その7
私の夫である陛下が、この部屋を訪れてまずなさること。
それは、私を抱き寄せて頬に口づけすること……だったりする。
ただし、これは、ここ少しの間に出来上がった慣習。
いったい、いつからこんな風になったのかしら。
なんて、言うのは白々しいばかりで、それははっきりと分かっている。
あれ以来。
年甲斐もなく、小さな子供のように感情を高ぶらせ、陛下をずるいと責めたあげくに、泣いてしまったあの時以来のこと。
でも、時期ははっきり分かっていても、どうしてこうなったのかはよくわからない。
どうして、あの状況からこの状況に繋がるのかしら。
もっとも、それ以前にわからないのは、どうして泣いてしまったのか、ということだけど。
陛下がことあるごとに10年前の私を探す……でも、それって当然。
求めていらっしゃるのは、あの頃の私……これ、当たり前。
そうして、現在ここにあるすっかり大人になった私と、あの頃の少女であった私の落差に、事あるごとにお気づきになり、いずれ、落胆ばかりになる。
ああ、時が経ったのだな、と思われるだろう。
この年増の女は、初恋の少女とは違うのだ、と。
いずれ遠くない未来にも、失望なさって私は国に帰されるだろう。
それは、私がここに輿入れした時から思い描いていた未来で、私の望んでいたことの筈なのに。
なのに、涙が零れてしまった。
ふと、陛下が漏らされる10年前の私を見つけた時の言葉や、懐かしいような笑みが苦しくて。
そのくせ、私には今の陛下を見るようにおっしゃるのが悔しくて。
陛下に言われて、初めて気がついた程に、知らぬうちに涙が溢れて止まらなかった。
あれはどうしてかしら。
本当にわからない。
一時の多忙な時期は過ぎたようで、陛下は一日か二日置き……場合によっては連日、私の部屋に現れる。
「お帰りなさいませ」
そして、執務を終えた後、正装も解かずにまっすぐにここを訪れたのであろう陛下を、私はこの言葉で迎える。
「ああ、ただいま」
答えながら、逞しい腕が私に伸びてくる。
慣れって怖い、と思う。
抱き寄せられて強張るばかりだったのは、何度目までだったかしら。
こうして、陛下の腕におとなしく納まって、頬へのキスを受けているなんて。
私的初対面……10年前の陛下を覚えていないもの……ではその視線の鋭さに慄き、初夜ではこの方の雄々しさに怯えたのが嘘のよう。
頬へのキスが髪へと移る中、私は陛下の堅苦しい正装を解くべく、目の前に並ぶボタンに指を伸ばす。
これも妙な慣習だわ。
本来なら、妃ではなく、たくさん控えている侍女の仕事。
だけど、いつだったか、長女の習性で、ついお世話をしてしまったのを始まりに、この部屋ではすっかり私の役目となってしまったらしい。
私が陛下の衣服を寛がせ始めたのが合図だったように、今日もこの仕事はなしだとばかりに、何人といた侍女が一礼して部屋を出ていく。
皆さん、お給金分は働いて下さい。できれば、この方を私から引きはがして、粛々とお仕事をこなして欲しいのですが。
と言いたいところだけど、私が拒めない陛下を、侍女達がどうにかできる筈がない。
この部屋に戻るなり私を抱きしめて、そのままなかなか離して下さらない方が満足するまで、ずっと侍女を待たせるのも悪いし、何より陛下に抱かれている姿を見られるのがいや。
私と陛下が不釣り合いなことは、十分承知している。
今更、改めて知らしめることもないと思うの。
だから、結果として侍女には出て行ってもらって、私が陛下のお世話をするというところに落ち着く。
「陛下。おとなしくして下さらないと、ボタンが外せません」
頬から髪へのキスに留まらず、目元や額に触れてくる陛下の唇のくすぐったさに身を竦めながら、私は非難を口にした。
本当に、慣れって怖いわ。
こんな状況にパニックにもならず、私は淡々と陛下の正装を脱がし終え、唯一部屋に残っていた侍女頭にそれを手渡した。
「何か召し上がられますか?」
そろそろ、離して欲しいと思って、そっと胸元を押しやりながら尋ねる。
「そうだな」
私の小さな抗議は広い胸にあっさりと却下される。
仕方ない。
陛下が満足するまでここで大人しくしていよう。
慣れるのと共に、諦めるのもすっかり早くなったわ。
「では、何かお持ちしましょう」
「軽いもので良い」
陛下の返事を聞いた侍女頭がそれを準備するために、部屋を出て行ってしまって二人きりになる。
まだ、離してくれないのかしら。
なんだか、いつもより長め?
「陛下、そろそろ離して下さいま……」
見上げて抗議を口にしようとすると、陛下の顔が近づいてきて、唇に口づけられた。
軽く触れて、離れていく。
「……もう一度、良いか?」
なぜ、一度目は何も言わずになさるのに、二度目はお尋ねになるのかしら。
しかも、返事をする前にもう一度口づけられる。
これも軽く触れるだけ。
深いキスは、あの時の一度だけ。
それ以来、こうして戯れられることばかりで、一向に何かなさる様子はない。
別にして欲しい訳ではないのよ?
なんて言うか。
その気配も全くない、から。
これは、結局のところ、やっぱり私は陛下が思っていらっしゃったのとは違っていて。
本当は、もうすっかりなさる気がないのではという気がしてきて。
それにね。
落ち着いて考えてみれば、この方の望まれることって、弟妹と同じなんですもの。
膝枕でしょ。
あと、添い寝。
着替えのお手伝いに、それから、いつかは果物も食べさせて差し上げたわね。
いずれ、お伽話も所望されたりして。
そう思えば、この口づけだって、少しばかり場所が違うだけで、弟妹とするものと変わらない。
今の私のことを好きとおっしゃって下さったけれど。
その想いは、本当なのかもしれないけれど。
でも、陛下は少し勘違いをしていらっしゃるのかも。
本当の陛下のお心は、私に恋をしたという8歳の頃が懐かしくて。
その頃と、同じことがしたいだけなのではないかしら。
そうなら、それで良いの。
そうして差し上げることは、別に嫌ではないもの。
ただね、私に求めているのはそうだと、きちんと教えて欲しい。
そういうことで良いのかしら、と探っている感じが少々もどかしくて。
私を抱き寄せながら、その先に進まないのは何故かしら……なんて、思い悩むのが……この感じは。
面倒?
そう、面倒なの。
それ以外に、理由はない。
陛下の口づけは、またも目元や頬に。
本当に、そろそろ離して欲しい。
なんだか……何故か分からないけど、また、泣きたい気分になってきたから。
「何をなさるの!!」
なかなか、離して下さらない陛下からどうやって逃げようかと考えていた私の耳に、突如、女性の激しい声が届いた。
「何の騒ぎですか?」
ちょうど、陛下への軽食を持って、戻ってきた侍女頭が答えてくれる。
「……また、あのお二人ですわね」
「また?」
私は、これをきっかけに、陛下の腕からすり抜けた。
「おい」
不満げな声を聞こえぬ振りでやり過ごし、テラスへと出る。
少し離れたところで、二人の女性が言い争っているのが見えた。
大声でのやり取りは、早口で捲し立てあっているため、何を言っているのかまでは聞き取れない。
だが、段々エスカレートしていく様は、はっきりと見て取れる。
パシン!
というのは聞こえなかったけれど、小気味良い音が響いたと想像がつく動作が目に入る。
あ、あれは痛い。
頬をはたかれた女性は仕返しとばかりに、相手の髪を掴んだ。
このまま放っておけば、取っ組み合いになりそうな勢いだ。
見兼ねて、私はテラスから降りて、そちらへと近づいた。
二人の顔がはっきり分かるほどに近付いた頃には、騒ぎを聞きつけた後宮の女性達や、止めるべきかを迷いつつ面白がっているような衛兵達が取り囲んでいた。
私は、それをかき分けて、中央へと近付いて行く。
「いい加減に……」
喧嘩を止めようと声をかけかけて、気が付く。
ああ、そうね。
ヒステリーを起こしている方々には、こんな声じゃ聞こえないわよね。
私は思い切り息を吸い込んだ。
そして。
「いい加減になさいませ!」
お腹の底から、声を上げた。
ざわめいていた周りが、シンと静まる。
そんなの予想の範疇だから気にせず、はっとしたようにこちらを向いた二人に言い聞かせるように声を張る。
「何をみっともなく争っているのですか!」
取っ組み合い、引っかき合い、引っ張り合い。
結果としてぼろぼろとなった二人の美女は、唖然といった風で私を見た。
まあ、驚くでしょうね。
今までの……この後宮で大人しくしていた私の様子が、私本来だと思っていたなら。
でも、私は、多くの弟妹を抱える長女だ。
こんな喧嘩の仲裁は、自慢ではないけど、しなれているの。
「一体、何が原因なのですか?」
大人しくなって、へたり込んでいる二人に、私は尋ねる。
こんな騒ぎになるほどの大事を放っておくわけにはいかない。
例え、形ばかりの正妃であろうとも、私はこの後宮において最高位にあり、ここの秩序を保つのは私の役目だ。
「……どこか修道院にでも行ってしまいたいと言いましたの」
答えたのは、確か隣国からお輿入れされた方だと聞いている。
美女というよりは美少女と言った風情の小柄な方で、赤い頬が痛々しいばかりだ。
「……どなたか、冷やした布をお持ち下さいな」
私は見物人となり果てている方々に向かって言ってから、「それで?」と先を促した。
「そうしたら、頬を叩かれて……」
「私、少し前までは、この方と陛下の寵を競っておりました!」
遮るように言うのは、喧嘩のお相手だ。
こちらの方は、華やかな顔立ちと豊満な肢体をお持ちのいかにも美女らしい美女。
確か、この国の貴族のお一人の御令嬢。
このお二人が陛下の寵妃な訳ね。
陛下って……好みが分からないわ。
「新たな寵妃が現れたからと言って、オメオメと引き下がるなど、情けないではありませんか!」
新たな寵妃……って私ですか?
私でしょうね。
このお二人に比べると随分と見劣りしますけど。
「ですが」
美少女が唇を噛み締める。
「私、貴女に負けまいと頑張って参りましたのに!」
美女が熱く語る。
ああ、この二人って。
よくこうやって言い争っているのだろう。
今日はそれがエスカレートして、こういう事態になってしまったけれど。
「でも、陛下の正妃様へのご寵愛ぶりを見れば、もうこれ以上は!」
「まだ、そんな弱音を!」
美女の手が、美少女に伸びかける。
「おやめなさい!」
私はまたも声を張った。
振り上げられた美しい手がピタリと止まり、二人揃って私を見る。
「要するに貴女方は仲が良いのね」
そう、この二人、仲が良いのだ。
お互いにお互いを認めているから、言いたいことを言い合える。
だって、美女の前で、弱音を吐いたのでしょう?
だから、美少女が弱音を吐くことが、腹立たしいのでしょう?
「は?」
思いがけないことを言われたとばかりに二人はポカンと私を見上げた。
その様が、全く似ていない筈の二人を、姉妹のようにも見せて私はつい笑みを零した。
だが、その笑みを消して、ピシリと言う。
「言いたいことを言い合い、お互いに磨き合うのは結構。ですが、一々騒ぎ立てられては迷惑です」
こういうことは、きちんと言っておかないと。
後宮は多くの女性が陛下お一人のためにお仕えする場所。
諍いが絶えないことは仕方がないこと。
でも、それでも、陛下がお寛ぎになる場所であって欲しいし、心安らかでお過ごしになる場所でなければいけないと思うの。
「以後、お慎みなさい」
お二人は、慌てた様子で身を正し
「「はい!」」
揃っての行儀良い返事に満足して、私は振り返った。
その場には……目を丸くしたり点にしたりする、後宮に住まったり、後宮を守ったりしている面々が居並んでいた。
あら。
もしかして、余計なことをしてしまったかしら。
隅っこで、小国の姫君然と大人しくしていれば良かったかもしれない。
でも、放っておくことができなかったのだもの。
気まずい空気が流れる中に、押し殺したような笑いが聞こえてきた。
そちらを見遣れば、人だかりの後ろでその人が笑っていた。
「陛下!」
私は、堪え切れないように声を上げて笑い始めた美丈夫へと近づいた。
「何を笑っていらっしゃるの?」
何故か、少し腹立たしい。
ううん、少し、ではないかも。
どうして、こんなに苛立たしいのかしら。
「うん、相変わらず見事だな、と思って……お前を正妃に迎えて正解だったな」
カチンときた。
私は、後宮の平穏を守るために正妃になったの?
ならば、言わせて頂こうではないか。
「そもそもは」
私は、陛下に詰め寄った。
「陛下がこちらの方々を蔑ろになさったことが原因ではありませんか」
私が召し上げられる前は、通っていたのであろう方々。
私が正妃となってからは、多分、通っていらっしゃらないのだろう。
でも、彼女達は実際に陛下の寵を受けていた方々。
私は寵妃と言われたけれど、本当の私は、あの方々より、陛下から遠い所にいる。
「それは……しょうがないな。俺はお前を手に入れたから」
手に入れる気など、本当はないのでしょう?
初恋の思い出に少々浸ってみたいだけ。
ついでに、年を経ている分、道理をわきまえていて、後宮を仕切れる都合の良い正妃?
「戯れ事は結構です」
私は陛下から身を引いた。
背を向けて、部屋に向かう。
「おい」
後を付いて来ようとなさるのを、振り返って視線で止める。
「しばらく、私の部屋への出入りはお断り申し上げます!」
勢いで言い放てば、陛下は珍しくもあからさまに慌てた様子を見せた。
けれども、私の苛立ちは、納まる気配がない。
ああ、もう嫌!
「おい?」
「反省なさいませ!」
伸びてくる腕を避け、背を向けて歩き出す。
背中に陛下の気配と
「ちょっと待て!」
という声。
本当に、ついてこないで。
自分でも持て余すこの感情の高ぶりでは、どんなことを陛下に言ってしまうか。
「今夜は他でお休み下さい!」
振り向きもせずにそう言って、私はシンと静まりかえっている人だかりを後にした。
部屋に入り、そのままベッドに倒れ込む。
これは、何?
なんで、こんなに腹立たしいの?
どうして、こんなに。
哀しくて。
切なくて。
もう訳が分からない。
「陛下の馬鹿!」
修道院に行きたいのは、私の方だ。
不敬罪で、国外退去でもいい。
とにかく私は、少しでも陛下から離れたいと願っていた。
お妃さま、キレる! の巻でした。
どうする、陛下!
ここで、終われる筈がないので、第8弾を近々必ず!