その2
2日目の夜。
ようやく正妃として迎え入れることのできた女は、俺の姿を見てぱちくりと目を瞬いた。
「どうなさったのですか?」
おい。
「それが輿入れ二日目の夜に、寝所を訪れた夫に言う言葉か?」
俺が半ば呆れながら思わず呟くと、彼女は引きつった笑顔で
「……昨日の今日なので、今夜はどちらかへいらっしゃるものと」
正直にも、心中を暴露してくれる。
つまり。
昨夜、俺は不完全燃焼を強いられたから。
しかも、お前には何もしないなどと、約束までしたから。
だから、今日は他の女のところに行くだろう、と。
そう踏んでいた訳か。
「そこまで不実ではないつもりだがな」
確かに、この後宮は腐るほどの美姫に溢れている。
手をつけたのも、一人や二人ではないことも認めよう。
しかし、本気を分からせると言ったその舌の根も乾かぬうちに、他の女の元に通うのは、いくらなんでもありえないだろう。
もっとも俺にしてみれば、それ以前の問題だ。
俺にとっては、どの女もお前の代わりに過ぎない。
そのお前自身を手に入れんとしている今、他の女を構っている暇があろう筈がない。
しかし、彼女は俺の心中など知らぬげに
「私はそれで陛下を不実だとは思いませんが?」
耳に優しい声で、あっさりとつれないことを言ってくれるではないか。
「陛下には陛下のお立場がおありでしょう? 私などお気になさらず、今まで通りになさって下さい」
正妃としては、模範的な態度だ。
お前の言うとおり、俺の立場ならば、毎晩違う女の元に通ったところで、誰に咎められることもない。
むしろ、昨夜、お前にお預けを食らわされた挙げ句、何もしないと約束したなどと、こうるさい者達に知れれば、他に通えと進言されるばかりだろう。
だが、そんなすべてを差し置いて、お前のところに来ないではいられない俺の心中を、ここは慮って欲しいところだ。
しかし、彼女は嬉しそうな表情の一つを見せるでもなく、困ったという様子で俯き、落ち着かなげに寝間着の袖口や胸元の合わせを指先で整えている。
「俺が来ては迷惑か?」
自ら口にしておきながら、耳に響いた言葉に落ち込む。
迷惑。
それも、まあ、仕方ないのか。
俺にとっては忘れえぬ女性でも、彼女にとっては俺のことなど、記憶の片隅にも残らぬ出来事だったようだからな。
となれば、俺は権力をカサに彼女を手に入れた暴君か。
彼女に恋人がいなかったのは承知しているが、それも俺の策略だと言えなくはない。
もし、俺が彼女の人生に関わらなければ、今頃彼女はどこぞの男に嫁ぎ、暖かな家庭を築いていただろう。
それはひどく腹立たしい。彼女の傍らに、俺以外の男が在ることなど許せるものではない。
だが、一方で、それがあるべき姿だとも思えてくる。
まずい。
本気で落ち込んできた。
いつもの冷静沈着な俺はどこに行った?
「あの、陛下」
果てしなく沈んでいきそうな俺の思考を、愛しい女の声が遮る。
見遣れば、彼女は顔を上げ、少しばかり身を乗り出すようにして
「お気に障ったのならばお詫び申し上げます! 私、あの……慣れてないものですから……いい年をして情けないのですが……その、ですね……このように気にかけて頂いても、どうして良いのか……あの」
勢いよく話しはじめたものの俺が遠慮もなく見つめたせいか、再び恥ずかしげに俯いてしまう。
「俺がここにいて、迷惑ではないか?」
俺はもう一度問い掛けた。
きちんと彼女の口から、聞きたくて。
「もちろんです……お越しいただいて、ありがとうございます」
彼女は、少しばかりはにかむように、だが微笑んで答えてくれた。
ナイスフォローだ。
下り坂だった気分も浮上する。
だから、つい言っていた。
「俺の立場などどうでもいい。俺はお前に会いたくて、ここに来ずにはいられないのだ」
自分でも、よくぞサラリと言ってのけたという言葉だ。
彼女は、ポカンと俺を見つめた。
再会してからこっち、どうしてか、逸らされがちな瞳が、まっすぐに俺に向けられている。
色は、優しげなセピア。
思い出にあるのと、全く違わない彩り。
ああ、間違いない、お前だ。
俺が欲しくて欲しくてたまらなかった女。
想い続けた女が目の前にいるという現実に、ドクンと心臓が跳ねた。
その音が聞こえたかのように、彼女の瞳に意思が戻る。
そして、次にはパアッと頬が色付いた。
彼女の民族の特徴ともいえる白磁の肌が、鮮やかなピンクに染まる。
その色香ときたら、まさに匂い立つという言葉がぴったりだ。
俺が彼女以外の女性を正妃とするつもりはないと口にするたびに、挙ってどこが良いのかと問い質す奴等に見せてやりたい……馬鹿言え、こんな艶やかな姿、誰だろうと見せる訳にいかないだろう。
いや、だから、落ち着け、俺。
「……ありがとうございます」
先よりか細い、だが、よほど気持ちのこもって聞こえる言葉が心地好い。
「礼などいらない……これは俺の勝手だ」
更に本音を聞かせてやれば、いたたまれないように俯く。
耳まで赤く染めたその様は、どうみても年上のそれではない。
彼女を正妃に迎えるにあたって、一番問題になったのが7つという年の差だ。
俺自身、その年の差を埋めるために、自分を鍛え上げて来たと言っていい。
だが、こうして向き合ってみれば、年の差などまったく感じない。
それどころか、この後宮のどの女よりも物慣れない彼女の様子は、手を差し延べずにはいられない少女のような可憐さだ。
とは言っても、もちろん、少女ではないことは重々承知している。
昨夜、少しばかり確かめもしたしな。
彼女が俯いたのを幸いと、俺はしげしげと、念願叶って妻とした女を見つめた。
薄手の寝間着から伸びる手足は細く長い。
だから、全体的に華奢なイメージを持たせる。
しかし、昨夜触れた胸は予想外にふくよかで、辿った腰も脚も程よく張り、そして柔らかだった。
手の平と唇で触れた肌の温もりと香りまでが、リアルに思い出される。
ヤバい。
その気になってきた。
思わず手が伸びる。
ビクリと強張るその態度は、俺が何かすると怯えてるのか。
だとしたら、半分正解、半分ハズレだ。
しないと言ったからには、無理強いはしない。
だが、少しでもOKサインが出たら、すぐに頂いてやる。
今は理性を総動員して、長い黒髪を手に取り、先に口づけるまでに留めておくがな。
彼女は、顔だけでなく首筋までを色付かせながら、しかし、俺の行為を咎めはしない。
前言を撤回して、すぐにもベッドに連れ込みたい欲望を抑え、気を紛らわすためと、純粋な興味と、そしていくらかの下心を持って、俺は問い掛けた。
「荷は届いたそうだが、不自由はないか?」
彼女は紅い顔のまま
「荷は今朝方無事に届きました。ここはなにもかも行き届いていて、不自由など何もありません」
答える。
幼い頃から俺の世話をしている侍女頭の情報によれば、彼女の持ち物は趣味は悪くないが、この国の妃としては少々質素なものらしい。
彼女の国はそれほど貧しい国ではないが、それでも中央から離れている。
華美な調度品などは揃えられなかったのだろう。
「何か必要なものや……いや、欲しいものはないか?」
必要でなくともいい。
お前はどんなものを欲しがるのか。
彼女は首を傾げた。
「欲しいもの、ですか?」
俺はもう一度彼女の髪に口づけながら
「そうだ。贈り物は、気のなさ気な女性を口説く常套手段だろう?」
彼女は、俺を見て
「そうなのでしょうね」
サラッと答えた。
先ほどは物慣れない少女のようだったのに。
こんなところは、歳を相応に重ねた大人にも見える。
「欲しいもの……」
彼女は呟きながら、視線を上に向ける。
「あ、あります」
思い付いたという声が柔らかい唇……これも触れたから事実として知っている……から聞こえる。
「なんだ?」
俺は、身を乗り出して尋ねた。
「この国の歴史書を」
これは、俺の聞き間違いか?
「歴史書?」
あの分厚くて、歴代の皇帝の名やらその功績やらが延々と並べ立ててある、あれか?
「はい」
彼女は頷く。
「そんなもの、どうするんだ?」
彼女はキョトンとし
「どうって……読むんです」
当たり前に答えた。
それはそうだろうな。
しかし、あれを好んで読むのか?
俺は教養の一つとして一通り読んだが、面白いものではないと思うが。
あまりに想定外だ。
だが、別段問題があるでなく、俺は頷いた。
「明日にでもすぐ運ばせよう。それから?」
女性ならば、宝石でもドレスでも、いくらでもありそうなものだが。
しかし、またもや想定外の言葉が彼女から飛び出した。
「そうですね……庭師の時間を少し頂戴できれば」
庭師だ?
「何故?」
俺の問い掛けに彼女は、少し声を弾ませて
「とてもきれいなお庭ですもの。私の国では見かけない花々がたくさんございましたし、様式も初めて見ました。ですから、いろいろお話が聞けたらと思いまして」
庭師と庭を散策という訳か?
庭師は、確か30歳ばかりの好青年だったな。
二人で歩く姿を思い浮かべ……無性に腹が立った。
いや、実際はお付きの侍女やらがいて二人きりになることはないだろうが、それでも許し難い。
却下。
が、ちらりと彼女を見遣れば、期待に満ちた視線で、俺の答えを待っている。
これは、応えない訳にはいかないか。
ああ、そうだ。
俺同伴ならば許可。
「分かった。それも近い内に叶えよう」
言えば、彼女はとても嬉しそうに笑みを浮かべる。
却下しなくて良かった。
「ありがとうございます」
本も庭も、礼を述べられるほどのことではない。
「他は?」
俺は更に尋ねる。
「他、ですか?」
と、彼女はまたもや上を見つめ
「歴史書を読み終わるまでに考えておきます」
やがて、何も思い付かなかったように、そう言った。
俺はついため息を零した。
欲がないのか、遠慮しているのか。
どちらにしても。
「完敗だな」
白旗を降る。
欲望はなりを潜める気配はない。
彼女への興味は、更に掻き立てられるばかり。
「はい?」
そして。
「高価なものをねだられたら、キスの一つも礼で貰おうと思っていたんだが」
この下心が付け入る隙もない。
「な、キ……?」
彼女はみるみる間に、今までで一番というほどに真っ赤になった。
あまりに初々しい反応。
俺は煽られるままに、また、髪に唇を押し当てる。
「私のキスなど……歴史書1ページの価値もありません」
彼女は、真っ赤なままで、ぽつりと言った。
「それを馬鹿正直に受け取れば、あの歴史書を渡した際には、俺はその身体中にキスすることが許されそうだな」
俺は、渾身の理性を以って、彼女の髪を離した。
彼女は怯えたように、俺を窺っている。
「冗談だ」
下心があったのは事実だが、本気でその身のみを手に入れようなどとは思っていない。
「あんなつまらない本で、お前が手に入るとは思っていない」
そうだ。
俺は俺の想いで、お前の全てを手に入れる。
「陛下?」
俺は、彼女から離れ、ゴロンとベッドに転がった。
「お休みになられるのですか?」
柔らかな声が尋ねてくる。
「ああ」
俺は、隣のシーツををポンポンと叩いた。
彼女は、俺の手の動きを眺め、何かを思うのか、黙り込んだ。
「何もしないから、こちらへ来い」
また、辛い約束を口にすると、彼女は、はっとしたように
「申し訳ありません。陛下を疑っている訳ではないのです」
言って、俺の隣に横たわった。
柔らかな布地が、彼女の体の線を無遠慮に描く。
俺は、急いで目を伏せた。
「おやすみなさいませ」
昨晩と同じように。
10年前と同じように、彼女がその言葉を言う。
一瞬しか目にしなかった筈の、白い生地越しの彼女の肢体が、脳裏に散らついて俺の理性に挑戦してきた。
俺は頭の中で、彼女が願った歴史書の内容を、最初から唱える。
第一代皇帝……名は。功績は。
八代までたどり着いた頃、隣の呼吸が穏やかで規則的なものになっていることに気が付いた。
目を開ければ、夢ではない女が眠りに就いていた。
俺は、そっと小さな体を抱き寄せる。
現実。
俺はようやくこの女に手が届いたのだ。
まだ、完全に手に入れてはいないが。
今はこれでいい。
今はな。
言っておくが……いや、変に警戒されても困るから言わないが……こんな余裕を俺が持っていられるのも、そうそう長くはないぞ。
近いうちに、必ず、お前の心も体も手に入れる。
覚悟しておくんだな。
サクサクと書いた前作が、意外にもお気に入り登録をして頂けた方や、感想を下さる方がいらっしゃったので、続きを皇帝側の視点で書いてみました。
こちらもお気に召していただければ幸いです。