当は。
少しは寂しかっただろうか。
俺に会いたいと思ったか?
俺の体温を思い出すことはあっただろうか。
「当たり前です」
それは。
「俺が倒れたら、国が混乱するからか?」
一体、俺は何を言っているのだ?
「陛下!」
妃は身を起こした。
また、怒らせたらしい。
俺は、顔を半分シーツに埋めるようにしながら、それでも、見下ろしてくる彼女に視線を向けた。
俺をじっと見つめるセピア。
怒っているかと思いきや、そんな風はまったくなく、何かを探すように、確認するかのように俺を見つめる。
「……陛下?」
妃の手が、俺の額に触れた。
ひやりと冷たい手。
人の手とは、こんなに冷たいものだったか?
「熱がおありです」
なるほどな。
俺の体温が高いのか。
発熱なんぞ、何年ぶりだ?
小さな頃はひ弱で、よく熱を出したものだ。
そのたびに、まだ生きていた母が、泣きそうな顔で夜通し看病していた。
「陛下?」
彼女は、また眉を寄せた。
だが、今度のそれは完全に怒りでなく心配。
母と同じように、泣きそうな顔で俺を見ている。
「……大丈夫だ」
言えば、手のひらが額から頬に移る。
その心地良さに俺は目を伏せた。
どうやら、本当に熱があるようだ。
「医師を呼びます」
冷たい手が離れようとする。
「いらん」
俺はその手を捉えた。
半身を起こし、彼女の腰を抱いて縋る。
拒否らしい動きなどないのに、離さぬと腕に力が篭る。
「お前のせいだ」
ダダをこねる小さな子供。
分かっていても、己の行動が止められない。
彼女の腹部に顔を埋める。
「お前が俺を拒むからだ」
言ってしまってから。
そうではない、と思いつつ。
何がそうではないのか、分からない。
「なんだ、俺は」
訳が分からない。
こんな風な俺を、俺は知らない。
「何を言っているんだ?」
完全に混乱している。
まずい。
これでは、本当に弟妹並みだ。
いたたまれず彼女から離れようと頭を上げた。
「陛下」
彼女の腕が、その俺の頭を抱えるように周り、胸元に抱き寄せる。
「お疲れなのです……私などで良いならば、いくらでもお側におりますから」
先程のお伽話といい、完全に子供扱いだ。
しかも、俺の行動は、そう扱われても仕方がない程に、大人げない。
だが、俺は子供ではないから。
柔らかな胸に頬を押し付けられ、宥めるように指が髪を梳き、手のひらが肩や背を撫でる。
そんな彼女の慈悲深い仕草にも、燻り続けていた欲望は煽られるばかりだ。
どんなに母のような貌をしようと、これは母親ではない。
俺が欲しい女だ。
俺は抑えきれずに、目の前にある彼女の胸元に口づけた。
布越しとはいえ、香りと柔らかさに瞑目する。
一気に身体が高ぶる。
俺の身体は、勝手に動き、彼女を寝台に押し付けた。
「陛下!?」
彼女は驚いたように目を見開き、だが、伸し掛かり喉元に喰らいつく俺を押しのけようとする動きはない。
むしろ、信じられないことに、彼女は俺の首へと腕を回し、抱きしめてきたのだ。
そんなことをされて、疲れに麻痺した、熱に浮かされた理性が崩壊しない筈がない。
俺は彼女の寝着の腰ひもを解いた。
「陛下」
彼女の腕に力が入る。
俺に身を寄せるようにして、俺が身を寄せるようにして。
身体が重なる。
俺の手は、組み敷いた彼女の肌を探り、唇で彼女の首筋の線を辿る。
「お願い……です」
彼女は俺の一切を咎めない。
俺を抱く妃の腕は、そのままで。
拒む動きに変わることはない。
「……私などで良いなら……お望みのままに」
私など……ではない。
お前が欲しい。
俺は、お前だけが欲しい。
「ですから、休んで下さい」
今なら、彼女を抱けるだろう。
彼女は決して拒まない。
だが、これは彼女の本意か?
正妃としての義務感に、俺を休ませねばという使命感?
弱った男に対する同情? もしく憐憫?
誰かしらの進言もあっただろうか。
俺に対する想いはそこにあるか?
熱に浮かれて尋ねれば良いものを。
熱に弱って、口にできなかった。
結局、俺は欲を抑えた。
この時、彼女の心中にある想いを知っていれば、俺は決して欲望を抑えたりはしなかった。
極度に疲労した身体が、種の保存本能とやらで猛るがままか。
募った想いが熱に浮かされるままか。
何にしても、彼女を貪りつくしただろう。
「……分かった。休む」
こんなところだけ熱があろうと、強固な俺の意志は、彼女の上から身を退かさせた。
何も言わず、身体を起こし、俺の乱した寝着を整える彼女は俺から顔を背けて、その表情は見えなかった。
「……お休みなさいませ」
小さな声が掛けられるのに、頷いて。
俺は、愚かにも眠りに着いたのだ。
彼女の膝枕で。
彼女の手を握って。
それにどれだけ彼女が傷ついているかも知らず。
思わず、キーワードに「へたれ」といれてしまいました。
それは陛下のことなのか、作者のことなのか……。