その5
嫁き遅れという称号を手に入れて早幾年。
そろそろ修道院にでも行くことを考えた方が良いのかしら、なんて思案し始めていたところに舞い込んできたのが、この輿入れのお話だった。
常に温和な笑みを浮かべている父王が、珍しくも真剣な顔で「輿入れ先が決まった」と言うから、老い先短いどこぞの貴族の後添いにでも決まったのかと、神妙に待つ私の耳に届いたのは信じられない国名だった。
いやいや、まさか。
私の頭は即座にそれを否定した。
似た名前の辺境国に違いない。
絶対に、そう。
だが、しかし、父王の隣に立っている、娘の性格を知り尽くした母が、私の思考を見越してきっぱりと言い切った。
「……そのまさか、の大帝国ですよ」
と。
私の思考は、一瞬停止した。
その後、一気に頭を巡るのは、かの国のお国事情。
確か、あちらは先日、先帝が位を退かれ、新しい皇帝が御即位されたばかりの筈。
とすると、あれですか。
寂しい余生を少しばかり楽しくするために、先帝が新しい側女を……。
「……輿入れするのは、先帝ではなく現皇帝です」
私の浅はかな考えもまた、鋭い母にあっさりと否定される。
現皇帝?
それこそ、まさか、でしょう。
先ほど御即位された新皇帝といえば、その手の話に疎いらしい私にさえ聞こえてきている御方だ。
先帝も賢帝と名高い方であらせられたけれど、それに劣るところのないばかりか、皇太子の頃から既に父皇帝を凌ぐ力量を迸らせていらっしゃった方だとか。
しかも、侍女達のかしましい噂によれば、かなりの美丈夫らしい。
いや、能力も容姿も、不敬ながらこの際どうでも良い。
かの御方は、確か。
「18歳になられ、正妃を迎えられることになり、お前を是非にとご所望とのことだ」
そう!
18歳!
私よりも7つも年下でいらっしゃるのだ。
って、ちょっと待って。
聞き捨てならない単語を、今、父は口にしなかった?
「……せ、いひ?」
せいひ……正妃。
つまり、正妃!?
「あり得ません!」
私は作法も礼儀も吹っ飛ばして、叫んでいた。
数多くいる側女の一としてならば、物好きに年増の一人も加えようと考えることもあるかもしれない。
でも、正妃って、普通は一人。いくら大国でも、そこは違わないでしょう。
そのたった一人に私を据えようって、それはあり得ないでしょう。
私の個人的資質は言うに及ばず、国力からしても分不相応だ。
「これは既に決定事項なのだよ。断ることは許されぬ」
父が無情にも言い切った。
それはそうでしょうとも。
我が小国ごときが、大国からの恐れ多くもありがたいこのお話を断れる筈がない。
でも、ですね。
お父様、分かってますか?
私、今年で25歳ですよ。
先日、13歳で嫁いだ妹姫より、はるか12年も長く生きている身です。
今更、どんな顔して大国の正妃に……それも、7つも年下の皇帝に嫁げと?
「……使者の方によれば、万事かの御国でご準備頂けるとのこと。お前の身一つ以外、何もいらぬ故、早々に国を発つ準備をせよ、とのことだ」
つまり、あと必要なのは、私の心構えだけってことですか。
そんなもの、10年前ならあったかもしれません。
でも、今はありません。
しかも、年を取ると柔軟性もなくなるんです。
心も頑固になってしまうんです。
だから、急に、そんなことを言われても、無理。
上辺だけでも、にっこり笑ってお受けします、なんて絶対言えません。
怒りたいやら、泣きたいやら。
父王は私の視線を受け止めきれないように顔を逸らす。
意気地なし。
その隣で、どうしてか微笑んで、私を見つめる母。
どうして、呑気に笑ってるんですか!?
声に出さない私の思いは、やはり鋭い母には伝わったようだ。
「ありがたいお話ではありませんか。かの御方は……」
「これ」
宥めるように何かを言いかけた母を父が遮る。
「とにかく、これは決まったことだ。3日後には使者の方と共にここを発つことになる」
それは、また随分と急ではありませんか。
これ以上、年取る前にさっさと旅立てということですか?
ああ、なんてこと。
こんなことなら。
「……とっとと修道院に行っておけば良かった」
そちらの心構えの方がよほどできている。
私の呟きが聞こえた母が何か言いたげに、だが、結局何も言わずに優しく微笑んで抱きしめてくれて。
私は、もう何も考えたくなくて、幼子のように母の胸に顔をうずめて目を伏せたのだった。
それから、あれよあれよという間に準備は整い……正直、大国に正妃として輿入れするなんて大事の準備を、随分と戸惑いなく進められるものだと思っていたのだけど、それは、この国に来て理由は分かった。
この輿入れの話は私の耳に届いていなかっただけで、10年も前からあった訳だものね。
準備だけは、着々と進めることができていたのだ。
私だけが訳が分からず置いてきぼりにされる中、あっという間にこの国に到着し、結果として形ばかりとなった初夜を過ごし……現在に至る。
「はあ……」
先日、私は意を決して陛下の寵を受け入れる意思を見せた。
いろいろなことはさておき、私はここに妃としてきたのだから、その責務は果たすべきだと思ったの。
こんな年増を、初恋という幻想とは言え、思し召しならばありがたいことだと思ったの。
どうして誘えば良いのか分からないながらも、どういう訳か事は進んで。
陛下が私を抱き寄せ、口付ける素振りを見せた時には、心臓が止まるかと思ったわ。
あの端正な顔が息がかかるほどに近づいて来た時は、初夜と同じように私自身のみすぼらしさを思って泣きたくなった。
それでも、逃げたがる身体を必死に抑えて、陛下の望むとおりにしようとした。
でも。
『お前にも望んで欲しいのだ』
陛下は、動きを止めて、そうおっしゃった。
『俺がお前を欲するように、お前にも俺を欲して欲しい』
それは、いつものような凛と響くお声でなく。
囁く時の甘さもなくて。
ひどく辛そうな、掠れたそれに、私は何も言えず、ただ抱きしめられていた。
『立場で差し出されるだけの身などいらん』
身だけではだめだと、陛下はおっしゃる。
私の心を見透かす言葉に、私の行為がいたく陛下を傷つけたのだと気がついた。
私の不用意な言葉は陛下を傷つけるのだと知った。
それにとても驚かされた。
そして、気がつかずに起こした己の浅はかな行動を、とても悔やんだ。
心が、産まれて初めてというくらいに軋んで痛んだの。
『俺は、お前の全てが欲しい』
そう告げるお声も、痛々しくて。
真摯にお応えしたいと思った。
私にとって、陛下は今はまだ一人の男性ではない。
名ばかりの夫。
大国の皇帝である御方。
どれも、立場として与えられたものに過ぎない。
陛下が私に望まれるのはこれらを取り払って、あの方自身を見よとそういうことなのだと思う。
だから、私は陛下にお約束した。
陛下をきちんと見てみると。
皇帝ではない、私を好きだという一人の男性として見ようと。
でも、そうしたら、私はあることに気がついてしまった。
ううん、気がついてしまったというのは違うかもしれない。
そうであることは当たり前なのだから。
なのに、それを思い知ってから、私はどうしたら良いのか少し迷っている。
「はあ」
「随分と大きなため息だな」
そんな風に声を掛けられて、私は自分が盛大なため息をついていたことに気がついた。
いけない、いけない。
今は一人ではないのだわ。
件の日からここしばらく、陛下は私の部屋を訪れることはなかった。
正確に言えば、昼食や午後のお茶はご一緒して下さったけれど、夜はいらっしゃらなかった。
これは、あの件で呆れられて見放されたかと、きちんと見てみるというお約束もこのまま立ち消えかと、正直ほっとしたのだけれど、侍女頭が言うには、少々問題が起こり昼夜問わず宰相相手に話しこんでいらっしゃったとのこと。
『ここにいらっしゃる時が、陛下が唯一寛がれている時ですわ』
そう言われて、少しばかり嬉しい気がした。
様々なものを背負う方が、少しでもお休みになられることの手助けができるなら。
でも。
『早く夜もごゆっくりとお休みになれることができるとよろしいのですが』
未だ私が本当の意味での妃ではないと知っている彼女が、チクリと言うそれは聞こえないふりをした。
そういうのは、得意だわ。
様々な中傷をやり過ごして、嫁き遅れの日々を謳歌していたのだから。
とにかく、お忙しかった陛下は、ようやく問題がひと段落ついて、今日は一日休養日らしい。
朝も早くに突如現れた陛下は
『寝台を借りるぞ』
言うなり整えられたばかりのシーツに潜り込んでしまわれたのだった。
時計を見れば、陛下が眠りに就かれてから2時間ばかりが経っている。
「……お目覚めですか? 何か召し上がられますか?」
私は読んでいた、というか開いていただけで実際は読んでいなかった本を閉じて、寝台に近付きながら尋ねた。
陛下は寝台の上で大きく伸びをしながら
「お前」
私?
が、何?
意味が分からない。
ただ、目の前で伸ばされる体躯のしなやかさに、見惚れてしまったのを誤魔化すように
「もう一度おっしゃって下さいますか?」
お願いする。
「……なんでもない。腹は空いてないが……そこにあるのは何だ?」
陛下は二度目は口になさらなかった。
妙な笑いを浮かべつつ私の読んでいた本……先日、陛下がお持ち下さった歴史書の横にある水差しを指差した。
「果汁です。甘酸っぱいものですが召し上がりますか?」
陛下が頷くのを見て、私はグラスに果汁を注ぎ手渡す。
何度か見ている寝起きの陛下。
まだ、眠そうに少しぽやっとしながらグラスに口をつける様が、変に年相応で私はつい笑みを浮かべてしまった。
「……なんだ?」
不思議そうに見上げてくる陛下に、急いで首を振るう。
「今日はずっとこちらでお休みですか?」
別段、何か意図があっての問いではなかった。
だが、陛下は少々ご機嫌を損ねた。
眠りから醒めたばかりで、まだ皇帝としての権威を纏いきれていない方は、表情もいつもより分かりやすい。
「だめか?」
寝台に座っているため、私よりも幾分頭が低い位置にある。
珍しくも見上げてくる陛下に、私は首を振った。
「だめではありませんが……ここでよろしいのですか?」
陛下は怠惰に寝台に横になった。
「ここがいい」
シーツに埋もれて、こちらを見遣る様が妙に艶めかしくて、私は思わず身体を引いた。
「お前の香りがする」
はい?
しばし、その意味を考えて、思い至って、私は一気に頬が赤くなるのを感じていた。
なんてこと、おっしゃるのか。
「お前の夢を見て、目覚めたらお前がいて……」
シーツの香りを吸い込むように深呼吸をなさる。
「お前が横にいないのが、残念だな」
「……どうぞ、ごゆっくりなさいませ」
これが、並みの男性だったならば、寝台から叩きだしている。
でも、この方をお相手にそんな暴挙が許される筈もなく、私は情けなくも震える声でなんとかそう告げた。
「俺はここで勝手に休んでいるから、お前も好きに過ごせば良い」
陛下は寝台に肘をつき、そこに顎を乗せて私を眺める。
「……はい。何かございました、お声をおかけ下さい」
陛下が寝台から出る意志がない以上、私がするべきこともない。
私は椅子に戻り、本を手に取った。
ここのところ夜はゆっくりできたのに、いろいろと思うことが多くて思ったよりページは進んでいない。
過去の私なら、これぐらいの本ならば数日で読み終えていたのに。
今もそう。
本を開いて、文字を目で追い始めたものの。
「何かご用でしょうか」
ふと、顔を上げれば、先ほどと変わらぬ姿で陛下が私を見ている。
気がついてしまった途端、本どころではなくなる。
「いいや」
言いながらも、陛下の視線は外れない。
落ち着かない。
好きにしろなんて言われても、できる筈がない。
私は本を閉じ、勇気を振り絞りながら陛下に近付いた。
「あの」
陛下は態勢を変えぬまま、視線だけで私の動きを追う。
だから、見ないでください。
というのを、なんて申し上げればいいのかしら。
「……あまり見ないで頂けませんか」
結局、ストレートにそうお願いする。
「何故?」
何故って、恥ずかしいじゃないですか。
だいたい、見るとお約束したのは私の方でしょう。
そう思い、じっと陛下を見つめる。
最近、ようやく陛下が怖くなくなってきた。
初めて謁見が許された際には、怖いと思った視線。
今もその鋭さや強さは変わらないけれど、不思議と怖くはない。
こうして、見つめ返すことができるほどに。
「……なるほどな」
陛下はゆっくりと身を起こした。
なんていうか。
優雅。
なんだけど、どこか粗野な空気を纏うよう。
男性という生き物は、皆こういう動きをするのものかしら。
「あまり見られているのも考え物だな」
「……っえ?」
私は、いきなり手首を掴まれ引っ張られ、あっさりと崩れて倒れ込む。
「あ?」
何?
これは、何?
訳が分からず、反射的に顔を上げれば、驚くほど間近に陛下のお顔があった。
私は陛下の胸元に倒れ込んだらしい。
「その気になる」
陛下の腕が私の腰に巻き付き、思いもよらない強い力でご自身の方へと引き付ける。
心臓が跳ね上がる。
体温が急上昇。
それでも、私は広く厚い胸に手を置きはしたものの、陛下の成すがままに任せた。
「逃げないのか?」
陛下が本気なら、いくら足掻いたところで私は敵わない。
それに。
「陛下は……お待ち下さるとお約束下さいましたもの」
そうでしょう?
約束を違える方ではないと信じているもの。
だから。
「……お前は、相変わらず俺の扱いがうまいな」
陛下は、小さく笑いを零した。
『相変わらず』
10年前の私と比べての『相変わらず』だろう。
それは当たり前のこと。
陛下は10年前の私に恋をしたのだもの。
そして、今も10年前の私を想っていらっしゃって。
目の前にいる私の中に、恋した者の面影を探す。
それは当然なのだと思う。
思うのだけど。
陛下が過去の私を辿っていらっしゃることに気がつくたびに、その一つ一つは小さなものなのだけれど、たくさん心に引っ掛かったままになって、徐々に重みを増してきているような気がする。
だって、もし、10年前の私に恋をしなければ?
きっと、今の私など歯牙にもかけなかったに違いない。
そうなのだ。
この方が恋しているのは、ここにいる私ではない。
この方がお望みなのは、10年前の私。
そして、思う。
10年前の陛下を覚えていたら、今ここにいる私の心は違ったのかしら。
10年前の陛下を思い出したら、この方を見る目は変わるかしら。
でも、私は覚えていない。今のところ、思い出す兆しもない。
もし、お約束通りに、今の陛下を見て、今の陛下に想いを寄せてしまったら?
今の私の心は、どこへいけば良いのだろう。
そう考えると、お約束をしたものの、陛下を一人の男性として見ることは、とても危険なことの気がしてしてくる。
「どうした?」
俯いて自分の考えに没頭していた私は、顔を上げて陛下を見遣った。
どこかで見たことあるようにも思える、深い藍色の瞳が私を見つめている。
「なんでもありません」
答えると、陛下は少し不審げではあったけれど頷いた。
そして、私の腰を抱いた腕が少し緩まる。
離れるのかと思ったら、ことんと頭が腿の上に乗っかる。
いわゆる、膝枕。
「……やはり、お前の膝は気持ちが良いな」
それも、10年前を辿っていらっしゃるの?
目を閉じたお貌に、8歳の少年の面影を探してみたけれど、結局見つからない。
私の目の前にいらっしゃるのは、立派な体躯と低い声と落ち着いた物腰を備えた一人の成人男性だった。
今は、このように10年前の想いと、現在のお心が重なっているように見えていても。
いずれ、私が10年前の初恋の少女とは、すっかり変わってしまったことに気がつかれるだろう。
その時に、私の心が迷子になってしまうようなことになりたくない。
年をとると柔軟性もなくなるけれど、回復力も弱まるし、次に行こうという前向きな精神も衰えていくんだもの。
だから、陛下とのお約束を守ることに、私はとても迷っている。
「もうひと眠りできそうだ」
陛下の大きな手のひらが私の手を取り、そこに唇を寄せる。
早くなる鼓動と赤くなる頬を持て余しながら、やっぱりさっさと修道院に行ってしまうべきだったかもしれない、と私は考えていた。
年を経ている分、悩めることも多い訳で。。。
まずいよ! お妃さまがちょっと後ろを向いちゃっているよ!
どうする、陛下!?